2016年07月13日

外国語能力の価値を否定する東京外大

【大学生通訳、ボランティア参加 東京へ懸け橋】
 開幕が1カ月後に迫ったリオデジャネイロ五輪には、東京外国語大の学生19人が日本語の通訳ボランティアとして参加する。大会組織委員会の「SOS」に応じた形だが、学生たちは「4年に1度の大会でしか得られない経験がある」と話し、2020年東京大会に向けボランティアの懸け橋となる自覚も芽生えている。 担当の鶴田知佳子教授によると、今年2月、知人を通じて組織委から「日本語の通訳ボランティアが不足している。学生を派遣してほしい」と打診があった。各会場で日本の選手やメディア関係者らが話す日本語を、五輪の公用語の英語に訳すのが主な仕事で、その逆も担う。
鶴田教授は大学のホームページで、英語のコミュニケーション能力を測るTOEICで高得点の800点以上を条件に参加者を募集した。応じた約60人の学生はインターネットを介したテレビ電話で組織委担当者の面接を受け、五輪19人、パラリンピック9人の採用が決まった。うち2人は両方に参加するので計26人。大学側も通訳ボランティアを短期海外留学科目「スタディーツアー」として今年度の履修に加えた。
 ユニホームや活動日の食事は提供されるが滞在費や渡航費は自己負担。宿泊先は大学側が手配したものの、地球の反対側への渡航費約30万円は学生が賄うため、一時的に親に援助してもらう学生が多い。フランス語科2年のNさん(19)は「将来は海外に関わる仕事を考えており、参加は金額以上の価値がある」と話す。 五輪のボランティア期間は8月5〜20日でシフトは6勤1休の予定。さらに学生たちは、ブラジルの公用語ポルトガル語の日常会話習得にも意欲的だ。
(7月5日、毎日新聞より抜粋、氏名略)

わが母校(院の方だけど)は最悪の選択をなした。
当然ながら通訳料はゼロ。それどころか、渡航費30万円プラス滞在費も自己負担。で、応募条件はTOEIC800点以上。わが母校は、自らの学生の語学能力が「ゼロ円」であることを社会に宣言してしまった。いまや唯一の国立外国語大学であることの経済的価値を否定したのだ。

喩えるなら、軍士官学校で、「某国義勇兵募集、報酬ゼロ、渡航費と滞在費は自己負担」という掲示が出るのと同義のはずであり、士官学校がそのような募集を許さないのは当然だろう。
リオデジャネイロの現状は、まともに路上も歩けないほど治安が悪化している上、ジカ熱などの風土病が蔓延しており、大学としてはむしろ渡航自粛を呼び掛けるくらいのレベルにある。東外大は学生の安全にあまりにも無頓着だ。

競技場の整備には3500億円とか費やして、それを2千億円に値切った都知事はバッシングして追放刑に処すのに、通訳はタダで済ませようというのが日本の実情。これではまともな人が皆外資系に行ってしまうのは当然だろうし、外国語に堪能な人材も育たない。
外国語大学であるからこそ、外国語能力の価値を高める努力をなすべきなのに、むしろ価値を下げているのだから、愚劣極まりない上、全く学生の将来を考えていないことを示している。学生が組織委員会の募集に勝手に応募するのは自由だが、大学当局が斡旋するなどあり得ない話だ。
また、これを美談と報じてしまうマスゴミも同罪である。
posted by ケン at 13:00| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月02日

文科省はやる気が無いだけ

【「いじめ」明確化へ=学校で対応しやすく―文科省】
 文部科学省の有識者会議は30日、いじめの定義を明確化させる検討を始めた。学校現場でいじめの解釈や報告状況が異なっており、秋ごろまでに考えを整理する。文科省はこれを受け、いじめ防止対策推進法に基づく基本方針の変更などを検討する。同法はいじめを「心理的、物理的影響を与え、対象となった児童らが心身の苦痛を感じている」行為と定義。同省が3〜6月、教育委員会や学校に実施したヒアリングで「定義が広いため解釈が教員間で異なる」「定義通りに認知すると膨大な数になり、対応が困難になる」などの意見が出た。 
(6月30日、時事通信)

文科省がこんなことを言い出すと、逆に「定義を変えることで、統計上の数字を減らそうと企んでいるのではないか」と勘ぐってしまう。いかんせん、あの連中は、09年の政権交代選挙の2カ月前に、頼んでもいないレクに来て、一方的に「高校無償化なんて絶対に無理」と主張して帰って行った挙げ句、いざ政権交代が実現すると、手のひらを返して無償化を実現させたような奴らだからだ。私が知る限り、文科省と外務省は最も民主的統制に従わない上に、国民・主権者に対して不誠実な省庁である。

これは以前から指摘していることだが、いじめは、要は閉鎖的小集団の中で、人が長時間共同生活を強いられた場合に生じる集団ストレスが原因なのだから、かなりの部分を物理的に解消できる。具体的には、クラス制度を廃止して単位制に移行することで、集団化を回避できるし、壁のある教室を廃止してオープンスペースにすることで、閉鎖的空間を解体することができる。いじめは、人が見ていないところ、ないしは閉鎖的集団内で起きるものだから、これを取り除けば良いだけ。これは50年前には分かっていたことだが、子どもの数が多すぎて実現が難しかった。だが、今それができない理由は無く、要は本気で取り組む気が無いだけだろう。
posted by ケン at 13:00| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月27日

スマホはあり得ない−育つビッグブラザー

【携帯のGPS情報、本人通知なしで捜査利用 一部新機種】
 今夏発売の携帯電話の新機種の一部から、捜査機関が、本人に通知することなく、GPS(全地球測位システム)の位置情報を取得できるようになることがわかった。総務省が昨年、個人情報保護ガイドラインを改定し、本人通知を不要としたことを受けた措置で、機種は今後順次拡大していく見通し。犯罪捜査に役立つ一方、プライバシー侵害の懸念もある。NTTドコモは、11日発表の基本ソフト(OS)「アンドロイド」を使うスマートフォン5機種で対応を始めるという。19日から順次発売する。KDDI(au)は「捜査に関わるため、本人非通知の改修有無についてはコメントを控えるが、必要な対応を検討中」と回答。ソフトバンクも「運用を含めて検討中。詳細は回答を控えたい」とした。携帯電話会社は、捜査機関の要請で、利用者端末の位置情報を提供することがある。総務省のガイドラインは従来、位置情報の取得に際し、@裁判所の令状、A位置情報取得時の本人への通知、を求めていた。
(朝日新聞、5月16日)

ガラケーがなくなったらPHSに移行するしかないか。少なくとも自らビッグブラザーに投じるようなスマホはあり得ない。

リベラリズムは、王権による統制に対して個人の権利の確立を求める思想で、個々人の財産と権利を守ることを政府の役割とした。すべての個人は自己決定権があり、自己の意志を実現する権利を有していると考えることから、社会全体でこれを実現するためには国家などによる統制や介入も必要だとするのが本来のリベラリズムである。

ところが、現状、「対テロ戦争」への対応が強化されるにつれて、行政権力(王権)の肥大化が進行し、個人の身体や権利、財産への侵害を加速している。リベラリズムは、こうした事態を想定して、国家権力を分立させることで、エリート間の競争を促し、互いに権力の行き過ぎをチェックするシステムを構築した。その結果として、行政権が個人の権利を侵害する際には、司法の同意(令状)を得ることとした。

もっとも、GPS捜査には現在、法的規制がない。警察庁は内規で、裁判所の令状が不要な任意捜査と位置づけており、他の手段で追跡が難しい場合、犯罪行為をせずに発信器を取り付けるよう各都道府県警に求めている。
この件に関して、訴訟が行われ、大阪、名古屋、水戸の3地裁が、外部から目が届かない場所まで位置を把握されることなどは、重大なプライバシーの侵害に当たると指摘、令状が必要と断じた。だが、大阪高裁はこれを覆し、GPS捜査の妥当性を認め、令状不要とした。

こうした中、公安委員会でも法務省でもない総務省が、ガイドラインを改定、GPS情報を本人に通知せずに、政府が利用できるようにした意義は大きい。これは、行政と司法が結託して、市民の自由権を無制限に侵害することに合意したことを意味するもので、リベラリズムの原理の否定に他ならない。
米国では、911テロ後に「愛国法」が成立して、市民に対する通信傍受が大幅に許されたものの、時限立法で一度更新された後、二度目は更新せずに廃止している。リベラリズムの先進国たるアメリカは、自由権の侵害に対する何らかの担保がなされているわけだが、日本ではそれもなく、行政権力の拡大が無制限に認められてしまっている。

もともと市民革命を経ずに近代国家を成立させてしまった日本では、リベラリズムやデモクラシーに対する関心が希薄で、国家や王権と対峙する存在としての「市民」の感覚が育っておらず、むしろ国家と自己を同一視する「臣民」の感覚が濃厚に残っている。
同様に、国家に権力が集中し、形式的に権力の分立がなされているものの、行政権力が圧倒的に強く、立法や司法の権力が弱く、さらに行政とマスメディアも一体化してしまっているため、行政権力の暴走や肥大化を止める制度的担保が存在しない。
同じ流れで、「民間」が弱すぎるため、市民レベルから個人の安全やプライバシーを追求する力も弱い。

日本に「ビッグブラザー」が構築されつつあるのは間違いないが、「誰のための政府・国家なのか」という議論がされないまま、無自覚の内に行政権力のみが肥大化しつつある。戦前と同じで、またぞろ全国民を大不幸にした挙げ句、「一億総懺悔」で済まされそうなところが、恐ろしい。
日本は、国家のデザイン思想から見直して、制度設計し直す必要がある。
posted by ケン at 12:56| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月16日

ヘイトと刑訴法のバーターとかあり得ない!

【ヘイトスピーチ対策法、成立へ=13日に衆院送付】
 人種や国籍などの差別をあおるヘイトスピーチ(憎悪表現)対策法案が今国会で成立する見通しとなった。同法案を審議する参院法務委員会が11日の理事懇談会で、12日の採決で合意。民進党など野党も賛成し、13日にも本会議で可決、衆院に送付される運びだ。法務委では、与党案と民進党などが提出した野党案が並行審議されている。12日に採決するのは与党提出の修正案。野党案を採決するかどうかは引き続き協議する。与党修正案は、ヘイトスピーチについて「生命や身体に危害を加える旨を告知し、著しく侮辱するなど、外国出身者であることを理由に、地域社会から排除することを扇動する不当な差別的言動」と定義。野党の要求を受け、「侮辱」を追加した。その上で、政府に対し、こうした言動の解消に向けた教育などの推進を求めている。ただ、憲法の表現の自由との兼ね合いから、罰則は設けなかった。 
(5月11日、時事通信)

このヘイトスピーチ対策法は、野党が原案の「本邦外出身者」「適法に居住する」という、対象者の限定条項の削除を要求していたが、与党側は拒否、「著しく侮辱」の追加のみ応じた。この結果、「日本国内出身者」や「不法滞在外国人」に対する「不当な差別」は逆に「合法(脱法)」ということで、処罰されないことになった。具体的には、琉球諸部族、アイヌなどに対する「不当な差別」は、同法の「ヘイトスピーチ」に該当しないことを意味する。この点については、附帯決議を付けることで与野党間で合意されたものの、附帯決議には何の法的効力も無く、「気休め」にすらならない。つまり、「ザル法」である。

これに対し、民進党が、ヘイトスピーチ対策とのバーターで審議に応じた刑事訴訟法改正案は、これも修正を経て賛成することになった。ところが、この刑訴法改正案について、民主党(当時)は「司法取引と取調べ可視化の拡大のバーター」という方針で臨んでいたはずだが、現実には取調べ可視化対象者の拡大は見送られ、司法取引の協議に弁護士の関与を規定することと、通信傍受に際し通信業者の立ち会いに代わって「事件に関与しない警察官」が立ち会うことで合意がなされた。
司法取引の交渉に常に弁護士の同席を要求するならまだしも、「弁護士の関与」などという曖昧な表現では全く実効性が担保されないだろう。
また、通信傍受に際しての「事件に関与しない警察官」の立ち会いなど、紛争の停戦監視に「紛争に直接関与しない同国軍兵士」を監視者とするような話であり、より悪く言えば、戦争の略奪行為の取り締まりに、異なる部隊の兵士(憲兵ですら無い)を充てるようなもので、全く意味が無い。古来、警察というのは凄まじく閉鎖的なタテ社会で、同僚の悪行や不法・脱法行為を咎めることなどあり得ない。

全く不公正な司法改革 

与野党間の圧倒的な戦力差を考えれば、この辺が妥協点になってしまうのは分かるが、変に妥協して悪法に賛成したことで、後日「悪法に賛成した」と誹謗され、あるいは自らが賛成したが故に廃止法案や改正法案も出せないという呪縛に取り憑かれる恐れが強い。若干の修正を経て成立した治安維持法が、どのように猛威を振るい、日本人を恐怖のどん底に陥れたかは完全に忘れ去られている。近現代史教育の不備はこのように現れるのだろう。
法律解釈で自己の権限拡大を狙った司法省が治安立法に前のめりだったのに対して、実際に運用者となる内務省が「そこまでの緊急性は無い」「現場での適用が難しい」などの理由からやや消極的だったことも特筆に値する。今回の秘密保護法は警察主導で立案されているものの、警察官僚出身の亀井静香議員や小野次郎議員は慎重姿勢を示している。

ところが、治安維持法が実際に施行されてみると、「実際の運用(適用)が難しい」などの理由から改正が要望され、戦時体制への移行も相まって、適用範囲が段階的に拡大、厳罰化も図られた。その結果、3・15事件で共産党が一掃された後にも、合法左翼はおろか、労働運動家や反戦思想家、自由主義者や宗教団体にまで適用されるに至り、「天下の悪法」の名をほしいままにしたのである。
特高を指揮して取締の先頭に立った町村金五(特定秘密保護法案の作成責任者の父)あたりは確信犯だった可能性が高いが、リベラル色の強かった若槻礼次郎が人民戦線事件や大本事件を予想していたとは到底考えられない。
つまり歴史は、権力が暴走することを前提に法体系を構築しないと、いざという時に誰も止められなくなることを教えているのである。
治安維持法は言論弾圧法ではなかった?!

治安維持法の採決に際し、貴族院で唯一反対した徳川義親議員(侯爵、尾張徳川家当主)の反対討論を再掲しておこう。
司法大臣は、本案は極めて明瞭なるものであって、曖昧な点がない、之を用いるに当たって少しも疑いのあるはずがないと仰いましたけれども、果たしてさうであるかどうかと云ふことは、私は信じることが出来ないのでございます、之を立案いたしました方、立法者に於きましては成程明瞭で以て何等の疑を挿む所はございますまいが、之を実際に用いますのは立法者ではございませぬで、又必ずしも立法者と同じ心を持って居るものではないのでございます、実際此法を用います者は裁判官でも至って少いのでありまして、多くは警察官でございます、必ずしも之を誤って用いることなしとせないのでございます。外の法律と違ひまして、峻厳極まりないものでございまするが故に、一度誤って用いました其結果は誠に恐ろしいものでございます。

此法律がございませぬでも、新聞紙法、出版法、治安警察法等がありまして、朝憲及国憲の紊乱は、十分に取締まることが出来るものではないかと私は思ふのでございます。私の見ます所に依れば峻厳極まりない此法律の実際に当りまして、政府当局に果たして十分な用意がありや否や、細密な用意が欠ける所があるやうに思はれるので、私は茲に俄かに賛成出来兼ねるのでございます。

まさに歴史が繰り返されようとしている。
posted by ケン at 12:40| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月31日

苗字廃止論

江戸期における苗字は、現代人が考えるファミリーネームとはかなり異なるものだった。例えばわが先祖である幕臣S木家の場合、おおよそ「馬一頭、銃一丁、槍三本」とそれに付随する人員の常備が義務とされた。100石超の家禄は当主であるS木T吉の個人的給与では無く、装備の維持費や従者郎党の給与まで含んだものだった。大名家は恒常的に家禄を支給し、禄の世代継承を保障する対価として、各家は軍事的義務を負う、というのが封建的契約関係だった。

もっとも現実には、幕末の長州戦争に際し、将軍家は旗本に大動員令を下すが、旗本の多くは義務化されていたはずの装備や人員を用意できなかった。太平が長く続いて、諸物価が高騰していたため、みな兵具を売り払い、郎党や中間も身の回りの世話要員程度しか雇っていなかったのだ。その結果、動員令が下りると、古道具屋と口入れ屋に幕臣が殺到、その価格が急騰し、必要な兵具と人員を確保できたのは一部に過ぎなかった。義務を果たせなくなった旗本たちは、禄を返上するのでは無く、みな隠居届けを出すことで責務回避を図った。この時点で、江戸期の封建制度は実質空洞化していたことが分かる。

話を戻そう。例に挙げたS木家というのは、この一個の軍事的最小単位を指すものであって、今日のファミリーネームではあり得なかった。むしろ今日の法人名に近い。将軍家を大企業とすると、旗本はその傘下直系の中小企業群に相当する。
興味深いことに、かつてスターリンの息子が学校で「ボクはスターリンの息子なんだぞ」と威張った際、帰宅したスターリンに「スターリンなどと言う個人は存在しない。自分もお前もスターリンなんかじゃ無いんだ」と烈火のごとく怒鳴りつけられたというが、この感覚が分からないと、伝統的な苗字というものは理解できないのかもしれない。

大政奉還を経て明治政府が樹立すると、明治3年(1870)に「平民苗字許可令」、同8年(1875)に「苗字必称義務令」が発布される。当初、全国民に苗字使用の許可が下されたものの、苗字使用は普及せず、国家による強制が必要だったことは興味深い。つまり、庶民の多くにとって一般生活に無用のものだったのだ。
しかも、苗字導入時には夫婦別姓が原則(同姓選択制)であり、夫婦同姓が制度化されたのは、明治31年の民法改正によって夫婦同姓に基づく「イエ」制度が確立した。明治9年に苗字使用を義務化するに際して、太政官法制局が夫婦別姓を採用したのは、「妻は夫の身分に従うとしても、姓氏と身分は異なる」「皇后藤原氏であるのに皇后を王氏とするのはおかしい」「歴史の沿革を無視」という理由からだった。さらに、明治31年の民法改正に際して、司法省がドイツ式の夫婦同姓案を提示したところ、当時の保守派から「日本古来の家父長制に反する」と大反発を受け、戸籍に絡めて「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」とすることで折り合いを付ける始末だった。

明治維新を経て封建的身分制度が(完全ではないが)廃止されたのは、出自が個人の身分を規定し、職業を限定することで、労働力と能力開発を大きく自己規制してしまう点にあった。これは、ヨーロッパにおいて奴隷制や農奴制が廃止された理由と同じである。資本主義に基づく経済発展のためには、身分制の廃止と労働力使用の自由化は不可欠のものだった。現代においても、ソ連の農業集団化が経済成長を阻害したことや、インドで貧困問題が一向に解決できないことも、同じ理由から説明できる。
明治政府は、全国民(当時は臣民)に苗字の使用を強制したが、同時に家父長制に基づくイエ制度を創設した。その結果、今度は女性がイエに縛られ、女性の権利は家長に委ねられ、職業の自由と能力開発の機会を奪われた。戦前においては、結婚するのも家長の許可が必要だった。第二次世界大戦において、女性の戦時動員が最も少なかった日本とイタリアは、ともに敗戦国となった。

参政権、教育権、労働基本権など市民的権利が、日本女性に完全に認められたのは、全て占領軍の指示によるものだった。マッカーサー指令が下されたのが1945年10月11日で、幣原内閣の婦人参政権導入の閣議決定は前日の10月10日になされているが、これはGHQの意向を先読みしてポーズを取っただけの話であり、「八月革命」に伴う占領軍の指導が無かったら、果たして女性参政権がいつ実現したのか分からなかっただろう。
(日本の女性解放は「アメリカの押しつけ」ですから!)

戦後、GHQの主導により女性に一定の権利が付与されたものの、女性に対する姓の強制(夫婦同姓)は存続、職業や教育の自由は与えられたものの、採用や待遇の差別は今日に至るまで改善されていない。正規・非正規を含む女性の平均年収は、男性の約半分に過ぎないが、実はこの「50%」という数字は1970年代以降変わっていない。米国の場合、1980年に65%だったものが2005年には80%を超えている。日本では、80年代に女性の総合職進出が図られたものの、90年代に非正規職や派遣が急速に増え、非正規職の大半が女性で占められた結果、女性の対男性年収比が停滞しているものと見られる。

「労働力が足りない」などと言っている政府や財界は単純にバカ丸出しなだけで、要は女性差別が女性の労働力活用を阻害しているだけの話なのだ。そのバカを補おうとして、移民や外国人奴隷(研修生)を検討しているのが現状と言える。
その女性差別の根幹をなしている一つが、女性に対する姓の強制とその根本思想であるイエ制度であることを考えれば、夫婦同姓や家父長制を残したまま、日本はこれ以上の経済成長は望めないと見るべきだ。そして、夫婦同姓を止めることができないのであれば、むしろ苗字そのものを廃止することで、女性をイエから解放して労働力としての活用を図るのが望ましい。
posted by ケン at 12:37| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月11日

GPS捜査は法整備を

【GPS捜査 「新たな法整備が必要」…有識者指摘】
 令状なしのGPS(全地球測位システム)捜査について、大阪高裁は「重大な違法はなかった」として、1審・大阪地裁判決とは逆の判断を下した。捜査関係者によると、司法判断が分かれていることに対し、現場では少なからず影響が出ているといい、有識者からは「新たな法整備が必要」との声が上がる。
判決後、大阪市内で記者会見した弁護団は「1審から大きく後退し、GPSの特性を理解していない」と高裁の判断を批判。各地でGPS捜査の違法性が争われている中での判断だけに、「看過できず遺憾」と懸念を示した。今後被告と相談し、上告を検討するという。
 弁護側は控訴審でも「GPSは一回でも令状なく取り付けられれば重大なプライバシーの侵害」と主張したが、高裁は重大なプライバシー侵害はなかったと退けた。弁護団は「位置情報がきっかけで個人の思想や対人関係などプライバシーの根幹が揺らぐ」とGPS捜査の危険性を指摘。亀石倫子弁護士は、高裁が発信器を取り付けた回数や台数、期間などを考慮しながら検討したことについて「最初から任意捜査と位置づけているかのようだ」と不満をにじませた。
 GPS捜査には現在、法的規制がない。警察庁は内規で、裁判所の令状が不要な任意捜査と位置づけており、他の手段で追跡が難しい場合、犯罪行為をせずに発信器を取り付けるよう各都道府県警に求めている。しかし、違法とした3地裁(大阪、名古屋、水戸)の判断はいずれも、外部から目が届かない場所まで位置を把握されることなどは、重大なプライバシーの侵害に当たると指摘。令状が必要と断じた。
 ただ、刑事訴訟法は令状を行使する際は相手に示すよう定めており、捜査当局は「それでは秘匿捜査の意味がない」と懸念。これについて、水戸地裁は窃盗事件の審理で一つの見解を示した。捜査の必要性から事前に示さなくても、終了後に相手に内容を告げることなどを条件に、例外として認められるとした。
 指宿(いぶすき)信・成城大教授(刑事訴訟法)は、令状を得て通信を傍受した後、対象者に告知する通信傍受法に着目する。「GPS捜査を強制処分と位置づけ、同じように令状を捜査後に示す新たな法律が必要ではないか」と指摘。「警察の内規だけで運用されると、実態が表に出ず、チェックもできない」と語る。
 一方、総務省は、携帯電話会社などを対象にしたガイドラインについて、裁判所から令状が出れば、携帯電話の位置情報を利用者に通知せず捜査機関に提供できるよう、昨年6月に改正している。
(3月2日、毎日新聞)

これは確かに難しい問題。基本的には、技術革新に対して法整備が追いつかず、技術運用が先行してしまって人権侵害の疑義が生じている、という状態にある。現行憲法には、プライバシー権の記載こそ無いものの、13条で「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」が明記され、移動の自由もある。だがこれらは、「公共の福祉に反しない限り」という前提があるため、刑事捜査によるプライバシーの侵害は一定程度認められている。それだけに、従来型の追跡調査は合法だが、GPSは著しくプライバシーを侵害するから令状が不可欠という、地裁の判断は、人権原理上は妥当だが、現行法の中ではやや無理があったと思われる。

とはいえ、位置情報は個人の重大なプライバシーであり、治安当局が無制限に把握できるとなれば、それはもはや旧東側諸国の「監視国家」と何ら変わらないものになる。現状は、技術的に可能で、実際に利用が進んでいるが、一切の法規制や制度整備がなされていない状態にあるだけに、「警察の暴走」が危惧されるのもまた当然なのだ。日本の警察がその気になれば、携帯電話を始め、市内の防犯カメラやNシステムを利用して、全市民の位置情報を把握するだけでなく、あらゆる通話やメールを傍受することも可能だからだ。そして、それは一部実現されている。

まずは最低限、裁判所の令状を取り、一定の条件下で事後にでも令状開示を可能にする法規制が必要だろう。だが、日本の裁判所は99%以上の確率で捜査令状を出している現状を考えると、果たして一定の歯止め・人権擁護になるのか疑問はぬぐえない。とはいえ、警察の独自判断で、無制限にGPS捜査が許されてしまっている現状は、早急に改善する必要があろう。
posted by ケン at 00:00| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月02日

教育の中央統制を望む地方

【名古屋市の新教育長、文科省から 初の外部登用】
 新教育長の外部登用を検討していた名古屋市の河村たかし市長は、文部科学省の課長級を充てる方針を固めた。市で教育長の外部登用は初めて。開会中の2月定例議会で同意を求める。いじめを苦に自殺する中学生が相次いだため、文科省と連携して対策を進める。
 2013年7月に南区の中学2年生がいじめなどを苦にマンションから転落死。昨年11月に西区の中学1年生もいじめを苦に自殺した。事態を重く見た河村市長は、3月末に定年退職する下田一幸教育長の後任で外部登用を探っていた。地方教育行政法改正による新制度で各自治体に「新教育長」が導入されており、教委で事務局トップだった教育長と、会議を仕切ってきた教育委員長を兼ねる立場になる。首長との関係は直接任命を受けることなどで強まるが、経過措置として旧教育長が最長で4年間、在任できる。
(2月25日、朝日新聞)

教育委員会制度は、もともと戦前の文部省を頂点とするピラミッド型の教育行政が権威主義とミリタリズムの推進力となったことの反省を踏まえ、教育の地方分権、民主化、独立・中立性の担保を目的として導入された。だが、教育委員選挙の低投票率が続き、教員組合による寡占状態が危惧されて、10年を経て委員の公選制は廃止、任命制へと移行された。
戦前の地方教育行政は、内務行政の一端と位置付けられており、官選の府県知事が教育行政官庁となって、市町村長(議会の推薦者を内務大臣が認可)が文部大臣(教育内容)と知事(行政実務)の指揮監督を受けつつ実務を担っていた。従って、文部省が存在しながら、実のところ地方教育行政の実務は内務官僚が行っていた。こうした中央集権システムが、国家主義・帝国主義・軍国主義教育への移行を容易にし、ミリタリズムを全国に波及してしまった。
その反省として1948年、教育の政治的中立を担保し、デモクラシーと地方分権を実現すべく、公選式の教育委員会が設置された。だが、公選によって多数の現職教員が教育委員に就任したり、単位の小さい旧市町村の全てに教育委員会を設置することが難しいなどの問題が発生、占領体制の終焉と55年体制の発足に伴い、1956年には大幅な改正がなされて、公選式から首長による官選式(要議会同意)へと改められた。
安倍政権で教育委員会廃止?

だが、任命制になったことで、今度は教育委員が既得権益化し、地方名士の名誉職になってしまったり、無責任な合議制体質の下で腐敗が進んだり、迅速な改革ができないなどの問題が生じた。すると、今度は「地方首長の権限を強化しよう」ということで、一昨年に改正地方教育行政法が成立、首長の権限が強化さてれ、教育委員長と一本化された新教育長の任免権が付与されて、教育長の権限も強化された。自民党の一部や維新が求めたような、制度そのものの廃止には至らなかったものの、教育の独立・中立性が脅かされている傾向は否めない。
とはいえ、組体操問題でも触れたが、年間8千件からの事故が起こっていたにもかかわらず、放置されていたのは、一義的には教育委員会制度が十分機能していないことを示しているだけに、従来のシステムに問題があったことも確かだ。特に、地方名士が担う教育委員長は、その立場故に中立的、公正な教育行政を担えず、調整に時間が掛かって迅速な対応ができない点は大きな障害となっていた。

ではあるが、首長、しかも日本最大級の政令市の首長が、自らの任命権をもって中央省庁の課長を教育長に据えるというのは、委員会本来の目的である「教育の地方分権」「民主化」「独立・中立性の担保」の全てに反し、中央統制と権威主義化を進めてしまうからだ。これは、可能性の問題では無く、確実に起こる危険に他ならない。戦前の官選知事と何ら変わらないものになるからだ。
さらに言えば、自民党や霞ヶ関が望んだことではなく、地方の首長が率先して中央のヤクニンを懇請している点が問題の深刻さを示している。
我々はいま一度、教育委員会制度の意義を考えなければならない。近い将来、取り返しの付かない事態を招くであろう。
posted by ケン at 12:47| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする