2015年11月06日

大学からパンピーが消える日

【財務省の運営費削減方針に懸念=国立大協会が声明】
 財務省が国立大学の財政的自立を促すとして、自己収入を年1.6%ずつ増加させ、国からの運営費交付金は年1%ずつ減らすという方針を打ち出したことに対し、国立大学協会(会長・里見進東北大総長)は27日、「国立大の現状にあまりにも配慮を欠いており、大学の役割を果たせなくなる」と懸念する声明を出した。声明は2004年の法人化後、運営費交付金が1470億円減らされていることなどに触れ、自己収入を増やすために授業料を引き上げれば経済格差に伴う教育格差を生むと強調。各大学も改革に取り組んでいるが、達成には基盤的経費である運営費交付金の確保も不可欠だと訴えた。 
(時事通信、10月27日)

NK党を始めとする旧式左翼は「学費40万円値上げ!」などと大騒ぎしているが、これは、「毎年の運営交付金減額分を全て学費値上げに充てた場合、16年後には現在より40万円高くなる」というものであって、来年から40万円上がるという話ではない。明らかなミスリードないしプロパガンダであり、こんな主張をする連中と政権を共にすべきではない。

とはいえ、日本の高等教育が危機に瀕していることは間違いない。国立大学では、2004年以降、人件費を大幅に削減しており、常勤講師や事務職員の多くを非常勤・非正規にするとともに、教員の事務負担を増やすことで事務方の人件費の削減に努めてきた。人件費のコストカットはすでに限界に達しており、自己収入を増やさない限り、これ以上の交付金の減額分は授業料に転嫁する他ないだろう。こ
だが、自己収入を増やせる可能性があるのは、高度な理系大学と都心部に土地を有する大学のみで、地方の大学や文系しか無い大学は資金調達の望みが殆ど無い。現状のままであれば、確かに「16年後に学費100万円」という線は十分にある。

学生側視点からすれば、すでに現状の文系大学で50万円を超えており、私が学生だった頃に比べて20万円も上がっている。他方、親などからの生活費の仕送りは2000年時に12万円近くあったものが、今では9万円台にまで落ちており、学生の負担は上昇する一途にある。その結果、すでに学生の約半数が奨学金(学費ローン)を借りており、卒業時の返済額は200〜300万円に上るという。これが若年層の結婚や出産を遅らせる原因になっていることは間違いない。
貯蓄ゼロ世帯の割合を見た場合、2000年には12.4%だったものが、2014年には38.9%へと3倍以上に増えている。大学生の半数が、数百万円の借金を抱えて就職していることを考えれば、当然の話であり、この割合は今後さらに増えてゆくものと見られる。

このような現状の中で、文科省は「大学の世界ランキングを上げろ」「学生の学力水準を何とかしろ」と叫び続けているわけだが、実際の政策はその主張に逆行するものでしかない。大学教育のクオリティを上げようとするなら、教員と学生が勉学・研究に専念できる体制をつくることこそが必須なはずだが、文科省の政策は教員に金集めと事務を押しつけ、学生にアルバイトと借金を強要するものでしかない。国立大学が人件費の抑制を進めた結果、教育と研究の水準が低下していることは、文科省の政策が「生き延びたければ自分の足を喰え」というものであったことを示している。
こうした文科省のスタンスは、『ヒトラー最期の十二日間』で「シュタイナー戦闘団はまだ来ないのか?!」とヒステリーを起こす総統を彷彿とさせる。

ま、「終わってる」ということだ。自民党を支持してきたツケを自分たちで支払うだけの話なのだが。ただ、当の学生からすれば、「俺が支持したわけじゃねぇ!」と言いたくもなるだろう。
posted by ケン at 12:34| Comment(3) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月26日

いじめ撲滅運動なるムダ

安倍内閣が成立して以降、体罰を推進してきた連中が文科省の大臣や政務官に就くようになっている。(学校教育法で禁止されている)体罰を容認する口で、そのまま「いじめ撲滅」を言うのは、国家テロを容認する論理と同軸線上にある。だが、自民党政権にできる「いじめ撲滅」など、せいぜいのところ「道徳教育の強化」や「カウンセラーの増員」程度のことであり、成果が上がることは無いだろう。
この問題についてはすでに述べているが、今回は制度派経済学・行動経済学の視点から「学校がいじめに対応できないワケ」を説明したい。

【参考】

道徳でいじめ解消という愚 
世界はこうしていじめと闘う 

日本の教育現場では、いじめは「あってはならない悪」として認識されている。これは、電気事業者における原発事故や軍隊におけるいじめと同じで、まず「あってはならない不祥事」という設定が、組織内の隠蔽を加速させる構図になっている。これは組織人の立場に立って考えてみれば、「不祥事が発生したことでマイナス評価を受けるくらいならば、隠蔽する方が良い」と判断するのが組織人として「合理的判断」となる。それが部署単位で行われた場合、同調バイアスや現状維持バイアスがますます強くなる。東芝やフォルクスワーゲンの場合、これが社全体で行われた格好だ。

現状維持バイアスは、不祥事隠蔽の基本要素なので、まずここから説明しよう。現状維持バイアスは、「今のままで問題ないんだから、今のままで良いだろう」という心理傾向を指す。
労働がキツくて給料も安いのに、転職する気力が起きないのは、失職するリスクと転職に掛かるコストが、現在抱えている不満を上回っているからだ。特に日本の場合、失業保険の給付が失業者の2割に対してしか行われておらず、中途雇用市場が非常に未熟であるため、リスクとコストが肥大化、労働市場が硬直化しているという問題がある。より身近な話をするならば、ランチに何を食べるかで悩んだ時に同じ物を食べる確率が高いのは、新しいランチを開拓するコストと、「当たり」を引く確率を比較して、「いつもの」を無難と考えてしまうからに他ならない。

これは教員の立場に立って考えて欲しい。教員としてイジメを内包する学級を担当したとして、イジメと対峙して問題解決に掛かるコストと、イジメを解決した際に得られる便益を天秤に掛けた場合、前者の方が巨大であることは明らかすぎる話であり、現状で目に見える問題が発生しているので無ければ、自分が担任している間は「問題が表面化しないように動く」のが、組織人として「合理的」な判断となる。
かつての教員は、地域社会で大きな権威を有しており、イジメ発生の抑止力となると同時に、問題解決に掛かるコストも小さくしていた。教員に苦情を言う親がいなければ、結果はどうあれ、問題解決に掛かる交渉コストが小さいのは確かだろう。ところが、教員の権威が地に堕ちた結果、生徒は教員に服従せず、保護者はモンスター化したため、問題解決に投入するコストが肥大化してしまった。それに対して、学校組織では「イジメが無いのは当たり前」という認識であるため、仮にイジメを解決したところで「正常化された」で終わってしまい、教員の評価や権威向上に殆ど寄与しない。つまり、教員個人にとって、イジメを解決するためのインセンティブは殆ど無いのが現状なのだ。

そして、もう一つの同調バイアス。これは、組織内では取りあえず多数派に同調するのが無難とする心理傾向を指す。実際にイジメを行う子どもは数人でしかないのに、被害者以外の全員が加害者側に荷担、ないしは見て見ぬフリをするのは、この同調バイアスで説明される。実は、これは教員にとっても同じで、教員の権威が極限まで低下した結果、教員一人では加害生徒と対峙することが難しくなっており、学級内秩序を維持するために教員が加害者と手を組むケースが増加している。また、学校組織内でも「イジメは存在してはならない悪」という認識が共有されているため、教員としては「自分のクラスでイジメが発生している」と宣言するコストが肥大化してしまっている。
日本では家庭でも学校でも、「自らの頭で考えて、自らの意見を言う」ことを「良くない」こととして教えてきた伝統(但し江戸期以降)があり、この同調バイアスは世界でも群を抜いて強いとされている。

福島原発事故も基本的には同じ構造で、「巨大津波が起こる可能性」は認知していても、東電内では「原発事故は起きない」という認識で統一されていたため、「津波のリスクを指摘して、巨大組織を動かして、上司と敵対する」コストと、「(低いと思われるが)原発事故が起きるリスクを手当てする」便益を考慮した場合、組織人としては「見なかったことにして自分が担当の間は津波が起きなければOK」と考えるのが「合理的」だった。
二次大戦において、少なくない数の軍人が「対米開戦は無謀」「インパールとかあり得ない」などと考えていたにもかかわらず、数人の例外を除いて誰も口に出来なかったのも、現状維持バイアスと同調バイアスから説明できる。
組織人としての教員個人からすれば、「イジメ解決とかバカがすること」「一年間耐えられればOKなんだから」と考えるのが、「合理的」なのだ。

イジメは、閉鎖的空間に多数の人間を入れて長期間拘束した結果、秩序維持のために自然発生するものであり、いかなる組織でも起こりうる問題なのだ。本気でイジメを減少させたいのであれば、まず「不祥事」「悪」とする認識を止め、「いつでもどこでも起こりうる問題」と改める必要がある。その上で、学級制度を廃止して、単位制に移行、授業が終わったら速やかに下校を強制するのが望ましい。学級制度を廃止できない場合は、クラス単位をよほど小さくする必要がある。学級単位を小さくすればするほど、多数派の形成が困難になり、教員の権威が相対的に高まるためだ。そして、生徒に対しては「イジメは暴行障害あるいは脅迫罪に該当する犯罪行為」であることを教えると同時に、犯罪に遭遇した場合の法的対処(証拠を取って告発する)を叩き込むのが良い。
また、イジメに対しては第一撃に際して断固たる態度を取った場合、それ以上続けられないケースが多いというデータもあり、「自分の意思をきちんと表明できる」人を育てるという視点も必要だ。だが、デモに参加しただけでバッシングを受ける日本の現状では、理想論に近いのかもしれない。
いずれにせよ、「いじめをなくすために道徳教育を強化する」と言う自民党が学校教育を悪化させることはあっても改善させることはあり得ない。
posted by ケン at 12:28| Comment(4) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月27日

戦時体制で焼け太りする警察権力

【<刑事司法改革>「取り調べ可視化」「司法取引」審議入り】
 警察や検察による取り調べの録音録画(可視化)義務付けなどを柱とした刑事司法改革の関連法案は、19日の衆院本会議で趣旨説明と質疑が行われ、審議入りした。組織犯罪を中心に取り調べで十分な供述を得にくくなっている現状をふまえ、法案には、日本版の司法取引の導入や通信傍受の対象犯罪拡大といった捜査手法を強化する内容も盛り込まれており、一括して審議される。
 可視化義務付けの対象は、裁判員裁判対象事件と検察独自捜査事件で逮捕・勾留された容疑者の取り調べの全過程。重大事件や特捜部が捜査する事件が含まれるものの、件数は年間10万〜11万件程度ある逮捕・勾留事件の3〜4%にとどまり、冤罪(えんざい)が多いとされる痴漢事件や、鹿児島県議選を巡る「志布志事件」のような警察が手がけた公職選挙法違反事件は入っていない。警察や検察は既に試行的に可視化を実施し、対象範囲も徐々に拡大しているが、審議では対象事件の範囲が焦点の一つになりそうだ。
 司法取引は、容疑者や被告が他人の犯罪事実を明らかにする見返りに、検察官が起訴を見送ったり、求刑を軽くしたりできる制度。末端の売人を捕まえても主犯格にたどりつくのが難しい薬物事件や、全体像が見えにくい汚職や談合といった事件での活用が想定される。証人に対し、刑事責任を追及しないとの条件で不利なことを証言させる「刑事免責制度」も法案化された。
 犯罪捜査で電話などの傍受を認める通信傍受は、対象犯罪を現在の薬物、銃器犯罪など4類型に、振り込め詐欺や外国人窃盗などの捜査を念頭に、組織性が疑われる詐欺や窃盗など9類型を加える。他に、検察官が証拠の一覧表を開示する制度や、国選弁護制度の対象拡大も盛り込まれた。
(毎日新聞、5月19日)

戦前の資料を読み込んでゆくと、国内政治(民意)が侵略戦争支持に大きく傾いたのが1931年の満州事変であり、戦時体制を確立させたのが1937年の日華事変勃発だったと見ることができる。特に1937年が大きな転機だった。それまでは、一定の条件下で活動を認められていた合法社会主義者が一網打尽にされ(人民戦線事件)、労働組合なども戦争支援に舵を切り、社会科教科書が国家主義と軍国主義に染められ、言論や出版は当局の統制下に置かれることが前提となった。
21世紀の日本は、いまだ参戦したわけでもないのに1937年の戦時体制と酷似した国内環境になりつつある。一連の安保法制が閣議決定された日、官邸前に集まった200人程度の抗議者に対して、1千人以上の機動隊員と警官が動員され、国会裏と官邸脇の道路は機動隊トラックで埋め尽くされ、公安関係者が集会参加者の顔写真やビデオを延々と撮り続けていたが、要は「その場では逮捕しない(後日必要な法律を作って遡及逮捕してやる)」という国家意思を見せつけていたのだ。

今回の司法改革に対する私のスタンスはすでに述べてあるので、ここでは一部再掲するに止める。
今回の改革で導入されるのは、「司法取引」と「通信傍受の対象拡大・手続き簡素化」であり、その対価として「取調べの一部可視化」が義務づけられるわけだが、可視化されるのは裁判員裁判と検察独自捜査の事件に限られており、刑事事件全体の3%以下でしか無い。つまり、警察と検察の権限と裁量が恐ろしく拡大される一方で、被疑者の人権が担保される部分はごくわずかに留まる。
以前の記事でも指摘したが、確かに「オレオレ詐欺」に象徴される、通信技術の進歩に伴う犯罪、組織犯罪の複雑化によって捜査手法の転換が必要になっていることは私も否定しない。司法取引や通信傍受の拡大を全面的に否定するものではないが、それには条件がある。

日本の場合、三権分立が非常に未成熟で、特に司法の独立性が全く担保されておらず、ほぼ完全に行政の従属下(本人たちからすれば一体化)にある。米欧では行政たる捜査当局から捜査令状や逮捕令状の請求がなされた時に、裁判所はそれが適正かどうか厳しいチェックを入れ、「不適当、不要」あるいは「違法、違憲」と判断された場合は却下するケースが少なくない。ところが、日本の裁判所は当局からの令状請求をほぼ100%受諾(却下率は0.04%〜0.18%)するため、本来裁判所に求められる人権の保護や捜査当局の行き過ぎに対するチェックといった機能が全く果たされない。そのため、通信傍受の対象拡大は警察に「市民監視の自由」を付与するような結果を招く恐れが極めて強い。

それ故に、取調べ可視化の全事件に対する適用、通信傍受の適正チェックの強化、被疑者と弁護人の自由接見の担保、保釈率の向上などが不可欠であり、現状の人権保証が極めて不十分な中で通信傍受の対象だけを拡大、傍受に際して事業者の同席を必要とする現行ルールを緩和するという方針には絶対に同意できない。

聞くところでは、すでに警視庁(公安警察の要)はメール傍受装置を導入し、態勢を整えつつあるという。メール盗聴の場合、法律には裁判所が許可したメールアドレスのものだけが傍受可能ということになっているが、私が聞いているところでは、特定のメールアドレスのみを傍受することは技術的に不可能で、使用されているサーバーにある全メールを傍受した上で、令状に書かれたアドレスのものを警察官が読むというのが現実の捜査プロセスになるらしい。
言い換えれば、警察が目標にした容疑者が交わすメールのみを傍受するのではなく、日本全国で使用されているサーバーにあるメールを取りあえず一旦全て吸い上げて、その中から警察官が「必要なメールだけ」読むという仕組みである。
要は、「警察官なんだから裁判所が許可していない他人のメールを読むワケが無い」という性善説に基づいているのだが、これがどれだけ非現実的であるかは、戦前の特高警察から現在に至る山ほどある冤罪事件によって証明できよう。
しかも、今回の法改正によって、従来傍受に際しては通信事業者の「同席」が必要だったものが、「同意」で済まされることになるため、警察側は「盗聴し放題」となる。
実際のところ、警察が全てのメールを読むことは不可能だが、必要な語彙を検索かければ済む話で、近い将来メールやSMSにおける「反政府的な言動」や「反戦的な言動」をもって逮捕される日がやってきそうだ。

なお、日本国憲法第21条は「通信の秘密」を保証しているが、現政府は同13条にある、
国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

をもって「犯罪捜査という公共の福祉の要請に基づ」いているから憲法に違反しないという解釈を採っている。実は現行憲法は、自衛隊や自衛権だけでなく、すでに多岐にわたって骨抜きにされつつある。
しかも、自民党が提起している憲法改正案では、現行の「公共の福祉」が削除されて「公益及び公の秩序」に取って代わられている。これが実現すれば、「内閣打倒」や「戦争反対」あるいは「原発反対」などの主張は、「公の秩序を乱すもの」として憲法によって処断することが合法化されることになるだろう。

かつて戦争が終わった後、わが伯父上とともに、日独伊三国同盟や日米開戦に反対した上司は、「僕たちの抵抗は、ナイアガラ瀑布の一町手前で、ボートを漕いでいた行為だったかもしれない」と回顧しておられたが、私も今まさに同じような気分を味わっている。
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2015年05月14日

教育から自由主義が追放される日

【教科書検定 3学会の会長が基準の見直し求める】
 先月公表された、新しい基準による中学校の教科書の検定で、「政府の統一的な見解に基づいた記述がない」などの意見で一部の記述が修正されたことについて、教育学など3つの学会の会長が声明を発表し、「教科書がそのときどきの政府の見解に左右されてはならない」として、検定基準の見直しを求めました。
先月、結果が公表された中学校の教科書の検定では、去年改定された新しい検定基準が初めて適用され、「政府の統一的な見解に基づいた記述がされていない」などの意見がついた合わせて5点の教科書の6か所の記述が修正されました。
 これについて、大学の研究者などで作る日本教育学会と日本倫理学会、それに日本哲学会の3つの学会の会長が声明を発表し、文部科学省に提出しました。声明では、「教科書は児童や生徒がみずから考え判断する知性を育む教材であり、政府見解を浸透させる媒体ではない。そのときどきの政府の見解に左右されるようなことがあってはならない」などとして、検定基準の見直しを求めています。
日本教育学会会長で、共栄大学の藤田英典教授は「教科書に載せる内容は学術的に判断されるべきだ。今後検定が行われる高校の教科書で不当な介入が行われないか注視していきたい」と話していました。一方、文部科学省は「検定にはさまざまな意見が寄せられており、その1つと受け止めている」と話しています。
(NHKニュース、5月11日)

昨年、政府は教科書検定の新基準を策定している。対象となったのは、小中学校の社会科、高校の地理歴史と公民の検定基準で、

@ 未確定な時事的事象について特定の事柄を強調しすぎない。
A 近現代史で通説的な見解がない場合はそのことを明示し、児童生徒が誤解しないようにする。
B 政府の統一的な見解や最高裁の判例がある場合、それらに基づいた記述とする。


といった点が新たに加えられた。これによって、特に現代史の部分で、南京事件を始めとする日華事変の関連事件、慰安婦問題、沖縄戦をめぐる諸事件などの記述が新たに精査されると考えられている。つまり、現在の安倍政権が主導する歴史修正主義を教科書に具現化するための措置と言える。

これの恐ろしいところは、時の政権の歴史見解を教科書に反映するよう、出版社に強要する点にある。具体的に言うなら、現在のように自民党が政権に就けば、南京虐殺や従軍慰安婦、あるいは沖縄戦における住民虐待などが否定されて教科書から記述が消え、仮にNK党が政権に就けば、戦前期におけるNK党の役割が強調されたり、スターリンや毛沢東による大粛清に関する記述が消されたりする可能性がある。
また、領土問題を見た場合、北方領土で言うなら、自民党は「四島(一括)返還」、NK党は「占守島までの全千島返還」を主張しており、これが政府見解に反映されれば、教科書で使用される地図の色を政権交代ごとに塗り替える必要が出てくるだろう。もっとも、北方領土については、以前の基準でもすでに四島が「日本色」に塗られているものの、「国後と択捉島は千島列島では無く、北海道の一部である」という日本政府の主張は、世界的に見てかなり特殊なものであることは確かだ。

戦前の日本は国定教科書が採用されており、満州事変前後から急速にナショナリズムと愛国心が強調され、さらに排他主義や軍国主義が助長されるようになり、全体主義の推進役を果たした。その反省から、戦後日本は国定教科書を廃し、検定に基づく自由採択制を導入したが、検定はあくまでも教科書に記載された学習内容が基準を満たしているかを審査するものであって、政治的判断を介在させるためのものではなかった。
また、大日本帝国にしても最初から国定教科書だったわけではなかった。明治維新当初は、自由採択制や許可制だったが、自由民権運動の高まりに対して維新政府が民権思想の普及を恐れて検定制を導入したところ、今度は出版社と学校教員との癒着腐敗が深刻化したため、国定教科書になったという経緯がある。
その戦前の公民教科書を見ても、特にいわゆる大正デモクラシー期(1920年代)の頃のものを読むと、同じ帝国期の教科書とは思えないほどリベラルな内容に驚かされる。例えば、その時期に中等教育を学んだ大伯父は、東大で河合栄治郎ゼミに入り、フェビアン協会流の社会政策を専攻した。時期的にはやや遅れるが、祖父も早稲田大学で近代経済学を学び(個人的には結構マルクスも読んだらしい)、戦時中は市電でドイツ語の本を読んでしょっ引かれ、戦後は社会党の支持者という大正リベラリストを貫いた。
しかし1937年、日華事変勃発に際して公民教科書は大幅に内容が転換され、「公民教育」から「皇民教育」に変わり、国家や地域を構成する一員ではなく、天皇と国家に忠義を尽くすものを育成する装置と化してしまったのである。

話を戻そう。教科書検定はあくまでも学習内容の基準のみを審査すべきであり、そこに政治的価値判断を持ち込むのは最小限度に止めねば、殆ど国定教科書と変わらなくなってしまう。そもそも行政による検定制度があり、それが通らないと教科書として流通させられない以上、交渉のパワーバランスは圧倒的に行政側に有利なのだから、その権力行使は最小限度にする必要がある。また、検定の強化は教科書採択の自由度を狭める意味で、地域・学校における自由採用制の意義を失わしめるものとなる。
戦前の公民教科書がリベラリズムを排してミリタリズムとナショナリズムに突き進んだ結果、日本はそれから10年と保たずに国土を灰燼に帰した。安倍一派は「戦後レジームからの脱却」として社会科教科書の国家主義化を目論んでいるようだが、あの連中は全く歴史に学ぶつもりが無いのだろう。
posted by ケン at 12:56| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月28日

ブラック社会を象徴する学校の部活動

本ブログではたびたび部活動の問題点を訴えてきたが、とある勉強会に出席したところ、この問題が取り上げられていた。
改めて確認するが、学習指導要領は部活動について「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」と規定しており、正規の教育課程では無い「課外活動」と位置づけられている。
ところが現実には、ある調査によれば、日本全国で4割近い中学校が部活動への参加を義務づけている。興味深いのは地域格差が大きいことで、例えば東京などでは10%にも満たないのに対して、岩手県などでは99%の学校が部活動参加を義務づけている。

自主参加の建前に対し、現実には義務・強制が横行しているという点で、旧軍の特攻戦術や戦時中の勤労奉仕を彷彿とさせる。現代企業でも、会社主催の運動会や職場主催の早朝街頭清掃のように、やはり自主参加の建前に対し、現実には義務・強制が横行しているものが山ほどあることを思えば、あらためて日本にリベラリズム(自由主義)が殆ど根付くこと無く、相も変わらず全体主義・権威主義が底流をなしている、ということなのだろう。

資料を見ていて「やっぱり」と思ったのは、生徒に対する匿名アンケートで部活動の活動時間の長さを尋ねたところ、大半の生徒が「拘束時間が長すぎる」と答えており、長期休暇が部活動で費やされることを迷惑に感じている旨(長期休暇に自分の自由時間が少ない)の傾向も確認された。
教員についても、やはり「関与する時間が長すぎる」と感じている者が大半を占めている。これはOECDの調査でも、教員の平均週勤務時間53.9時間のうち部活動関連が7.7時間を占めていることからも明らかだ。ちなみにOECD平均は38.3時間に対して2.1時間に過ぎず、日本の教員の労働地獄ぶりが伺われる。
その根源には日本型雇用の最大の問題点がある。日本型雇用では、被雇用者の職掌範囲が定められず、特定業務における技術力が雇用されるのではなく、全人格丸ごと雇用されてあらゆる業務に従事することが前提となっている。そのため、欧米であれば「それは私の仕事では無い、契約書にも記載されていない」と言える部活動顧問の業務が、日本では「当然業務範囲内」となってしまっている。この手の契約外の業務が強要された場合、欧米では「不正労働の強要」として雇用者が容赦なく処罰されることになるが、日本ではそもそも不正という認識が無く、保護者に至っては当然のごとく要求してくる。

結果、当時者たる生徒も教員も大半の者が「勘弁してくれ」「やるのはいいけど、もっと緩くしてくれ」と考えているにもかかわらず、誰も言い出せずに何も改善されないままブラック環境が維持されていることが分かる。
ただ、保護者や外部指導者の考えは全く異なり、現状を肯定し維持したいとする意見が圧倒的多数を占めているらしい。これは、「子どもは遊ばせておくとロクなことにならない」という管理者意識の現れであると同時に、「子どもの自主性を育む」という視点が殆ど無いことを示している。この辺りは、「兵隊を遊ばせておくと士気が下がる」という軍隊の考え方と酷似している。

これ以上は悪口しか出てきそうに無いので止めておく。ただ言えることは、日本社会から権威主義を放逐し、自由主義を根付かせるためには、中等教育の部活動を全面廃止する他ないということである。
せめて日本の部活動は「けいおん!」を基準にすべきだ(笑)

【参考】
全体主義の温床としての体育系部活 
「朝練禁止措置」に見る日本の全体主義 
教員の働き過ぎ−今更ながら 
posted by ケン at 13:16| Comment(8) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月16日

大学教員も労働強化

【大学教員の研究時間減少続く 13年、勤務全体の35%】
大学教員が研究に充てる時間が減り続けていることが7日、文部科学省の科学技術・学術政策研究所の調査で分かった。2013年の勤務時間に占める研究活動の割合は35.0%で、08年の前回調査から1.5ポイント低下し、02年の初回調査に比べると10ポイント以上減った。学生の教育に充てる時間の増加が背景で、同省は「研究時間を確保できるよう、各大学に工夫してほしい」としている。
調査は3回目で、全国の国公私立大の教授や准教授ら教員計5652人が対象。02年調査では、論文作成や情報収集などを行う研究活動の時間は、勤務時間の46.5%を占めていた。講義やゼミ、その準備といった教育活動は、13年で28.4%。08年調査より1.1ポイント上昇した。学生が議論などを通じて課題を解決するアクティブ・ラーニングや、高校までの学習内容を復習させる初年次教育が広がり、そのための準備時間が増えたことなどが要因とみられる。専門分野別にみると、医学や歯学など「保健」の教員の研究活動は31.9%と特に低く、08年より6.9ポイント減った。診療など「社会サービス活動」が同8.6ポイント増の24.2%となったことが影響した。私立大の教員の研究時間は29.9%で、42.5%の国立大との開きが目立った。「研究時間増加に有効だと考える手段は」との問いに、全体の6割以上が「大学運営業務や学内事務手続きの効率化」と答えた。
 都内の私立大に勤務する50代の文系の男性教授は「初年次教育や、留年した学生との面接などの負担が年々重くなり、研究時間が十分に確保できない」と話す。特に新入生向けの論文の書き方指導では、自前のテキスト作成などに時間を割かれるという。国内では、引用数が世界の上位10%に入る影響力の高い論文の世界シェアが00年ごろから低下し続けており、研究不正も後を絶たない。同研究所の担当者は「研究時間を確保する工夫を各大学が行い、質の高い論文を多く生み出せる環境を整えてほしい」と話している。
(4月7日、日本経済新聞)

日本の高等教育は産業としてはすでに「オワコン」(死語?)の様相を呈している。巨大な設備投資に対して利益が上がらず、人件費の削減を続けているが、まず事務員を減らして教員に事務負担を押しつけ、教員数も削減して臨時講師を増やすことで対応している。正規教員を減らした結果、1人が抱える修士学生や学部ゼミ生の数が増えてしまい、指導が不十分になっている。これに事務負担も加わるのだから、研究時間が減るのは不可避となっている。
現在博士課程で学んでいる知人の話によれば、教員の事務負担の一部を肩代わりさせられており、「学費払って指導教員の下働きをやらされて、しかもまともに指導してもらえないのだから、何のために博士課程にいるのか分からない」ということらしい。

また、質の悪い留学生の増加が、教員や院生の負担を重くしている。大学としては定数を埋めることと、留学生増加の政府方針に従い補助金を得ることを目的としているため、留学生の質は問われなくなっている。ところが、留学生の7割以上を占める中国と韓国を見た場合、優秀な学生は米国に留学し、日本に留学するのは二流以下の学生が主であるため、その学生が日本の大学のレベルに合わせて配分される結果、日本の中水準以下の大学に来る留学生の質は非常に低いものになりがちだ。この場合、日本語の水準が基準を満たしていない学生が多く、高等教育以前に日本語教育から始めなければならず、さらに負担が増加する。
日本人の学生対策についても、近年では評価や面接の負担が増しており、時間と神経が割かれているとの話も聞く。私立大学ではこうした傾向が特に顕著となり、教員の負担は非常に重いものになり、本来の教育指導が疎かにされつつある。

これを解決するためには、基本的には事務職員を増員して教員の事務負担を減らすことが第一であろうが、恐らくそれでは不十分だと思われる。留学生と大学院生の数を2000年以前の水準に戻すことが必要だ。だが、財政的な理由から人員削減と学生増を行っているだけに、財政的担保なくしてこれらを行うのは無謀だろう。そうなると、公的予算の高等教育費を増やすことが肝要だと思われるが、現状ではなかなかハードルが高そうだ。
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2015年03月17日

全く不公正な司法改革

【取り調べ可視化、一部で義務化 司法改革法案を閣議決定】
 政府は13日、警察や検察の取り調べの録音・録画(可視化)を一部の事件で義務づけることを柱とする刑事司法改革の関連法案を閣議決定した。司法取引の新たな導入や、通信傍受(盗聴)の対象拡大も盛り込んだ。改革は刑事司法の大きな転換となるが、可視化の対象事件が大幅に限定されるなど問題点が指摘されている。大阪地検の証拠改ざん事件をきっかけに捜査や公判のあり方を議論していた法制審議会(法相の諮問機関)が昨年9月、改革案を答申していた。政府は、刑事訴訟法などの改正案を開会中の通常国会に提出する。今国会中に成立すれば、可視化は2018年までに義務化が始まる。取り調べの可視化は、警察は裁判員裁判の対象事件、検察はさらに独自に捜査する事件で義務化される。冤罪(えんざい)を防ぐため、取り調べが適切に行われたかを検証しやすくする。ただ、対象は全ての刑事裁判の2〜3%にとどまり、冤罪が多いとされる痴漢事件などは含まれない。
(3月13日、朝日新聞)

あまり大きく報道されない上に、どこも「司法取引と取調べ可視化のバーター」といったトーンで報じられているが、これは到底「公正な交換」とは言えないものだ。
今回の改革で導入されるのは、「司法取引」と「通信傍受の対象拡大・手続き簡素化」であり、その対価として「取調べの一部可視化」が義務づけられるわけだが、可視化されるのは裁判員裁判と検察独自捜査の事件に限られており、刑事事件全体の3%以下でしか無い。つまり、警察と検察の権限と裁量が恐ろしく拡大される一方で、被疑者の人権が担保される部分はごくわずかに留まる。
以前の記事でも指摘したが、確かに「オレオレ詐欺」に象徴される、通信技術の進歩に伴う犯罪、組織犯罪の複雑化によって捜査手法の転換が必要になっていることは私も否定しない。司法取引や通信傍受の拡大を全面的に否定するものではないが、それには条件がある。

日本の場合、三権分立が非常に未成熟で、特に司法の独立性が全く担保されておらず、ほぼ完全に行政の従属下(本人たちからすれば一体化)にある。米欧では行政たる捜査当局から捜査令状や逮捕令状の請求がなされた時に、裁判所はそれが適正かどうか厳しいチェックを入れ、「不適当、不要」あるいは「違法、違憲」と判断された場合は却下するケースが少なくない。ところが、日本の裁判所は当局からの令状請求をほぼ100%受諾(却下率は0.04%〜0.18%)するため、本来裁判所に求められる人権の保護や捜査当局の行き過ぎに対するチェックといった機能が全く果たされない。そのため、通信傍受の対象拡大は警察に「市民監視の自由」を付与するような結果を招く恐れが極めて強い。

それ故に、取調べ可視化の全事件に対する適用、通信傍受の適正チェックの強化、被疑者と弁護人の自由接見の担保、保釈率の向上などが不可欠であり、現状の人権保証が極めて不十分な中で通信傍受の対象だけを拡大、傍受に際して事業者の同席を必要とする現行ルールを緩和するという方針には絶対に同意できない。
これは杞憂では無い。戦前の治安維持法は当初共産党(員)のみを摘発対象としていた。ところが、治安維持法が実際に施行されてみると、「実際の運用(適用)が難しい」などの理由から改正が要望され、戦時体制への移行も相まって、適用範囲が段階的に拡大、厳罰化も図られた。その結果、3・15事件で共産党が一掃された後にも、合法左翼はおろか、労働運動家や反戦思想家、果ては自由主義者や宗教団体にまで適用されるに至り、「天下の悪法」の名をほしいままにしたのである。
運用の適否をチェックする機能が無い現状で、通信傍受を緩和・拡大して司法取引を認めれば、市民の人権が担保されないまま、治安当局の権限が際限なく拡大されてゆく恐れが強い。

治安維持法が全面改正されたのは1941年5月で、第二次世界大戦が進行する中、対米戦に備えて戦時体制を強化するために行われた。全面的に厳罰化がなされた他、「国体の変革を目途とする結社を支援する結社」「組織を準備することを目的とする結社」が新たに対象とされたことで、「支援した」「準備した」という官憲の解釈次第で誰でも検挙可能になってしまった。さらに予防拘禁が合法化され、刑期を終えて釈放された者ですら「予防拘禁所」に拘留することが可能になった。

集団的自衛権行使による対テロ戦争への参戦が視野に入れられ、東京オリンピックの開催を口実に治安強化が叫ばれ、治安維持を理由に市民的権利が大きく制限される一方、検察権が一方的に拡大されて行く。
自民党議員や国家官僚がどう取り繕い、マスゴミが虚飾に満ちた報道をいくら重ねようと、戦時体制化が進行していることは間違いない。だが、日本の場合、デモクラシーも自由も市民的権利も、市民の血を流し自らの手で獲得してきたものではなく、その殆どが占領軍によってもたらされたものであるだけに、それらが失われてゆくことについての自覚が全く足りないのだと考えられる。

【参考】
集団的自衛権の陰で進む監視国家化 
「一部可視化」の帰結 
治安維持法は言論弾圧法ではなかった?! 
posted by ケン at 12:46| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする