2017年04月18日

英語主兵論を放棄せよ!

【中3と高3の英語力、政府目標達成は僅か36%】
 文部科学省は5日、全国の公立の中高生らを対象にした2016年度「英語教育実施状況調査」の結果を公表した。政府が17年度までに目指す英語力のレベルに達した中学3年生は全体の36・1%(前年度比0・5ポイント減)、高校3年生は36・4%(同2・1ポイント増)だった。政府目標は50%で、達成は厳しい状況だ。教員の英語力についても調査し、政府目標に達した英語教員は、中学校が32・0%(同1・8ポイント増)、高校62・2%(同4・9ポイント増)にとどまった。政府は、グローバル化に対応するため英語教育の充実を掲げ、13年6月の閣議決定で、中学卒業段階で「実用英語技能検定(英検)3級程度」以上、高校卒業段階で「英検準2級程度」以上の英語力を持つ生徒の割合を17年度までに50%にする目標を掲げた。
(4月5日、読売新聞)

相変わらずバカげた話をしている。何度も述べていることだが、10年以内にも機械翻訳が実用水準に至るとされている中で、いつまでも英語に重点を置いて、他教科を犠牲にしてでも強化しようとしている。これは、旧海軍が自らハワイとマレー沖で航空時代の到来を証明しながら、自らは1944年に至るまで戦艦主兵論を破棄できなかった故事とよく似ている。

近い将来、実用外国語の大半は機械翻訳に置き換えられると見られるが、これは必ずしも外国語教育を不要にするわけではない。機械翻訳は技術を代替するだけで、コミュニケーションそのものまで代替してくれるわけではない。仮に高精度の自動翻訳が完成、駆使したところで、言語が置き換えられるだけの話で、話者の認識や社会的背景は母語に依存したままなのだ。歴史、社会的習慣、文化、文学などの共通認識を持たないまま、言語だけを置き換えてみたところで、コミュニケーションとしては十分には成立し得ないし、深い共通理解は得られないだろう。つまり、言語が機械で代替されるだけに、言語以外の要素が重要となる。
結果、これからの外国語教育は、現在取り沙汰されている会話能力ではなく、教養としての外国語、文化こそが求められると考えられる。

コミュニケーションは意味が通じれば良いというものではない。旅行会話や日常生活に必要な最低限度の会話は、それこそ現状の機械翻訳で十分なのだ。会話や文章の表象には現れない隠された意味や意図を読み取ると同時に、こちら側も明言しない(言質を取られない)形で意思を伝えるテクニックこそが求められ、それは機械翻訳では再現できない(少なくとも当面は)。
また、言語以外の部分でコミュニケーションを深化させなければ、関係性も深化しない。例えば、ある一つの営業活動であれば、機械翻訳のみで成立させられるだろうが、そこからさらなる契約を結んだり、新たなプロジェクトに進めるためには、表象的なコミュニケーションだけでは難しいものがある。
具体的には、どれだけ中国語がペラペラでも、孔孟や老子、あるいは史記や水滸伝を読んだことが無ければ、エリート層の中国人と深い関係になるのは難しいだろう。ウオッカが飲めなければロシア人と深い仲になるのは難しいし、プーシキンの詩をそらんじることが出来れば敬意をもって遇されるに違いない。
ところが、日本の現状は、漢文を必修から外して英会話の授業を増やしている。大学では第二外国語の廃止が進んでいる始末だ。

実用英語論を放置するとしても、文科省の目標は現状を完全に無視している。公立中高の教育水準が低いのは、単純に授業時間が足りないのと、教員の質が低下しているためだ。
授業時間が足りないのは、必要性の低い行事・イベントが多すぎることと、課外活動が多すぎるためであり、入学式と卒業式以外の学校行事を全て廃止、部活動も全廃して授業に充てれば解決するだろう。
教員の質が低下しているのは、労働環境が恐ろしく悪化しているためで、例えばOECDの調査で、教員の平均週勤務時間53.9時間のうち部活動関連が7.7時間を占めている。ちなみにOECD平均は38.3時間に対して2.1時間に過ぎず、日本の教員の労働地獄ぶりが伺われる。東京などの大都市部では、教員採用の競争率は3倍を切る有様であり、英語を自在に使えるような高度人材が中等教育の教員を目指すような環境には全くない。
共産党系の全教のデータなので注意が必要だが、小中高校などの教員の残業時間は月平均約95時間半で、10年前の調査より約10時間増えているという。うち、学校での残業が約73時間で、自宅で仕事をする時間が約22時間半となっている。小中別では、小学校の残業時間が月94時間21分、部活動が増える中学は114時間25分。月100時間以上の教員の割合は小学校34%、中学52%だった。
(教員給与削減という愚策) 

文科省は、教員研修や外部人材の活用を考えているようだが、何の解決にもならないだろう。この凄まじいまでの無策、無能は一体どこから来るのだろうか。
posted by ケン at 12:24| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月07日

今どきシャベルじゃなくて銃剣?

【中学武道に木銃使う「銃剣道」追加】
 文部科学省は2020年度以降に実施する小中学校の次期学習指導要領を31日付の官報で告示する。2月に公表した改定案に対するパブリックコメント(意見公募)の結果を考慮し、表記を改める予定だった「聖徳太子」や「鎖国」を一転して変えないことにした。中学校の保健体育で必修の武道の例としては、柔道や剣道など8種目に加え、木銃を使って相手を突く「銃剣道」を加えた。また、小学3〜6年で授業時間が増える英語を不安視する声も相次ぎ、文科省は18〜19年度を移行期間として各校の「総合的な学習の時間」を英語に充てる措置を検討する。パブリックコメントは改定案公表後の2月14日〜3月15日に実施され、9年前の前回告示時の約2倍にあたる1万1210件の意見が文科省に寄せられた
(3月31日、読売新聞)

「旧軍復活」云々という話はすでにされ尽くしているみたいなのでしない。
もともと本件は自衛隊員の天下り先確保が本筋の話らしいが、現実には教員免許を持つ銃剣指導員は2人しかいないというから笑える。それを「日本固有の武道」とゴリ押しし、文科省もGOを出してしまう辺り、相当に「終わってる」観がある。まぁ、将来的には配属将校制度も視野に置いているのかもしれない。

それはさておき、今どきスコップ戦闘術じゃなくて銃剣かよと。スコップにしておけば、ロシアから指導員を招聘して日露友好になるし、実用性の点でもはるかに有用で将来のパルチザン戦や革命戦に使えるかもしれないのに。

そもそも論で言えば、武術と武道の違いも論点になる。「敵を無力化する技術」である武術と、「武術を土台にした人間形成のための教育ツール」としての武道という具合に色分けできるが、果たして武道が人間性の形成に有用なのかと言えば、私的には想像もつかない。例えば、剣術が剣道になった途端に人間性を形成する教育手段になったとはとても思えない。現実には、近接戦闘技術としての剣術が廃れ、剣道に鞍替えしたものの、十分な効果が認められないため、著しく衰退していると見るべきではなかろうか。
柔道プレイヤーが20万人を切ってさらに減少を続けているのも、「道」としての中途半端さ(戦闘技術としても人間形成にも不十分)に起因していると思われる。まして、銃剣「道」とは一体何なのか皆目見当もつかない。
であれば、将来の対中あるいは対米パルチザン戦や内戦を見据えて、現実的な近接格闘術としてのスコップ戦闘術を学校で学ばせ、自宅に金属製スコップを常備させる方がよほど実用的だ。倫理的な話は別にして。

ちなみに、従来の武道は、柔道、剣道、弓道、相撲、空手、合気道、少林寺拳法、長刀(なぎなた)の8つ。まともに指導員を確保できるのは柔道と、せいぜい空手くらいまでらしく、それすらも厳しいのが実情で、全く現場の実情と合っていないという。民間に需要が無いにもかかわらず、文科省のイデオロギー政策と一部の業界団体が結託して官営で武道をやらせようとするあたり、著しく倒錯的だろう。

余談になるが、銃剣を付けたいがために、いまだに自衛隊の小銃は固定銃床になり、折曲式が国際標準の中にあって化石化してしまっているという。この辺の白兵戦信仰も、いまだ旧軍の旧弊から抜け出ていないことを意味している。あるいは、自国民を敵に想定していることの証かもしれない。
色々な意味で、ダメっぽさ満載だ。

【追記】
ケン先生は、学校の武道授業も部活動も全面廃止論者です。学校はあくまでも社会生活に必要な知識を学ぶところであって、それ以上を目指すべきではありません。
posted by ケン at 12:04| Comment(8) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月04日

最高裁のくせに穏当だ?

【GPS捜査 令状なし違法 異例の立法措置言及 最高裁大法廷、初判断】
 裁判所の令状なしに捜査対象者の車両に衛星利用測位システム(GPS)の発信器を取り付けた捜査の違法性が争われた連続窃盗事件の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は15日、「GPS捜査は強制捜査に当たる」との初判断を示し、令状なしに行われた捜査を違法と結論づけた。また、現行法上の令状で対応することには「疑義がある」として、GPS捜査のために「立法的な措置が講じられることが望ましい」と指摘した。
 15裁判官全員一致の結論。刑事裁判で最高裁が立法措置に言及するのは極めて異例。警察庁はこれまでGPS捜査は令状の不要な任意捜査との立場だったが、同日、全国の警察に対しGPS捜査を控えるよう通達を出した。
 大法廷は判決で「GPS捜査は行動を継続的、網羅的に把握するもので、個人のプライバシーを侵害しうる」と指摘。憲法が保障する「私的領域に侵入されることのない権利」を侵す強制捜査に当たり、「令状がなければ実施できない」と判断した。また、「公正担保の手段が確保されていない」などとして、現行法の定める令状で実施することに疑問を呈した。
 違法性を争っていたのは、平成24〜25年、店舗荒らしなどを繰り返したとして窃盗罪などに問われた建築業、岩切勝志被告(45)。捜査員らは令状を取らずに車両計19台に発信器を取り付けた。
 上告審で弁護側は「位置情報はプライバシーの中でも保護の必要性が高く、強制捜査に当たる」と主張。検察側は「プライバシー侵害の程度は小さく、任意捜査。現行法の令状でも実施できる」としていた。被告は犯行の事実関係は認めており、1、2審の懲役5年6月という結論は最高裁も支持した。
(3月16日、産経新聞)

権力(行政)に限りなく従属し、「国家の三位一体(行政、立法、司法)」を最重視する最高裁判所が、珍しく人権に配慮した判決を下している。
この問題はちょうど一年前に扱っているので、一部再掲しておきたい。
基本的には、技術革新に対して法整備が追いつかず、技術運用が先行してしまって人権侵害の疑義が生じている、という状態にある。現行憲法には、プライバシー権の記載こそ無いものの、13条で「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」が明記され、移動の自由もある。だがこれらは、「公共の福祉に反しない限り」という前提があるため、刑事捜査によるプライバシーの侵害は一定程度認められている。それだけに、従来型の追跡調査は合法だが、GPSは著しくプライバシーを侵害するから令状が不可欠という、地裁の判断は、人権原理上は妥当だが、現行法の中ではやや無理があったと思われる。

とはいえ、位置情報は個人の重大なプライバシーであり、治安当局が無制限に把握できるとなれば、それはもはや旧東側諸国の「監視国家」と何ら変わらないものになる。現状は、技術的に可能で、実際に利用が進んでいるが、一切の法規制や制度整備がなされていない状態にあるだけに、「警察の暴走」が危惧されるのもまた当然なのだ。日本の警察がその気になれば、携帯電話を始め、市内の防犯カメラやNシステムを利用して、全市民の位置情報を把握するだけでなく、あらゆる通話やメールを傍受することも可能だからだ。そして、それは一部実現されている。

まずは最低限、裁判所の令状を取り、一定の条件下で事後にでも令状開示を可能にする法規制が必要だろう。だが、日本の裁判所は99%以上の確率で捜査令状を出している現状を考えると、果たして一定の歯止め・人権擁護になるのか疑問はぬぐえない。とはいえ、警察の独自判断で、無制限にGPS捜査が許されてしまっている現状は、早急に改善する必要があろう。
GPS捜査は法整備を

私のスタンスに変わりは無い。技術が進化する一方で、警察の人的資源には限りがあり、GPS捜査そのものは肯定すべきだと考える。先の記事でも書いているように、ヒューマン刑事による尾行や張り込みは令状無しで合法なのに、同じ用途で行われる機械を駆使しての尾行、位置確認は非合法というのは、公平性の点でも時代性の点でもそぐわない。考え方によっては、常に刑事に尾行されている状態より、GPSで単に位置情報が知られている方が、警察にとっても容疑者にとっても「マシ」かもしれないのだ。
ただ、現状のように法律を始めとするルールが存在しない状態で、GPS捜査を全て合法化してしまうと、警察にノーチェックの「使い放題」を許すことになり、理論上は全市民の位置情報を常時入手できることになってしまう。かつてなら人員上の制限で、自然と捜査範囲が制限されていたが、技術進化によって、位置情報取得も盗聴も個体識別も無制限に可能になっているだけに、今まで以上に人権とプライバシーに配慮する仕組みをつくらないと、容易に監視社会化してしまうだろう。
posted by ケン at 12:27| Comment(4) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月16日

いつぞやの手口で楽しく弾圧

【共謀罪「一般人は対象外」=菅官房長官】
 菅義偉官房長官は6日の記者会見で、いわゆる「共謀罪」を創設するための組織犯罪処罰法改正案を20日召集の通常国会に提出することについて「政府が検討しているのはテロ等準備罪であり、従前の共謀罪とは別物だ。犯罪の主体を限定するなど(要件を絞っているため)一般の方々が対象になることはあり得ない」と述べ、理解を求めた。 
(1月6日、時事通信)

霞ヶ関官僚というのは結局のところ同じところに行き着くらしい。入口を小さくして、国民が飲み込みやすいサイズにしておいて、後で際限なく拡大して一網打尽にしようという魂胆である。これまでも共謀罪や秘密保護法の問題点は取り上げてきたが、繰り返したい。

戦前期に植民地を合わせれば10万人以上が逮捕され、共産党の試算では1500人の獄死者と200人の拷問死を出したのが、治安維持法だった。ナチス・ドイツを上回る監視国家となる根拠にもなった。
だが、同法は最初から国民弾圧を目的としたものではなかった。

1925年に日ソ間の国交が樹立したことを受けて、日本国内においてコミンテルンの活動が活発化し、共産主義・反天皇制運動の拡大が真剣に危惧されていた。同時期に普通選挙法が施行されて、25歳以上の男子のほぼ全員に選挙権が付与されて有権者が飛躍的に拡大、共産党が労働者や小作人層から支持されるのではないかという懸念があった。現実には、それらは殆ど杞憂だったのだが、当時の官僚や政党人にとっては現実的な懸念だった。従って、当時にあっても「治安立法自体は致し方ないが、政府原案では国民全員が取り締まり対象になってしまう」といった批判が最も多かったらしい。

ところが、治安維持法が実際に施行されてみると、「実際の運用(適用)が難しい」などの理由から改正が要望され、戦時体制への移行も相まって、適用範囲が段階的に拡大、厳罰化も図られた。その結果、1928年の3・15事件で共産党が一掃された後にも、1937年に人民戦線事件で合法左翼(労農派)が一斉検挙され、さらに労働運動家や反戦思想家、自由主義者や宗教団体にまで適用されるに至り、「天下の悪法」の名をほしいままにしたのである。

共謀罪の恐ろしさは、ソ連やナチス・ドイツのケースを挙げるまでも無く、日本の戦前に見ることができる。1910年の大逆事件では、明治天皇暗殺計画が発覚し、宮下太吉ら5人によるものであったにもかかわらず、幸徳秋水を始めとする24人が死刑に処せられた。当局は当初から5人の計画であったことを知っていたが、大逆罪を拡大適用した。事実が判明したのは戦後のことだった。なお、幸徳が死刑になったのは、公判で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と述べたことによるとされている。

1923年の朴烈事件では、関東大震災直後に治安警察法による予防拘束(まだ事件を起こしてもいないし、計画も発覚していない段階での検束)を受けた朴烈が、拷問を受けて、愛人の金子某との「皇太子襲撃計画」について、特高の誘導尋問に同意したと見なされ(自白すらしてない)、大逆罪が適用され、死刑宣告された。後に恩赦で無期懲役になったものの、戦後の1945年10月末(8月15日でも9月3日でも無い)まで刑務所に収容されていた。

戦時中に起きた横浜事件では、出版社の温泉旅行を共産党再建のための謀議と見なした特高によって治安維持法違反で60人以上を逮捕、拷問で4人が獄中死した。後に起訴されて、ポツダム宣言受諾後に「駆け込み判決」が下されて、30人余が執行猶予付き有罪となった。恐ろしいことに、この公判の記録は、戦争犯罪追及を恐れた政府・裁判所によって焼却処分されている。なお、裁判で検察が証拠として提出した写真は、全く別の機会に撮影されたものだったことが判明している。そもそも、戦時下で共産党再建の謀議を行っている者たちが、記念撮影をするとは考えがたい。

治安維持法が最初に審議された際、当時の若槻禮次郎首相は、
「世聞にはこの法律案が労働運動を禁止するがためにできるやうに誤解しておる者があるやうであります。此法律が制定されますと、労働者が労働運動をするについて、何等かの拘束を受けると云ふやうに信じて居る者があるようであります。斯の如きは甚だしき誤解であります。」

と答弁、川崎卓内務省警保局長は、「乱用など云ふことは絶対にない」と断言している。

現行の日本政府は、治安維持法を施行し国民弾圧をほしいままにした帝国政府の後継であり、安倍内閣は「明治の日」に象徴されるように戦前の帝政を称賛しているだけに、菅官房長官の言は全く信用に値しない。「一般の方々が対象になることはあり得ない」というのは原案の話であり、数年後には改悪されて「合法左翼」や「合法リベラル」が対象にされるのは明白だろう。本ブログが閉鎖される日も遠くないかもしれない。

そもそも期間が一カ月もない程度のオリンピックを開催するために、時限立法ならともかく恒久法で市民を「一網打尽」にできる法律が必要であると主張している時点で、政府の本音がどこにあるか分かるだろう。そもそも東京都と政府は、「東京は世界で最も安全な街」を最大のセールスポイントにしていたはずだ。
確かに米国でも9・11連続テロ事件の後に、悪名高い「愛国法」が成立したものの、あくまでも時限立法であり、一回延長されたのみで2015年に廃止されている。行政と議会と裁判所という権力の分立が相応に機能している米国と異なり、日本では行政が圧倒的に強い上に、議会は自民党の一党優位体制が50年も続いて行政と一体化しており、さらに裁判所は行政の従属下にあるという環境にあり、権力の分立が機能していない以上、当局に「誰でも逮捕できる」権限を付与することは恐怖政治の根源にしかならない。

日本の現政府は、骨格を明治帝政から継承し、連合国との戦争に敗れて休戦条約の条件として渋々「民主化」しただけの存在であるため、根源的に自由主義や民主主義を否定し、権威主義に傾く傾向を有している。その政府に共謀罪やら通信傍受やらを許せば、容易に戦前のおぞましい暴力支配を復活させるであろう。その手始めは、沖縄の反基地運動家となりそうだ。権威主義者に際限なき権力を与えることは、「狂人に刃物」であり、その刃先は近い将来、一般市民に向けられること間違いない。誰が「一般」であるかを決めるのは常に権力側なのだから。
真の民主化を実現しなければならないのは、中東などでは無く、この日本である。

【追記】
それにしてもどこかで聞いたことがあると思ったら、偉大なる水木しげる先生の『劇画ヒットラー』だった。全権委任法案の提案演説に際して。
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posted by ケン at 12:46| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月08日

カリキュラムの問題か?

【<次期指導要領>英語、小5から教科 高校「歴史総合」創設】
 文部科学相の諮問機関・中央教育審議会(北山禎介会長)は21日、2020年度以降に小中高校で順次実施する次期学習指導要領の改定方針をまとめ、松野博一文科相に答申した。歌などで楽しみながら学ぶ教科外の「外国語活動」としている小学校5、6年の英語を正式教科に格上げし、外国語活動を3、4年に前倒しして実施する。高校は現在検討中の大学入試改革を踏まえて科目を大幅に見直し、日本史と世界史を融合した新必修科目「歴史総合」などを創設。小中高校の全教科を通じ討論や発表で主体的に学ぶ学習形態「アクティブ・ラーニング」も導入する。
 文科省は答申を受け、16年度中に小中学校、17年度に高校の指導要領を改定。全面実施は小学校=20年度▽中学校=21年度▽高校=22年度。小中学校は18年度から各校の判断で次期指導要領を先行実施できる。答申は、人工知能(AI)の進化など変化が激しい社会にあって、子供が自分なりに試行錯誤したり、他者と協働したりしながら生きる力を育むことが大切だと指摘。生涯にわたって能動的に学び続けるには学習の在り方そのものを見直す必要があるとして、主体的に学ぶアクティブ・ラーニングの視点による授業改善を求めた。
 国際学力調査で読解力の平均点が低下したことを受け、文章の読み書きなど言語活動のさらなる充実も求めた。学習内容は削減せず、現行指導要領の「脱ゆとり」路線を継続。授業時間は中学が現状維持、小学校は英語教科化と外国語活動の前倒しに伴い3年以上は年35時間(1単位時間45分)、おおむね週1時間増える。
 高校は近現代を中心に学ぶ「歴史総合」のほか、主権者教育を担う「公共」を新たに必修科目とする。理科と数学を活用し多角的に考察する「理数探究」などの選択科目も新設する。  英語教科化はグローバル社会への対応を目指し、政府の教育再生実行会議が13年5月に提言した。高校卒業までに学ぶ単語数を現行の3000語から、4000〜5000語に増やす。
(12月22日、毎日新聞)

色々突っ込みどころ満載の教育改革。
小学校の英語教化科は見切り発車も良いところで、小学校そのものにも教員にも英語を教えるインフラが整っておらず、試行錯誤が続いている。ただでさえ授業時間が足りないということで、土曜授業の復活が著しい上に長期休暇も削られ、昨今では北日本以外でも8月20日過ぎから授業が始められるという。ここに英語の授業が増やされるのだから(年35時間)、その分何かを削るか、授業数そのものを増やす必要が生じる。

私は以前から、運動会も学芸会も始終業式も何トカ委員会も止めるように提言しているが、本来の目的から外れた有用性の低い事業を止められないのが日本型組織の最大の欠点と言える。その結果、労働生産性が低迷するのと同じ理由から、学習効率も低迷し続けるものと推察される。
トランプ次期米大統領の公約「連邦規則1つの新設する場合には既存の2つの規則をなくす」が思い起こされよう。

高校の「歴史総合」について、リベラル派からは「世界史を無くすのか」との批判が上がっているが、そもそも世界史は選択科目であり、センター試験の選択率を見る限り、「地理歴史」選択者のうち世界史選択が2割、日本史と地理が各4割となっている。これを統合して必修化しようという意図自体は合理的な点も認められよう。
とはいえ、日本史と世界史を統合した総合科目が怪しいものにしか聞こえず、「どうせロクなものにならない」という懸念は十分に理解できる。

「アクティブ・ラーニング」も意図するところは理解できるが、すでに意味不明な総合科目が多く設置され、どのような教育効果が得られているのかいまだ判然としないのに、またぞろナゾのプログラムを増やすのは感心しない。どこぞの日本軍やジオン軍のように、怪しげな「決戦兵器」ばかりつくってしまう末期症状を見る思いだ。

「このままではダメだ」という危機感は正しいとしても、授業時間や勤務時間は有限であるだけに、「スクラップ&ビルド」のバランスをとらないと、教員と子どもの負担が増えるばかりで、結果的に効率とパフォーマンスを低下させるだけに終わるだろう。
いかにも現場を知らない頭でっかちのヤクニンが考えそうな話である。
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月25日

建前とりつくろうだけの法務省

【「実習生は労働力」削除を…法務省、監理団体に】
 途上国への技術移転を目的とする外国人技能実習制度を巡り、法務省が8月以降、実習生の受け入れ窓口である全国の「監理団体」に、ホームページ(HP)上の「労働力の確保」などの表現を削除するよう文書で要請していたことがわかった。制度の拡大などを盛り込んだ法案を臨時国会でスムーズに通す目的とみられ、監理団体から「制度の実態は労働力の確保だと、皆がわかっているのに」と戸惑う声が上がっている。技能実習制度では、監理団体が相手国の送り出し機関と連携して実習生を受け入れ、実習先をあっせんしている。商工会や農業、漁業協同組合など約2000団体あり、実習が適正に行われているかを確認、指導する役割も担っている。
(11月17日、読売新聞)

違法行為や人権侵害がまかり通っている現状を放置している政府が、HP上の宣伝文句は「建前と違うから」と削除を「要請」している。あくまでも「要請」でしかない。
言うなれば、「文書は残るから消去しろ」という話であり、終戦時に「ポツダム宣言に戦犯は処罰すると書いてあるから、公文書は全て焼却しろ」とした帝国内務省と同じ発想であることを示している。

以前にも書いたように、国会の事務所に来る問い合わせも、すべて「労働法制が適用されず、警察権や監督権の介入も無い便利な労働力だから、うちでも使いたい」という話ばかりで、「日本の高度な技術を発展途上国の若者に伝授したい」などと言ってきた事例は一件も無い。繰り返すが、ゼロである。

外国人技能実習制度の問題は、使われるのが外国人で、さらに労働法制の埒外に置かれている点にあり、使用者にとっては最大のメリットになる。
どのような違法行為や人権侵害が行われようと、地域ぐるみで隠蔽され、外国人であることから警察に相談もできず、裁判に訴えることもできない。使用者がパスポートを取り上げ、外出も許されず、電話やインターネットも制限されるというのだから、これを奴隷と言わずして何と言うか。

挙げ句の果てには、「技能実習で来日した外国人が難民申請して、他所で働くから、難民申請を規制しろ」などという意見まで上がっている。技能実習制度の非人道を改めること無く、むしろ難民申請を閉ざそうというのだから、もはや日本人そのものから人道主義・ヒューマニズムが失われていることを示している。
本来であれば、民進党は、率先して廃止を主張すべきはずだが、現実には介護分野に適用拡大する法改悪に賛成してしまっている。一体何のために存在しているのか分からない。
posted by ケン at 11:49| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月05日

英語で授業するという愚劣

文科省は将来的に、大学における一般教養授業の3分の1から半数を英語で行う方針を打ち出している。高等教育機関は独立性が保障されているものの、日本の場合は欧米諸国より従属度が高いこともあり、多くの大学で検討が進んでいる。私が大学院で学んだTG大なども率先して検討しているようだ。だが、これほど愚劣な方針は無い。
普通に考えて、日本語を母語とする教員が同学生に授業しても十分には理解されないのに、英語が得意なわけでもない教員が、英語を十分に理解できない学生に、高等教育の教授科目を教えるのだから、ますます理解度が下がるだけの話で、「誰得」な話なのだ。

正確な数字については様々な議論があるようだが、一般的に学校で教員が発信する情報のうち、生徒が受けとめて理解できるのは平均で3〜4割程度らしく、大学以上になると2〜3割程度になってしまうという。
さらに、それを外国語で行う場合、その外国語を理解する者でも2〜3割程度しか入らないと言われる。つまり、大学において英語で授業する場合、学生は教授が発する情報の10%以下しか身につかないことを意味する。
もともと大学の教員は、高校以下の教員と異なり、教授法の訓練を受けておらず、本来的には教育そのものが職務でないこともあって、「学生に理解させる」インセンティブに欠ける。そこに英語で教えろと言うのだから、ますますクオリティを低下させる結果にしかならない。
要は、文科省も大学も、自ら教育の非効率化を進めているのだから、「バカじゃ無いの!」としか言いようが無い。

私もロシアの大学で教えていた経験があるだけに確信を持って言うが、外国語で授業するというのは、準備も含めて母語の何倍もの時間とストレスが掛かる。しかも、それを日本の大学で日本人相手にやれと言うのは、全く意味が分からない。

グローバル化云々という話であれば、英語教育の特化機関やコースをつくって一年間集中してやらせて卒業を一年間遅らせれば良いだけの話で、その方がよほど効率性が高く、教員にとっても学生にとっても大学にとっても良いはずだ。

もっとも、先に述べた通り、この数年で言語工学は驚異的な進化を遂げ、機械翻訳の精度は非常に高くなっている。10年以内にも、大多数の翻訳は機械で足りる時代が実現する勢いであり、それを考えれば、文科省や大学機関の先見性の無さと愚劣ぶりが際立っていると言える。その意味では、日本の大学に通うこと自体、馬鹿げているとも言えなくも無いのだろうが。
同時に、「母語で高等教育が受けられる」という優位性を放棄しようとしている日本政府は、存在自体が売国的であり、Nation states=民族国家の名を冠するに値しない存在と化しているのだ。
posted by ケン at 13:39| Comment(4) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする