2018年09月03日

支離滅裂な留学生政策

【日本語学校の設置基準を厳格化へ 就労目的の来日防ぐ】
 海外からの留学生が増えるなか、法務省は10月から、「日本語学校」の設置基準を厳しくする。留学を名目とした就労目的の来日を防ぐのが狙いで、留学生が学業に専念できるよう、1年間を通じて授業を開講することを義務づける規定などを新設する。
 日本語学校は大学や専門学校と異なり、法務省が定めた授業時間などの基準を満たせば学校法人だけでなく、企業や個人でも開校できる。法務省などによると、今年8月時点で全国に711校あり、10年前の約1・8倍に増えた。また、日本学生支援機構によると、昨年5月の学生数は約7万8千人。5年前の約3倍で、留学生全体の3割近くを占めた。
 現行の基準は授業時間について1単位45分以上としたうえで▽1週間で20単位以上▽1年間で760単位以上――などと定めている。ところが、最近になって1週間の授業時間を増やすことで半年程度で年間の授業時間の基準を満たし、残りの期間を長期休業とする開設計画が寄せられた。留学生は原則、1週間に28時間以内しか働けないが、長期休業期間中は就労が1日8時間まで認められており、法務省の担当者は「長時間のアルバイトができることを売りにしようとしていたのでは」と話す。
 法務省はこうした点を問題視し、新たな基準では、年間の授業が35週にわたるよう規定。また、学校の運営チェック体制強化を促すため、1人で複数の日本語学校の校長を兼務している場合は、原則として副校長を置くことも求める。
 2016年に新たに不法残留となった留学生約1700人を、所属していた教育機関別にみると、日本語学校が51%を占めていた。基準改正の狙いについて、法務省の担当者は「日本語学校は日本語を学ぶための教育の場である、という本来の姿に戻すための環境を整える」と説明する。
(8月31日、朝日新聞)

単体の方針としては理解できる。実際ひどい学校が多いことも確か。しかし、一方で「人手不足」を理由に、留学生の就労可能時間を週20時間から28時間に緩和している。これは、財界の「1日4時間はアルバイトの実態にそぐわない」なる要望に起因しているが、どう見ても就労目的の留学生を増やすことが目的だろう。しかも、これでも足りずに自民党では「30時間超への緩和」が検討されている。まずは全体の方針と整合性を確保してから始めるべきだ。

【参考】
・留学生に労働力を求める日本
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2018年07月25日

奴隷育成システムとしての部活動

【「校舎80周走れ」生徒倒れ救急搬送 滋賀・中学部活顧問が指示】
 大津市の南郷中で、ソフトテニス部2年の男子生徒が部活動中に「校舎周囲を80周走れ」と顧問の教諭から指示され、途中で倒れて救急搬送されていたことが13日、同中や市教委への取材で分かった。生徒は熱中症と診断され、同中は「行き過ぎた指導だった」と謝罪した。
 同中と市教委によると、生徒は12日午後の部活動中、練習中にミスが目立ったことなどを理由に、30代の男性顧問から「校舎周囲を80周走ってこい」と命じられた。午後5時10分ごろ、生徒が倒れているのを校内で作業をしていた工事業者が見つけた。生徒は救急搬送され、その日の夜に退院し、13日は学校を休んで静養したという。
 生徒が走らされた校舎外周は1周約230メートルで、80周で18キロ超になる。生徒が倒れたのは9周目だったという。気象庁によると、大津市の12日午後5時の気温は30・1度だった。
 同中は、13日夜に保護者説明会を開き、経緯を説明した。平松靖之教頭は「行き過ぎた不適切な指導で、保護者におわびする。すでに顧問を指導した。今後は、安心した学校生活が送れるよう努めていく」とコメントした。
(7月14日、京都新聞)

ネットでは「軍隊でもこんな命令はされない」と話題になっているようだが、旧日本軍は20kgの生米と100発の銃弾を渡して、300kmの密林を抜け、4000m級の山を越えて2週間以内にポートモレスビーを攻略しろとか、チドウィン川を渡って2000m級の山を越えて密林を抜けて400km先のインド領内に飛び込めとか、あり得ない無茶な命令を下している。本当に恐ろしいのは、現実に辿り着くだけは辿り着いたということで、ポートモレスビーは街の灯りが見えるところまで進撃したところで後退命令が出たし、インド領内のコヒマに至っては2ヶ月近く保持して、さらにインパールから15kmの地点まで進んだ。だが、両作戦では、6割以上の損耗率(戦病死と行方不明)を出し、作戦目的未達成に終わった。

一般的にどの国の軍隊でも「しごき」が行われるのは、人格を否定し、何も考えずに指揮官に従う兵士をつくることで、戦闘参加や殺人行為の精神的ハードルを下げる目的がある。映画『フルメタルジャケット』が良い例だが、理論的には、グロスマン『戦争における人殺しの心理学』を一読することをお薦めしたい。
無意味な訓練を延々と繰り返し行い、兵を極度の疲弊状態にまで追い込むことで、「何も考えずに上官の命令に従う」精神状態を作り出すのだ。

日本の学校で行われている部活動も、目的は同じで、民間企業であれ公共団体であれ、上司に対して絶対的な忠誠を尽くし、膨大な仕事や無理な要求に対して文句を言うことなく、倒れるまでひたすら遂行する人材を育成するために存在する。民間企業であれ、公共団体であれ、採用に際しては圧倒的に体育会系人材が好まれるのは、そのためだ。

毎年、全国各地で同様の「業務上過失致死」が頻発しているにもかかわらず、何らの改善も行われないことは、現政府(後期明治帝政)が人命よりも奴隷育成を優先する姿勢を堅持していることを意味するが、それに対して何らの反発も起きない現状は、日本国民が天皇に隷属することに対して何らの疑問も覚えないほど洗脳されていることを示している。
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2018年07月17日

被告を殺す原理あるいは社会を生かす原理・続

7人の死刑囚が同時に執行された。これは共同犯行の場合は刑執行も同時に行う慣例に基づいているが、共犯者の全てでは無く約半分だけ先行という点で、慣例から外れているとも言える。
本ブログは、まもなく「激闘永田町編」を終えるので、この機会にもう一度死刑に対するスタンスを明確にしておきたい。ただ、基本的なスタンスに変化は無いので、主に過去ログから引用する。

死刑制度は、本質的に統治原理と司法制度の不公正の上に成り立っている。例えば、日本における殺人犯に対する死刑宣告率は、概ね1%強で推移しているが、殺人犯のうち1%の死刑囚と99%の無期あるいは有期囚の違いについて、合理的説明ができるのかと聞けば、非常に苦しい答えしか返ってこないはずだ。具体例を挙げれば、「殺したのが一人なら懲役だが、二人なら死刑」という原則は、統治上の便宜性(どこかで線引きする必要がある)に基づく判断でしか無いからだ。
この延長線で、殺人犯に対する死刑宣告率が1%強でしかないのに、「人を殺したら死刑」といった犯罪抑止力が働くと考えるのは、かなり無理がある。
また、恐らく多くの人は「日本は死刑の比率が非常に少ない」と漠然と思っているだろうが、完全な誤りで、死刑宣告率は米国のカリフォルニア州やヴァージニア州とほぼ同じだという。

日本の死刑制度は非常に特殊である。それは、いわゆる先進国の中で米国の一部と日本だけが死刑を残しているという点だけでなく、その米国に比しても特殊と言える。いくつか挙げると、

【普通の量刑の延長上に存在】 「無期じゃ軽いから死刑」=死刑判決を出すことに法的な過重コストが存在しない。米国では二段階審理(有罪認定と量刑判断)、事前予告(米国では死刑を求める場合は検察が事前通告する)、陪審員の全員一致などの担保がある。特に「陪審員の全員一致」は非常に重い。日本では単純化すれば、裁判官の一人と裁判員の多数が死刑を支持すれば、死刑が確定してしまう。結果、米国では弁護側は陪審員の一人を味方につければ死刑を回避できるが、日本の検察は裁判員の多数派を確保すれば死刑に出来る。

【極めて性急な審理】 裁判員制度の導入により、公判日程の進度向上と厳格化が図られ、最高裁は「90%の裁判員裁判を5日以内に終わらせる」という目標を掲げている。しかも、日本は米国と違って全ての証拠が検察から提示されるわけではないので、きわめて弁護側に不利な初期設定となっている。一般論としては「死刑は慎重に判断されるべき」と考えられているが、現実は死刑裁判のスピードは速められる一方にある。

【被害者の意見陳述】 一段階審理の日本においては、証拠認定をしている最中あるいはその前にすら、被害者が犯罪の過酷さを訴え、あるいは死刑を求めるシステムになっており、事実認定審理の中立性を大きく阻害している。しかも、被害者の意見陳述の裁量は裁判官に帰しており、これは日本では検察有利を意味する。例えば、2011年6月に千葉地裁で行われたある裁判では、被害者、被害者の両親、委託を受けた弁護士、検察官などが死刑を求める陳述に3時間15分も費やしたのに、弁護側に認められた時間はわずか60分に過ぎなかった。実質的には被告を死刑にするためのセレモニーと化してしまっている観がある。

【上訴権】 米国では死刑判決に際しては被告に対して自動的に上訴権が付与されるが、日本では普通の裁判と同じであり、近年の死刑判決のうち約15%が控訴せずに確定しているという。逆に検察は死刑判決が出なかった場合、2度まで「再戦」のチャンスが与えられる。ただでさえ検察有利な司法システムをさらに助長、まるで死刑判決を増やすことを目的としたような制度になっている。

死刑は万が一、誤審・誤判だった場合、取り返しがつかないことになる訳だが、日本では死刑判決を出すことに対して、慎重さを担保する法的あるいは制度的な担保が何もないことを意味している。そして、冤罪や警察・検察による証拠捏造が日常茶飯事であることは、足利事件や布川事件を始めとする再審や無罪判決によって明らかにされている。
和歌山の毒物カレー事件などに至っては、物的証拠も自白もないにもかかわらず、死刑を確定させている。これは、国民の誰もが死刑にされてしまうことを示しているにもかかわらず、日本人の8割以上が死刑制度を支持しているのは、異常としか言いようがない。

そもそも原理的に、近代刑法は応報刑や復讐を否定するところから始まっているはずだが、「あれだけの重大犯罪をなしたのだから、死刑になって当然」という声が非常に多く聞かれることは、近代刑法の原理が殆ど大衆に浸透していないことを意味する。

例えば、死刑の違憲性と残虐性が問われた、大阪で起きたパチンコ店放火殺人事件の地裁結審(2011年10月31日)に際して裁判長は、「死刑制度が存在する以上、精神的・肉体的苦痛を与え、ある程度のむごさを伴うことは避けられない」「死刑に処せられる者は多少の苦痛は甘受すべきだ」「残虐と評価されるのは非人間的な場合に限られ、そうでなければどのような執行方法を選択するかは立法の裁量の問題」などと述べている。
つまり、死刑が残虐な応報刑であることを認めつつ、政府の定めた方法による執行方法は必ず非人道的であるという話になっている。これは、死刑が懲役刑など他の量刑とは異なる次元の刑罰であることを示しており、そこに合理性を見つけるのは難しい。

もう一つ、死刑賛成論者から良く聞かれることに「死刑は国家による殺人ではない、殺人と一緒にするな」というのがあるが、これは処刑現場を知らないから言える話である。
日本の絞首刑の場合、拘置所の刑務官が死刑囚を連行、抵抗した場合は抑えつけたり、殴りつけたり、あるいはそのまま首に縄を掛けて強制執行することもあるという。刑場に入ると、刑務官が死刑囚の首に縄を掛け、足を縛り(手には手錠)、別部屋に待機している三人の刑務官が、各々執行ボタンを押し、そのうちの一つが有効で、床が外れて死刑囚が落ちて行く。

上記のパチンコ店放火殺人事件の裁判では、元最高検検事の土本武司氏が弁護側証人として出廷、死刑執行に立ち会った経験を振り返って、
「絞首刑はむごたらしく、正視に堪えない。限りなく残虐に近い」

「(絞首台の)踏み板が外れる音がした後、死刑囚の首にロープが食い込み、宙づりになっていた。医務官らが死刑囚の脈などを確かめ、『絶息しました』と告げていた」

「少し前まで呼吸し、体温があった人間が、手足を縛られ抵抗できない状態で(ロープにつられて)揺れているのを見てむごいと思った」

などと証言している。これでは、いかに取り繕ってみたところで、刑務官が「国家による殺人」を代行している現実を覆すことはできないだろう。

死刑制度とは「明日の安寧を担保するために今日の殺人を容認する」制度であり、それを国民・社会に代わって国家が代行しているに過ぎない。日本の場合、憲法が国民主権を規定している以上、国家と国民は同一の存在であるというのが建前になっている。しかるに、日本国民は「国家」が「死刑=死刑犯の殺害」を代行するに任せ、己は安寧のみを満喫している。国家が死刑を代行し、国民は己の手を汚す必要がないからこそ、死刑を支持するという構図がある。その死刑執行は、全て拘置所の刑務官が代行しているが、合法的殺人を許容する民主的正統性や人道性が問われることは殆ど無い。
故にケン先生は、裁判員制度によって国民が司法への参画を実現した以上、国民は自らの手によって、その最高刑を執り行うべきであり、それは無作為に選ばれた市民を任に充てる「国民死刑執行員制度」の創設を提起している。

ジャコバン派のサン=ジュストは「被告を殺すかもしれない原理を決めることは、彼を裁く社会を生かしめる原理を決めることである」という言葉を残して死刑に処せられたが、死刑の存在が、遠くない将来、狂乱する日本に大きな陰を落とす可能性は否定できないだろう。

【7月18日、追記】
「罪を犯した者のいのちを奪う死刑の執行は、根源的に罪悪を抱えた人間の闇を自己に問うことなく、他者を排除することで解決とみなす行為にほかなりません。そのことは決して真の解決とはならないでしょう。死刑制度は、罪を犯した人がその罪に向き合い償う機会そのものを奪います。また、私たちの社会が罪を犯した人の立ち直りを助けていく責任を放棄し、共に生きる世界をそこなうものであります」
(浄土真宗大谷派・東本願寺派の7/9声明より)

「死刑という究極的な暴力と排除によっては、被害者・遺族の悲しみと社会の傷は真に癒されず、事件の本質的解決にはつながりません。むしろ国家による新たな殺人を重ねることで、社会に対して残虐な暴力のメッセージを発することになります。私たちは「正義」の名によって行われるこうした殺人を断じて許すことはできません。実際、「不要な命は抹殺すべし」という誤ったメッセージを国家が率先して発し続けた結果、2016年7月26日未明、相模原の知的障害者施設で大量殺傷事件が起きてしまいました。この痛ましい事件からまもなく2年を迎えようという今、私たちは「必要のない命」などないのだということを改めて強く主張するとともに、そのことを日本政府にも、言葉と行いをもって明示するように求めます。」
(日本カトリック正義と平和協議会の7/6声明より)
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2018年06月13日

大学タダにしてやるから天下りさせろ?

【高等教育の無償化 学生が通う大学などに“条件” 政府が方針】
 低所得世帯を対象とする高等教育の無償化をめぐり、政府は、学生の通う大学などで、卒業に必要な単位の1割以上の授業を実務経験のある教員が担当していることなどを支援の要件とする方針を固めました。
高等教育の無償化をめぐり、政府は、年収380万円未満の世帯を対象に、所得に応じて段階的に大学などの授業料を減免するほか、生活費についても返済のいらない給付型奨学金を支払うなどの支援を行う方針です。
これに関連して政府は、納税者の理解を得るためにも、学生の通う大学などの要件を定める必要があるとして、検討を進めた結果、卒業に必要な単位の1割以上の授業を実務経験のある教員が担当していることや、理事に産業界など外部の人材を複数任命していることなどを支援の要件とする方針を固めました。
 また学生についても、成績の状況などを毎年確認し、1年間に必要な単位の6割以下しか取得していないときや、成績が下位4分の1に属するときは、大学などから警告を行い、連続して警告を受けた学生への支援は打ち切るとしています。政府は、こうした方針をことしの「骨太の方針」に盛り込むことにしています。
(5月31日、NHK)

> 単位の1割以上の授業を実務経験のある教員が担当していることや、理事に産業界など外部の人材を複数任命していることなどを支援の要件

お役人さんが天下り先を確保する天才であることは認めるので、議員と官僚の1割以上を年収380万円以下のポスドクに充てて、政官と知性のバランスを取りましょう(爆)

全く意味不明すぎる。
貧困層の大学進学を公的に支援するのは、階層の固定化を防ぐと同時に、人材を広く集めて競争させることで、人的資源の劣化を防ぐ目的がある。ひいては、社会的不満の抑制にもつながる。
世帯年収380万円というのは、いわゆる貧困ラインで、児童二人がいる世帯で全体の約18%になると見られる。つまり、貧困ライン以下の生活をしている家庭の子弟が大学に進学するために付与する奨学金制度を導入するのが、今回の「無償化」の目的である。
にもかかわらず、その奨学金を導入する条件として、「実務経験のある教員」や「外部人材の理事」を要求するのは筋違いも甚だしい。少なくとも、一部無償化は無条件で導入し、その上で高等教育改革の一環として制度要求すべきだ。

しかし、こうした制度要求を政府・文科省が行うのは、大学自治への介入であり、日本国憲法第23条の「学問の自由は、これを保障する」の侵害に相当する。
憲法23条が謳う「学問の自由」の英訳は「Academic freedom」であり、「何者からも拘束されない大学・研究(者)の自由」を意味する。この「学問の自由」を制度的に担保するものの一つが「大学の自治」であるため、憲法上に明記されていないとはいえ、大学の自由は学問の自由と同一線上に存在する。
実は、国際的に見た場合、憲法で学問の自由を保障している国は非常に珍しい。それは少なくとも自由主義諸国では「当たり前すぎる」ことで明記するのも憚られるためであり、わざわざ新憲法に明記したのは、日本においてはリアルに考えられる「危険性」だったからだ。
2年前に当時の下村文科大臣が国立大学における国歌斉唱を「要請」したことで、新憲法の起草者たちが抱いた危惧は現実のものとなったわけだが、いよいよ際限がなくなりつつある。

「実務経験のある教員」は一概には否定できない。かくいう自分も「日本の国会と政党に勤務した経験」を買われて中国の大学から招聘された。だが、実務経験はあくまでも実務経験であり、教育者や研究者としての能力を担保するものではない。ケン先生も何人か国会議員が大学教授に「天下り」したケースを知っているが、アカデミズムの水準を満たしていそうなのは、財務官僚上がりの人と京大の大学院を出ている人(確か修士)くらいなもので、残るは話を聞くに、およそ大学の授業として成り立っていない(詳しく書くとネタがばれる)。
博士号(PhD)があるにこしたことはないが、少なくとも研究論文に相当する水準のものを書けない人間に、大学生を指導する資格は無いことは間違いない。

「外部人材の理事」に至っては、鼻で笑うしか無い。同じ理由から導入された大阪市の民間校長制度が悲惨な結果に終わっていることは、もっと報道されてしかるべきだ。大学の場合は、単に文科役人や関連企業の天下り先に成り下がっている。仮に民間企業の経営者だとしても、大学運営・経営は素人のはずであり、「麻雀が上手いのだから、囲碁も強いだろう」みたいな話になっている。当然、それが通用しないから、全く効果を発揮していないとみるべきだ。仮に、民間理事・天下り理事が効果あるのであれば、日大のランキングは今頃東大を上回っているはずだ。

日本の高等教育は今後さらに質を下げてゆくだろう。
posted by ケン at 12:31| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月12日

自民党の高等教育一部無償化案は有効か

【年収380万円まで軽減方針 高等教育の負担で最終調整】
 政府は消費増税分を使った高等教育の負担軽減について、無償化する住民税の非課税世帯だけでなく、年収380万円未満の世帯も2段階に分けて支援する最終調整に入った。年収が多い世帯ほど支援額を減らす形で、2020年4月から導入する方針だ。
 支援の対象は大学や高専、短大、専門学校。住民税の非課税世帯については、国立大の場合は授業料を全額免除し、生活費は返還の必要がない給付型奨学金で賄えるようにすることをすでに決めており、これに準じて年収380万円未満の世帯も支援する。
 夫婦2人と子ども2人の家庭で子ども1人が大学生の場合、年収300万円未満の世帯だと非課税世帯への支援額の3分の2、年収300万円から380万円未満の世帯だと3分の1を支給する方向だ。マイナンバーで世帯の所得や資産を把握し、多額の資産があれば支援しない。学生の成績や単位取得状況を毎年確認し、状況次第では支援の打ち切りも検討する。
 幼児教育・保育とあわせた教育無償化制度の骨格として、近く「人生100年時代構想会議」の最終報告に盛り込み、6月の骨太の方針にも反映させる。
(5月28日、朝日新聞)

いかにも財源をケチる財務省と政治的アピールをしたい自民党の妥協の産物。
住民税非課税世帯というのは、夫婦二人子二人の世帯で概ね年収250万円ほどで、「児童のいる世帯」で考えると9.4%になる(2016年国民生活基礎調査)。この数字は年収400万円以下で20.4%になるので、380万円以下だと18%ほどになると推測される。

こちらは2009年のデータ(文部科学白書)になるが、年収400万円以下世帯における大学進学率が31.4%に対し、年収800〜1000万円世帯の同進学率は54.8%に至っている。
さらに世帯別年収と全国学力調査の正答率(算数B)を見た場合、年収300万円世帯の約49%に対して、年収800万円世帯が約60%になっている。これは、貧困家庭の子どもの学力の低さと進学の困難さを示している。
なお、高卒者と大卒・大学院卒者の生涯賃金格差は約4000万円あるが、この数字は今後さらに拡大して行くものと思われるだけに、階層の固定化が懸念される。
また、子ども二人世帯で長子が大学生の世帯では、2014年の貯蓄率でマイナス6.1%となっており、長子が高校生の世帯だと8.6%であることを鑑みても、いかに貯蓄を取り崩して、さらに借金して子どもを大学に行かせているか分かるだろう。

上記を総合的に鑑みると、自民党案は「やらないよりはマシ」だが、期待される政策的効果は非常に薄く、せいぜいのところ「三流大学に入った貧困家庭の子を支援する」くらいにしかならないと見られる。いわゆる「焼け石に水」であろう。
posted by ケン at 12:47| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月28日

人手不足の実態を暴露する教員不足

【広島県内35校で教員不足 授業できない学校も】
 広島県内の公立の小中学校など35校で、教員が決められた人数に達していない「欠員」の状態にあることがわかりました。呉市では4月、授業を受けられない生徒がいた中学校もありました。
広島県教育委員会によりますと、県内の公立小中学校などを対象に調査した結果、35の学校であわせて38人が欠員状態になっているということです。その内訳は非常勤講師が12人、臨時採用の教員が26人です。このうち呉市の吉浦中学校では、1年生の国語と2年生の理科で必要な教員を確保できず、あわせて4クラス101人が4月分の授業を受けられませんでした。5月からは、ほかの学年の教員が授業を行っています。
「生徒や保護者に心配をかけ、大変申し訳なく思います」
(呉市教育委員会 学校教育課・高橋伸治課長)
呉市教育委員会は、求人を出すなどして新たな講師を探していますが、このまま見つからなければ夏休みや冬休みに補習を行う可能性があるということです。
「今後、非常勤講師を早急に配置できるよう全力で取り組んでいきたい」(高橋課長)
「由々しき事態だと思っている。生徒たちにしわ寄せがいくのはできるだけ避けていくことが望ましい」(広島県・湯崎英彦知事)
湯崎知事は会見で、教員不足により授業への影響が出ていることに懸念を示しました。
広島県教委は、定年による大量退職に新規採用が追いつかないことが教員不足の原因だとしたうえで、「他の都道府県でも事情は同じため、教員の確保に苦慮している」と説明しています。今後、学校現場での授業などへの影響を詳しく把握したうえで、教員の確保策を検討したいとしています。
(2018.5.15、中国放送)

突っ込みどころ満載。
「教員不足」と挙げつつ、内実は38人からの非常勤が空席という話。
日本では教員の場合も、他の民間企業と同じで、正規職員と非常勤・非正規に要求される仕事の違いはなく、単に雇用の保障が無い上に賃金が安いだけで、下手すると部活動の面倒まで無償で見させられるという。部活動などの無償の仕事を引き受けないと、再雇用されない恐れがあり、非常勤教員はやむなく引き受けるケースが多い。

それでも、一昔前(十年くらい前か)は正規教員への道を信じて非常勤を続ける者も少なくなかったが、現在では正規教員の職場環境がさらに悪化して、敢えて非常勤を続けるものは減少の一途をたどっている。にもかかわらず、正規教員の定数は少子化を理由に減らされ続け、非常勤の枠ばかりが増えているため、「バイト教員がいない」という状態に至っている。

にもかかわらず、行政側は「新規採用が追いつかない」「他の都道府県でも事情は同じ」という愚にも付かない認識であるため、その誤った認識が誤った対応にしかならず、悪循環に陥っている。ガンであるにもかかわらず、医者が「風邪ですね」と診断すれば、あっという間に悪化するのは当然だろう。

これを解決するのは実は簡単で、教員の給料を他県比で5割増しにした上で、部活動や学校行事を全廃して勤務時間の3割減を実現すれば、あっという間に日本で最も優秀な教員が集まるだろう。
政治と行政の無能がそれを許さないだけの話であり、現行システムは遠からず衰退、死滅するだろう。

【参考】
深刻化する教員不足 
posted by ケン at 12:56| Comment(3) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月24日

日本の教育はなぜ空洞化したか・下

前回の続き
ところが、1980年代に学力偏重主義や受験競争が批判にさらされ、財界からは「国際化、情報化時代に対応した教育を」という要求がなされた結果、「生きる力」「自分で考える力」「個性重視」などの曖昧な指標を中心とする「ゆとり教育」が導入された。現実には、中等教育で教えられるパターンが激減、「人の価値は学力以外にもある」として学習習慣も軽視されていった(学習時間の減少)。パターン学習を減少させた分(学習内容の3割減)については、体験型学習、総合学習、英語などが導入された。

不足した基礎学力については高校で補うとされたが、高校の学習水準が地盤沈下を起こし、少子化と大学進学率の向上が相まって、本来高等教育の基準を満たさない学生が大学進学を果たすようになった。
同時に、高卒者はおろか大卒者の新卒採用者の水準が低下、企業側から「パターン認識力・対応力が足りない」とクレームが付けられるようになり、就職率の向上をめざす大学側はこぞって中等教育で行うべきパターン教育を施すようになっていった。

パターン教育を行う中等教育に対して、大学などの高等教育は、一定のパターンに当てはまらない状況を認識し、個別に対応する能力を養うと同時に、パターンの原理を理解して独自のパターンを作成する能力を追求する。
日本の場合、1970年代に大学進学率が急上昇したため、大学教育のマスプロ化が進み、テキストを暗記して試験に臨み、先輩の卒論をコピペして提出して卒業という、パターン教育になってしまった。しかも、1990年代以降は、中等教育におけるパターン教育も不足するに至り、大学に中等教育がなすべきパターン教育が求められるようになってしまった。

ところが、AIの導入によって工場労働はおろか、単純事務の多くが自動化されるに至り、中等教育におけるパターン教育の価値が大きく低下している。同時に、本来は高等教育に求められるパターン外教育の価値が高まっている。しかし、「パターン外教育」というのは、パターン原則を理解しなければ、「何がパターン外なのか」分からないだけに、中等教育をすっ飛ばすことはできない構造になっている。また、事務作業にしても、求められる水準が非常に高くなってしまい、平均水準では対応できなくなりつつある。

そして、日本の中等教育の場合、「上司の不条理な要求に耐える」「超長時間労働に耐える」能力を身につけることを目的に、部活動が推奨・強制されている。その結果、「指示が無いと何もできない」「指示が無ければ何もしない」「誤って出された指示を延々と繰り返す」などといった日本国内のごく限られた範囲でしか通用しない労働者ばかりが育成されている。同時に、この部活動が本来なすべき学習時間を削り、パターン学習の効果を減少させている。

日本の文部行政の失敗は、「パターン教育なんて時代遅れ」と性急に判断して、中等教育の脱パターン化を進めてしまったところ、労働力の質が低下、財界が応急処置的に大学に対してパターン教育の強化を求めたところ、パターン外教育も瓦解、ホワイトカラー労働者の質も低下、職場環境の悪化も相まって労働市場における人的荒廃を進めている。
最初の判断の誤りは、「ポスト工業化時代に対応した能力育成が必要」という認識にあったわけだが、これ自体は間違いとは言えなかったものの、それをパターン教育の否定に直結してしまったことが失敗の起源だったと考えられる。
恐らく真に必要だったのは、基礎学習能力とパターン教育の強化であって、どちらかと言えば、詰め込み式教育の前倒しプラス強化とパターン外教育の拡充こそが正解に近かったはずだ。

具体的には、幼児教育の2年間を初等教育に組み込んだ上で、高校を義務化、全14年間の初中等教育を実現。就学年限に一定の幅を持たせつつ(成長の遅い子もいるため)、中等教育や高等教育への移行には個別的に幅を持たせる(飛び級あり)のが望ましい。
もっとも、現実にはAIの進化速度を考えた場合、学校に子どもを収容し、生身の先生が多数の子ども相手に高説を垂れるマスプロ教育がいつまで行われるのかという疑問がある。遠くない将来、学校などに通わず、自宅でゴーグルを付けて、AI先生を相手に一対一で個別に授業を受ける形に移行するのではなかろうか(理論的にはまだまだ非現実的らしいが)。

問題は、文部官僚が現状の問題を認識せず、いまだ誤った認識のまま、英語教育の拡充だの、アクティブ・ラーニングなどと主張しているところにあり、かなり絶望的な状況にある。第一言語である自国語(日本語)の構造を理解していないものが、外国語を学んだところで自動翻訳に敵うはずもなく、まるっきり無駄な労力であろう。同時に、議論するに十分な知識の無いものがアクティブ・ラーニングを受けてみたところで、ネトウヨを増やすだけの話でしか無い。どう見ても、市民社会にとって害悪を増やす結果にしかならないだろう。

中国と8年にわたる大戦争をした挙げ句、連合国とも戦争になって大敗を喫したアジア太平洋戦争も、最初は「中国なんぞ、一撫でしてやれば、すぐ頭を下げてくる」という誤った認識に始まり、最後までその認識を正すことができなかった帰結だった。
我々は80年を経てもなお、同じ過ちを繰り返そうとしている。
霞が関官僚も政治家も「あれは正しい戦争だった」という認識の上に立っているのだから、正されるはずもないわけだが、あまりにも愚かである。
posted by ケン at 00:00| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする