2017年07月20日

人を使い潰して増員を要求する無能者

【公立小中学校の教員数 全国で700人以上不足】
 全国の公立の小中学校の教員の数が、ことし4月の時点で定数より少なくとも700人以上不足し、一部の学校では計画どおりの授業ができなくなっていることがNHKの取材でわかりました。これまで欠員を埋めてきた臨時採用の教員の不足が要因と見られ、専門家は「国や自治体は早急に実態を把握し、対策を検討すべきだ」と指摘しています。
全国の公立の小中学校の教員は、国が学校ごとの児童や生徒の数に応じて毎年、定数を算出し、それをもとに各地の教育委員会が配置しています。
 NHKが全国の都道府県と政令指定都市、合わせて67の教育委員会に教員の定数とことし4月の始業式の時点での実際の配置状況について尋ねたところ、全体の半数近い32の教育委員会で定数を確保できず少なくとも717人の教員が不足していたことがわかりました。
 このうち福岡県内では担当教員の不在で技術や美術の授業をおよそ2か月間実施できない中学校があったほか、千葉県内では小学校の学級担任が確保できず教務主任が兼務する事態も起きています。
専門家によりますと、背景にはこれまで欠員を埋めてきた臨時採用の教員の不足があるということで、教員の配置に詳しい慶應義塾大学の佐久間亜紀教授は、「臨時採用など非正規の教員は雇用が不安定で給料が低く確保が難しい状況にある。国や自治体は早急に事態を把握し、採用計画を見直すなど対策を検討すべきだ」と指摘しています。
(7月4日、NHKから抜粋)

これは日本型組織の無能の典型例。徒に若手教員を使い潰して「人手が足りない」と増員を要求する様は、補給のあても無い太平洋の島々に兵を送り込んで餓死させておいて「兵が足りない」と騒いでいた旧軍と全く同じだ。

全体状況としては、「少子化だから」と教育予算を抑えられているにもかかわらず、教員の平均年齢が高くなって人件費が高止まりして、正規職員の新規採用が十分ではないのは間違いない。
だが、正規採用を抑え、非正規教員を増やした結果、正規採用された新人教員は十分な教育訓練も受けられないまま、担任はおろか部活動の顧問まで押しつけられ、保護者からの過剰な要求も相まって、過重労働とストレスにさらされ、3〜5割が数年で退職、休職するという事態になっている。
また、非正規教員は超低賃金の上、正規教員とほぼ同じ職務が要求され、時間給に直すと500円以下になっている。しかも、夏休みなどの長期休暇中は、給料も出ないのに部活動や行事への参加が強要されるという。結果、臨時職員は募集しても応募者が不足、定員割れが常態化している。
東京都の場合も、10年前には6倍前後あった募集倍率が、今では3倍を切っている。高偏差値大学の教育学部では、教員志望者が1割を切っているというから、応募者の質は推して知るべしであろう。

まさに日本社会、企業文化を象徴する話で、低賃金&ブラック労働を放置して、人材を使い潰しておいて「人手が足りない」と大騒ぎしている財界や政府の姿そのものなのだ。

本ブログでは何度も言っていることだが、まずは部活動と学校行事を全面廃止し、終業時間になったら生徒を全員校外に出して閉門、保護者からのクレームや相談は担任教師が受けるのでは無く、専門の窓口(担当者)を設置して対応することから始めるべきだ。
学校が「子守機関」「監視機関」となってしまっているからこそ、教員の過重労働が悪化し、教育指導の質も低下、学力の低下に直結している。あくまでも学校は「勉強するところ」であるべきであり、それ以上を求めるべきでは無い。社会や保護者が「あれもこれも」学校に求めた結果が、現在の惨状であることを認めない限り、いかなる解決もできないだろう。

【追記】
根源的には様々な学校行事や部活動など、学校に過剰なサービスとスペックを求めた結果、運営コストが上昇していることに起因しており、その自覚を持たずに、ただ「教育費が高い」と批判したところで無責任であろう。運動会や文化祭、修学旅行などの学校行事と部活動を全廃すれば、授業料は10〜20%削減できるはずだ。また、本来目的外の過剰なサービス要求が、本来の「商品」であるはずの学力教授水準を低下させ、それを補うために塾に通うという「ムダ」を生じさせている。この点でも、行事と部活動を廃止して、全資源を学力向上に投入すれば、塾に通う必要がなくなり、教育費の自己負担を大いに削減できる。どこに「ムダ」があるかは明白すぎるはずなのだが、それを認めないところが「すでに終わっている」のであり、ここは強権を駆使する必要があるだろう。
posted by ケン at 12:51| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月30日

自民党と霞ヶ関が共謀罪を必要とするワケ

共謀罪法案が衆議院を通過した。本会議の最終弁論では、自民・KMの両党から特に民進党を罵倒する演説が行われ、「国民の不安をいたずらに煽り立てる野党」が強調された。その自民もKMも「テロ対策上必要不可欠」と強調するわりに、法案には「テロ」の文言は1つもなく、およそテロとは関係ない罪状にまで対象が広げられていることについて明確な答弁はなされなかった。

だが、例えば、SGの初代会長は治安維持法違反で検挙された後、拷問死しており、今回の「テロ等準備罪」も普通に考えれば、日本最大級の宗教団体であるSGこそがターゲットにされて然るべき存在であることは言うまでも無く、連中は自分の首に縄を掛けただけのことだった。共謀罪の対象から公務員が除外されていることは、連中が誰をターゲットにしているのか、露骨すぎるほど明確なはずだが、連中は現在手にしている権力を維持するために、自分の生命と財産を担保に入れてしまったのだ。

他方、市民団体からは「民進党がだらしない」との批判が上げられているが、そもそも民主党野田政権期には、秘密保護法、安保法制、共謀罪、TPPなど今の安倍政権とほぼほぼ同じ法案を準備しており、何を言っても「唇寒し」の状態にあった。同様に、所属議員の過半数がそれらを支持しており、到底戦える状況になかった。

現実には、例えば、1937年に起きた人民戦線事件では、本来共産党と同党員をターゲットにしてきたはずの治安維持法によって、社会民主主義者、労働運動家、マルクス経済学者などが一斉検挙され、一次、二次含めて480名以上が逮捕された。ところが、法廷で有罪判決が下されたのはわずか数人に過ぎず、圧倒的多数は無罪に終わった。数件の有罪判決についても、判決が出る前に容疑者は保釈され、かつ控訴審は延期され続けたまま終戦を迎え、結審に至らずに終わった。このことは、当局(特高=秘密警察)が対象を必ずしも有罪にしなくとも、強制捜査や検挙、拘束することだけで、対象の動き(運動)を抑止することが可能であることを示している。
治安維持法全体で見ても、1928年から同40年までの検挙者数6万5千人のうち起訴者数は約5400人に過ぎず、起訴率はわずか8%でしかなかった。
実際に起きた犯罪を取り締まる一般の行政警察と異なり、国家規模の治安維持を目途とする秘密警察の場合、反体制運動の事前防止と撲滅を目的とするため、公判で有罪にすることよりも捜査や検挙で運動を妨害あるいは組織の撲滅を目指すことになる。言うなれば、共謀罪や準備罪の創設は、公安警察にフリーハンドを渡すものなのだ。

それにしても、自民党と霞ヶ関が10年以上も共謀罪の創設に情熱を燃やし続けたのは何故だろうか。いや、自民党に限らず、民主党野田政権でも共謀罪を準備していたのだから、そこには表面上説明されない真の理由があると見て良い。残念ながら、今回は官僚や議員からは確信的な言葉をもらっておらず、以下は私の推測になる。

1925年に治安維持法が施行されたのは、一義的には同年に日ソ国交が樹立されて共産主義の浸透が予測されたことにある。一般的には、28年の男子普通選挙法に対する警戒として説明されているが、これはどうやら後付けの理由らしい。だが、その背景にあったのは、1920年に第一次世界大戦の大正バブルがはじけてデフレ不況が起こり、これに対して緊縮財政が敷かれて深刻な経済不況が長引き、小作騒動や労働争議が蔓延、社会不安が増大していたことにある。そこに「日ソ国交回復=コミンテルンの浸透」が現実的な恐怖として現れた。1923年に関東大震災、同27年に昭和金融恐慌が起きていることを鑑みても、現代人には当時の社会不安が想像しづらいかもしれない。

そこで現代に戻る。戦後日本の繁栄と安定は、「戦後和解体制」によって説明される。
戦後和解体制とは、東側の共産主義の脅威に対抗すべく、西側で成立した資本家層と労働者層の協同的体制を指し、資本主義と自由経済を容認しつつ、再分配と社会保障制度の充実を図ることで、労働者層の体制参加(取り込み)を進めるものを指す。これにより、いわゆる「分厚い中間層」が誕生し、消費が拡大することで市場経済が活性化するという経済成長の好サイクルができると同時に、政治的安定が確立した。日本において、社会党の伸張が止まったのは、岸内閣が国民年金と健康保険を創設し、社会党の「やりたいこと」を先に実現してしまったことが大きい。

ところが、ソ連・東欧ブロックが崩壊したことで、戦後和解体制はその意義を失ってしまう。東側陣営の「社会主義」に対抗すべく、労働者層の取り込みを図ってきたが、その政治的意義が失われ、配慮する必要がなくなった。
また、時期を前後して、社会保障の財政負担が急激に増し、慢性的な赤字に悩まされるところとなった。「民主的な選挙」で選ばれる政治エリートは、選挙に勝つために社会保障費の削減を主張できないため、財政赤字は肥大化する一途にある。
さらに経済のグローバル化によって(ソ連ブロックの瓦解も影響)、国内産業の多くが賃金の安い海外に移転、海外市場との低賃金競争が始まって、国内の失業ないしは低賃金が蔓延していった。日本では、80年代まで10%程度だった非正規雇用が、90年代から急増、いまや40%に近づきつつある。また、最低賃金は先進国中最低水準にある。
結果、戦後和解体制は、政治的意義を失い、財政的に継続困難となり、基盤となる国内産業や労働待遇が切り崩されることで、崩壊しつつある。欧州における「極右」勢力や、アメリカにおける「ポピュリズム」の伸張は、その表れと言える。

戦後和解体制を維持するためには、社会保障制度を維持する必要があるが、そのためには肥大化する同費を補うだけの、保険料や税が必要となる。ところが、保険料は高齢世代の増大と現役世代の縮小により、放っておいても現役世代の負担は上昇するばかりとなっている。現役世代の負担が重くなればなるほど、少子化が進み、縮小再生産のスパイラルに陥っている。
また、税収を上げるためには、所得税、消費税、法人税の3つが主な対象となるが、所得税を上げても、高額所得者は「タックス・ヘイブン」を利用し、中低所得層の負担が重くなるだけ。消費税は消費を抑制すると同時にヤミ市場を蔓延させよう。法人税は、国際的に引き下げ競争を行っている上、会計粉飾を蔓延させる。つまり、増税はデモクラシーの制度上難しい上に、増税すればするほど実際の徴収が難しくなるというジレンマを抱えている。

財界、官界、マスゴミの支持を受ける自民党は、富裕層に対する増税や保険負担増を行えず、「増税せずにパイを増やす」戦略を採るが、結果的には、インフラを含む生産財に集中投資した上で、奴隷労働を強化し、賃金を引き下げる(非正規雇用を増やす、残業代を出さない)ことで実現しようとしているため、使いもしない生産財ばかり増え、固定維持費が高騰、一方で大衆増税や保険負担増が行われ、可処分所得が低下、消費がますます減退するという貧困と不平等の連鎖に陥っている。
他方、中間層の没落と貧困の蔓延を尻目に、権力に富が集中、腐敗が加速、急速に統治能力を失ってゆく。統治能力が低下するため、治安を維持するために、暴力行使のハードルも下げざるを得なくなっている。同時に、軍と警察を拡張するため、新規増税が不可欠となるが、富裕層の支持に依拠する自民党は、大衆増税や収奪によってしかその財源を賄えない。

貧困と不平等は社会に対する不満を増大させ、体制への不信を強め、著しく治安を悪化させる。この治安の悪化に対し、当局は暴力をもって応じるしかない。何故なら社会政策を進めるためには、貴族や資本家層に課税強化するか軍備を縮小して財源をつくる必要があるが、帝国権力が軍、官僚、財閥に依拠している以上、それは不可能な話であり、暴力によって不満を抑え込むほか無いからだ。「共謀罪」は、この考え方に沿って浮上してきた。

共謀罪が最初に上程されたのは2004年の小泉内閣時であり、富裕層の優遇策と社会保障の切り下げを主眼に置いた政策であったことは、上記の傍証となる。また、社会保障の充実を中心とした積極財政に舵を切った民主党鳩山政権が共謀罪を取り上げず、大衆増税を掲げた野田政権で復活したことも、傍証となる。

安倍政権が同法を遮二無二に推進しているのは、国民の年金基金を株式市場に投入したことに象徴される資本優遇と、カジノ法に象徴される大衆からの収奪強化、そして財政赤字の悪化に起因する社会保障の大幅切り下げが喫緊の課題になっていることから、近い将来、社会不安が急激に増大し、権力を脅かす事態が近づいているという認識があるからだろう。
霞ヶ関・自民党・財界・マスゴミの腐敗テトラゴンは、国内に「敵」をつくり対立を煽ることで、暴力支配を正当化して治安体制を強化し、貧困と不平等に対する不満を抑制しようという方針を持っている。同時に、自民党と官僚には、一切責任を負う必要が無いことが規定されていた明治憲法に対する強い郷愁がある。これが天皇を元首にするという自民党の改憲案の根幹になっている。
中東や欧米におけるテロ戦争は、あくまでも欧米による中東収奪に起因するものであり、本質的に日本とは無縁のものだ。にもかかわらず、霞ヶ関と自民党が「テロ対策」を掲げているのは、まさに治安維持法における「コミンテルンの浸透」と軌を一にしている。有りもしなかった不安を煽り立てて成立させた治安維持法の行く末は、共謀罪のそれを暗示している。戦後改革は、冷戦の勃発によってファシストを一掃することができずに終わり、七十余年を経て全体主義の悪夢が復活を遂げつつある。

つまり、共謀罪の対象はあくまでも日本国民であり、それは「貧乏人は飢えて死ね!でも文句は言うな!」という自民党・霞ヶ関の強い意志の表れなのである。自民党は本音で議論すれば良いものを、「国民をテロから守る」などと言うから議会に対する不信が強まってゆくのだ。
「東京五輪開催」を共謀罪創設の理由として説明するのも全くの欺瞞だ。3兆円を富裕層で分配し、実際の運営は貧困層の「自発的参加」による徴用で済ませようという五輪は、社会不安とテロの温床を育むものでしかなく、健全な国家であれば返上すべきところを、治安立法で反対派市民を弾圧して開催しようというのだから、これこそが権力腐敗の最大の象徴なのである。

【追記】
御用記者による強姦事件が、上層部からの圧力によって捜査中止、不起訴に終わったことは珍しくもない。スターリン期のベリヤNKVD長官による無数の少女暴行は、彼が失脚するまで告発されなかった。日本もそうなっただけの話である。同時に「日本は性犯罪が少ない」というプロパガンダがウソであったことも暴露された。何のことは無い「貴族による犯行はカウントされていなかった」だけだったのだ。
posted by ケン at 12:27| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月19日

通信の秘密について

通信傍受法の改正により、いまや警察は事業者の立ち会い無しで盗聴やネット監視ができるようになったが、憲法21条により「通信の秘密」が保障されているため、警察は郵便封書だけは(少なくとも合法的には)開封できない。
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
(第21条)

メールや電話などは、原理的にはAIが全て傍受し、記録することができるため、かつて必要とされた膨大な人員は必要とされなくなっている。警察側も、人員削減によりAIによる監視に頼り、AIを導入するため巨額の予算が必要となり、ますます人員を削減するというスパイラルに陥っている。
現代では、最もアナログな方法が、最も秘匿性が高いという興味深い状況にある。封書を用いて私書箱でやり取りするのが、最も「安全」なのだ。
 本法案は,電話のみならず,ファクシミリ,コンピュータ通信等,電気通信であって,伝送路の全部又は一部が有線であるもの又は伝送路に交換設備があるものを対象としています。
 個々の捜査において傍受の対象となる電話,電子メール等は,電話番号やアドレス等により特定して令状に記載され,それについてだけ傍受が許されます。
(通信傍受法について、法務省HPより)

 憲法第21条第2項は,通信の秘密を保障しており,これについて最大限尊重すべきことは言うまでもありません。他方,憲法第12条及び第13条は,公共の福祉による制約を規定しており,通信の秘密の保障も,絶対無制限のものではなく,公共の福祉の要請に基づく場合には,必要最小限の範囲でその制約が許されるということは,憲法解釈の常識です。
 通信傍受法案は,犯罪捜査という公共の福祉の要請に基づき,通信傍受の要件を厳格に定めるなど,必要最小限の範囲に限定して傍受を行うものであり,決して憲法に違反するものではありません。
(同上)

興味深いのは、犯罪捜査の目的で電子メールの検閲を行うことは憲法の「通信の秘密」に違背するものではないとしながら、郵便封書は犯罪捜査目的での開封を除外している点にある。これは、封書まで開封できるとなると、「憲法違反」は免れないという認識を政府が持っていることを傍証している。郵便検閲まで行うとなると、自由主義社会や民主主義社会の根底を覆してしまうからだ。霞が関官僚や警察官僚は、敗戦による民主化を今までに無く呪っているようにも感じられる。

もっとも、帝政期の軍人たちも、可能な限り憲兵に検閲される軍事郵便は使わず、市中のポストに投函するようにしていた。中国戦線に従軍した人も、何らかの理由で後方の大都市に行った時に、上海や青島などから国際郵便で日本に送っていた。
これは帝国憲法が、
日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルルコトナシ
(第26条)

と定め、必要な法律を定めなかったことに起因している。もちろん現実には、大正期の頃から特高が郵便の検閲を行っていたが、法律の根拠を持たないため、大々的にはできず、表向きは内務省も「検閲はやっていないし、できない」と言わざるを得なかった。法律上の根拠ができるのは、臨時郵便取締令が発せられた1941年10月のことだった。つまり、帝政期ですら憲法は「紙に書かれただけ」では無かったのだ。
posted by ケン at 12:22| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月10日

柳広司先生の投書

SKM_C284e17051013030.jpg

4月30日の朝日新聞投書欄の一つ。新聞に投書とは、柳先生も古風な手法を使われて乙ですな。中野学校出の伯父を持つ身として『ジョーカー・ゲーム』はもちろん読んでマス。

Dの魔王 
忠義とロイヤリティA補 

共謀罪の恐ろしさについては、すでに何度も指摘しているが、この機会に一部再掲しておきたい。
共謀罪の恐ろしさは、ソ連やナチス・ドイツのケースを挙げるまでも無く、日本の戦前に見ることができる。1910年の大逆事件では、明治天皇暗殺計画が発覚し、宮下太吉ら5人によるものであったにもかかわらず、幸徳秋水を始めとする24人が死刑に処せられた。当局は当初から5人の計画であったことを知っていたが、大逆罪を拡大適用した。事実が判明したのは戦後のことだった。なお、幸徳が死刑になったのは、公判で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と述べたことによるとされている。

1923年の朴烈事件では、関東大震災直後に治安警察法による予防拘束(まだ事件を起こしてもいないし、計画も発覚していない段階での検束)を受けた朴烈が、拷問を受けて、愛人の金子某との「皇太子襲撃計画」について、特高の誘導尋問に同意したと見なされ(自白すらしてない)、大逆罪が適用され、死刑宣告された。後に恩赦で無期懲役になったものの、戦後の1945年10月末(8月15日でも9月3日でも無い)まで刑務所に収容されていた。
自由主義と決別するとき

治安維持法が最初に審議された際、当時の若槻禮次郎首相は、

「世聞にはこの法律案が労働運動を禁止するがためにできるやうに誤解しておる者があるやうであります。此法律が制定されますと、労働者が労働運動をするについて、何等かの拘束を受けると云ふやうに信じて居る者があるようであります。斯の如きは甚だしき誤解であります。」

と答弁、川崎卓内務省警保局長は、「乱用など云ふことは絶対にない」と断言している。

現行の日本政府は、治安維持法を施行し国民弾圧をほしいままにした帝国政府の後継であり、安倍内閣は「明治の日」に象徴されるように戦前の帝政を称賛しているだけに、菅官房長官の言は全く信用に値しない。「一般の方々が対象になることはあり得ない」というのは原案の話であり、数年後には改悪されて「合法左翼」や「合法リベラル」が対象にされるのは明白だろう。本ブログが閉鎖される日も遠くないかもしれない。

そもそも期間が一カ月もない程度のオリンピックを開催するために、時限立法ならともかく恒久法で市民を「一網打尽」にできる法律が必要であると主張している時点で、政府の本音がどこにあるか分かるだろう。そもそも東京都と政府は、「東京は世界で最も安全な街」を最大のセールスポイントにしていたはずだ。
いつぞやの手口で楽しく弾圧

例えば、2013年の米ボストンマラソン・テロの場合、いまだに被疑者とテロ組織との関係は確認されず、計画と呼べるような計画書の類いも発見されていない。にもかかわらず、殺人などの罪状で死刑が宣告されている。この容疑者を、「テロ等準備罪」で取り締まれたかと言えば、まずムリだっただろう。

実際、治安維持法は「実際の適用が難しい」として適用緩和と対象拡大が進められ、戦前期の最大の悪夢となり、国民弾圧をほしいままに反戦・自由主義グループを一掃して、軍国と戦争に邁進する推進力になってしまったのである。
すでに先の刑事訴訟法改正で、通信傍受が大幅に緩和されたことを考えても、共謀罪と盗聴のコンボで「電話で冗談言っただけで逮捕」の環境が成立することだけは、覚悟しておいた方が良いだろう。
予備罪は立件が難しい

秘密保護法、通信傍受、共謀罪、予備罪等の組み合わせは、権力に巨大な暴力を付与するわけだが、日本の場合、森友疑獄や原発マフィアに象徴されるように政官業報の強固な腐敗テトラゴンが確立して、権力を相互に監視するシステムが存在しないため、巨大権力の暴走を抑止する装置が極めて脆弱なのだ。

例えば森友疑獄では、官邸と財務省が共謀して国家資産の不当な払い下げ(実質ほぼ無償)が行われていたことが判明したが、財務省はあらゆる関連文書の開示を拒否し、あるいは文書を廃棄して、一部では偽造している疑いすらある。この場合、背任罪、公務員職権濫用罪、財物侵奪罪、公文書管理法違反、虚偽公文書作成罪、証拠隠滅罪などに問われる可能性があるが、これらは今回の共謀罪から適用を除外されている。本来であれば、こうした「公共の利益を損なう重大犯罪」こそ共謀罪の対象にして、腐敗政治家や官僚を一掃すべきであるはずだが、それを自分の手で除外してしまうところに、今回の共謀罪の本来の意図といかがわしさが存在する。

森喜朗のように腐敗構造の頂点に立つ者が最高位の叙勲を授与されていることは、この国が自浄能力を失い、末期症状に陥っていることを象徴している。
posted by ケン at 13:03| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月18日

英語主兵論を放棄せよ!

【中3と高3の英語力、政府目標達成は僅か36%】
 文部科学省は5日、全国の公立の中高生らを対象にした2016年度「英語教育実施状況調査」の結果を公表した。政府が17年度までに目指す英語力のレベルに達した中学3年生は全体の36・1%(前年度比0・5ポイント減)、高校3年生は36・4%(同2・1ポイント増)だった。政府目標は50%で、達成は厳しい状況だ。教員の英語力についても調査し、政府目標に達した英語教員は、中学校が32・0%(同1・8ポイント増)、高校62・2%(同4・9ポイント増)にとどまった。政府は、グローバル化に対応するため英語教育の充実を掲げ、13年6月の閣議決定で、中学卒業段階で「実用英語技能検定(英検)3級程度」以上、高校卒業段階で「英検準2級程度」以上の英語力を持つ生徒の割合を17年度までに50%にする目標を掲げた。
(4月5日、読売新聞)

相変わらずバカげた話をしている。何度も述べていることだが、10年以内にも機械翻訳が実用水準に至るとされている中で、いつまでも英語に重点を置いて、他教科を犠牲にしてでも強化しようとしている。これは、旧海軍が自らハワイとマレー沖で航空時代の到来を証明しながら、自らは1944年に至るまで戦艦主兵論を破棄できなかった故事とよく似ている。

近い将来、実用外国語の大半は機械翻訳に置き換えられると見られるが、これは必ずしも外国語教育を不要にするわけではない。機械翻訳は技術を代替するだけで、コミュニケーションそのものまで代替してくれるわけではない。仮に高精度の自動翻訳が完成、駆使したところで、言語が置き換えられるだけの話で、話者の認識や社会的背景は母語に依存したままなのだ。歴史、社会的習慣、文化、文学などの共通認識を持たないまま、言語だけを置き換えてみたところで、コミュニケーションとしては十分には成立し得ないし、深い共通理解は得られないだろう。つまり、言語が機械で代替されるだけに、言語以外の要素が重要となる。
結果、これからの外国語教育は、現在取り沙汰されている会話能力ではなく、教養としての外国語、文化こそが求められると考えられる。

コミュニケーションは意味が通じれば良いというものではない。旅行会話や日常生活に必要な最低限度の会話は、それこそ現状の機械翻訳で十分なのだ。会話や文章の表象には現れない隠された意味や意図を読み取ると同時に、こちら側も明言しない(言質を取られない)形で意思を伝えるテクニックこそが求められ、それは機械翻訳では再現できない(少なくとも当面は)。
また、言語以外の部分でコミュニケーションを深化させなければ、関係性も深化しない。例えば、ある一つの営業活動であれば、機械翻訳のみで成立させられるだろうが、そこからさらなる契約を結んだり、新たなプロジェクトに進めるためには、表象的なコミュニケーションだけでは難しいものがある。
具体的には、どれだけ中国語がペラペラでも、孔孟や老子、あるいは史記や水滸伝を読んだことが無ければ、エリート層の中国人と深い関係になるのは難しいだろう。ウオッカが飲めなければロシア人と深い仲になるのは難しいし、プーシキンの詩をそらんじることが出来れば敬意をもって遇されるに違いない。
ところが、日本の現状は、漢文を必修から外して英会話の授業を増やしている。大学では第二外国語の廃止が進んでいる始末だ。

実用英語論を放置するとしても、文科省の目標は現状を完全に無視している。公立中高の教育水準が低いのは、単純に授業時間が足りないのと、教員の質が低下しているためだ。
授業時間が足りないのは、必要性の低い行事・イベントが多すぎることと、課外活動が多すぎるためであり、入学式と卒業式以外の学校行事を全て廃止、部活動も全廃して授業に充てれば解決するだろう。
教員の質が低下しているのは、労働環境が恐ろしく悪化しているためで、例えばOECDの調査で、教員の平均週勤務時間53.9時間のうち部活動関連が7.7時間を占めている。ちなみにOECD平均は38.3時間に対して2.1時間に過ぎず、日本の教員の労働地獄ぶりが伺われる。東京などの大都市部では、教員採用の競争率は3倍を切る有様であり、英語を自在に使えるような高度人材が中等教育の教員を目指すような環境には全くない。
共産党系の全教のデータなので注意が必要だが、小中高校などの教員の残業時間は月平均約95時間半で、10年前の調査より約10時間増えているという。うち、学校での残業が約73時間で、自宅で仕事をする時間が約22時間半となっている。小中別では、小学校の残業時間が月94時間21分、部活動が増える中学は114時間25分。月100時間以上の教員の割合は小学校34%、中学52%だった。
(教員給与削減という愚策) 

文科省は、教員研修や外部人材の活用を考えているようだが、何の解決にもならないだろう。この凄まじいまでの無策、無能は一体どこから来るのだろうか。
posted by ケン at 12:24| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月07日

今どきシャベルじゃなくて銃剣?

【中学武道に木銃使う「銃剣道」追加】
 文部科学省は2020年度以降に実施する小中学校の次期学習指導要領を31日付の官報で告示する。2月に公表した改定案に対するパブリックコメント(意見公募)の結果を考慮し、表記を改める予定だった「聖徳太子」や「鎖国」を一転して変えないことにした。中学校の保健体育で必修の武道の例としては、柔道や剣道など8種目に加え、木銃を使って相手を突く「銃剣道」を加えた。また、小学3〜6年で授業時間が増える英語を不安視する声も相次ぎ、文科省は18〜19年度を移行期間として各校の「総合的な学習の時間」を英語に充てる措置を検討する。パブリックコメントは改定案公表後の2月14日〜3月15日に実施され、9年前の前回告示時の約2倍にあたる1万1210件の意見が文科省に寄せられた
(3月31日、読売新聞)

「旧軍復活」云々という話はすでにされ尽くしているみたいなのでしない。
もともと本件は自衛隊員の天下り先確保が本筋の話らしいが、現実には教員免許を持つ銃剣指導員は2人しかいないというから笑える。それを「日本固有の武道」とゴリ押しし、文科省もGOを出してしまう辺り、相当に「終わってる」観がある。まぁ、将来的には配属将校制度も視野に置いているのかもしれない。

それはさておき、今どきスコップ戦闘術じゃなくて銃剣かよと。スコップにしておけば、ロシアから指導員を招聘して日露友好になるし、実用性の点でもはるかに有用で将来のパルチザン戦や革命戦に使えるかもしれないのに。

そもそも論で言えば、武術と武道の違いも論点になる。「敵を無力化する技術」である武術と、「武術を土台にした人間形成のための教育ツール」としての武道という具合に色分けできるが、果たして武道が人間性の形成に有用なのかと言えば、私的には想像もつかない。例えば、剣術が剣道になった途端に人間性を形成する教育手段になったとはとても思えない。現実には、近接戦闘技術としての剣術が廃れ、剣道に鞍替えしたものの、十分な効果が認められないため、著しく衰退していると見るべきではなかろうか。
柔道プレイヤーが20万人を切ってさらに減少を続けているのも、「道」としての中途半端さ(戦闘技術としても人間形成にも不十分)に起因していると思われる。まして、銃剣「道」とは一体何なのか皆目見当もつかない。
であれば、将来の対中あるいは対米パルチザン戦や内戦を見据えて、現実的な近接格闘術としてのスコップ戦闘術を学校で学ばせ、自宅に金属製スコップを常備させる方がよほど実用的だ。倫理的な話は別にして。

ちなみに、従来の武道は、柔道、剣道、弓道、相撲、空手、合気道、少林寺拳法、長刀(なぎなた)の8つ。まともに指導員を確保できるのは柔道と、せいぜい空手くらいまでらしく、それすらも厳しいのが実情で、全く現場の実情と合っていないという。民間に需要が無いにもかかわらず、文科省のイデオロギー政策と一部の業界団体が結託して官営で武道をやらせようとするあたり、著しく倒錯的だろう。

余談になるが、銃剣を付けたいがために、いまだに自衛隊の小銃は固定銃床になり、折曲式が国際標準の中にあって化石化してしまっているという。この辺の白兵戦信仰も、いまだ旧軍の旧弊から抜け出ていないことを意味している。あるいは、自国民を敵に想定していることの証かもしれない。
色々な意味で、ダメっぽさ満載だ。

【追記】
ケン先生は、学校の武道授業も部活動も全面廃止論者です。学校はあくまでも社会生活に必要な知識を学ぶところであって、それ以上を目指すべきではありません。
posted by ケン at 12:04| Comment(8) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月04日

最高裁のくせに穏当だ?

【GPS捜査 令状なし違法 異例の立法措置言及 最高裁大法廷、初判断】
 裁判所の令状なしに捜査対象者の車両に衛星利用測位システム(GPS)の発信器を取り付けた捜査の違法性が争われた連続窃盗事件の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は15日、「GPS捜査は強制捜査に当たる」との初判断を示し、令状なしに行われた捜査を違法と結論づけた。また、現行法上の令状で対応することには「疑義がある」として、GPS捜査のために「立法的な措置が講じられることが望ましい」と指摘した。
 15裁判官全員一致の結論。刑事裁判で最高裁が立法措置に言及するのは極めて異例。警察庁はこれまでGPS捜査は令状の不要な任意捜査との立場だったが、同日、全国の警察に対しGPS捜査を控えるよう通達を出した。
 大法廷は判決で「GPS捜査は行動を継続的、網羅的に把握するもので、個人のプライバシーを侵害しうる」と指摘。憲法が保障する「私的領域に侵入されることのない権利」を侵す強制捜査に当たり、「令状がなければ実施できない」と判断した。また、「公正担保の手段が確保されていない」などとして、現行法の定める令状で実施することに疑問を呈した。
 違法性を争っていたのは、平成24〜25年、店舗荒らしなどを繰り返したとして窃盗罪などに問われた建築業、岩切勝志被告(45)。捜査員らは令状を取らずに車両計19台に発信器を取り付けた。
 上告審で弁護側は「位置情報はプライバシーの中でも保護の必要性が高く、強制捜査に当たる」と主張。検察側は「プライバシー侵害の程度は小さく、任意捜査。現行法の令状でも実施できる」としていた。被告は犯行の事実関係は認めており、1、2審の懲役5年6月という結論は最高裁も支持した。
(3月16日、産経新聞)

権力(行政)に限りなく従属し、「国家の三位一体(行政、立法、司法)」を最重視する最高裁判所が、珍しく人権に配慮した判決を下している。
この問題はちょうど一年前に扱っているので、一部再掲しておきたい。
基本的には、技術革新に対して法整備が追いつかず、技術運用が先行してしまって人権侵害の疑義が生じている、という状態にある。現行憲法には、プライバシー権の記載こそ無いものの、13条で「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」が明記され、移動の自由もある。だがこれらは、「公共の福祉に反しない限り」という前提があるため、刑事捜査によるプライバシーの侵害は一定程度認められている。それだけに、従来型の追跡調査は合法だが、GPSは著しくプライバシーを侵害するから令状が不可欠という、地裁の判断は、人権原理上は妥当だが、現行法の中ではやや無理があったと思われる。

とはいえ、位置情報は個人の重大なプライバシーであり、治安当局が無制限に把握できるとなれば、それはもはや旧東側諸国の「監視国家」と何ら変わらないものになる。現状は、技術的に可能で、実際に利用が進んでいるが、一切の法規制や制度整備がなされていない状態にあるだけに、「警察の暴走」が危惧されるのもまた当然なのだ。日本の警察がその気になれば、携帯電話を始め、市内の防犯カメラやNシステムを利用して、全市民の位置情報を把握するだけでなく、あらゆる通話やメールを傍受することも可能だからだ。そして、それは一部実現されている。

まずは最低限、裁判所の令状を取り、一定の条件下で事後にでも令状開示を可能にする法規制が必要だろう。だが、日本の裁判所は99%以上の確率で捜査令状を出している現状を考えると、果たして一定の歯止め・人権擁護になるのか疑問はぬぐえない。とはいえ、警察の独自判断で、無制限にGPS捜査が許されてしまっている現状は、早急に改善する必要があろう。
GPS捜査は法整備を

私のスタンスに変わりは無い。技術が進化する一方で、警察の人的資源には限りがあり、GPS捜査そのものは肯定すべきだと考える。先の記事でも書いているように、ヒューマン刑事による尾行や張り込みは令状無しで合法なのに、同じ用途で行われる機械を駆使しての尾行、位置確認は非合法というのは、公平性の点でも時代性の点でもそぐわない。考え方によっては、常に刑事に尾行されている状態より、GPSで単に位置情報が知られている方が、警察にとっても容疑者にとっても「マシ」かもしれないのだ。
ただ、現状のように法律を始めとするルールが存在しない状態で、GPS捜査を全て合法化してしまうと、警察にノーチェックの「使い放題」を許すことになり、理論上は全市民の位置情報を常時入手できることになってしまう。かつてなら人員上の制限で、自然と捜査範囲が制限されていたが、技術進化によって、位置情報取得も盗聴も個体識別も無制限に可能になっているだけに、今まで以上に人権とプライバシーに配慮する仕組みをつくらないと、容易に監視社会化してしまうだろう。
posted by ケン at 12:27| Comment(4) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする