2016年02月25日

大学自治も終焉へ

【岐阜大が国歌斉唱しない方針 馳文科相「恥ずかしい」】
 馳浩文部科学相は21日、金沢市で記者団に、岐阜大学の森脇久隆学長が卒業式などで国歌「君が代」を斉唱しない方針を示したことについて、「国立大として運営費交付金が投入されている中であえてそういう表現をすることは、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」と述べた。卒業式や入学式での国歌斉唱は昨年6月、当時の下村博文・文科相が全国の国立大学長らに要請していた。岐阜大は前身の旧制学校の校歌を式で斉唱しており、森脇学長は今月17日の定例記者会見の質疑で、これまで通りの方針で臨む考えを示していた。馳氏は21日、金沢市内での講演で「岐阜大学の学長が国歌を斉唱しないと記者会見した」と指摘。その後、記者団に「(下村氏の要請は)大学の自主的な活動についてああしろ、こうしろと言うものでもない。学長が(斉唱しないことに)言及することはちょっと恥ずかしい」と語った。
(2月21日、朝日新聞)

日本国憲法第23条は、

学問の自由は、これを保障する。

と規定している。これは明治憲法には無かった項目で、戦後の新憲法制定(改憲)時に新たに盛り込まれた。それは、滝川事件(内乱罪や姦通罪に対する疑義提唱)、美濃部事件(天皇機関説)、矢内原事件(ミリタリズム批判)、河合栄治郎事件(ファッショ批判)などのたびに軍部や文部省の介入を許し、教授や学生が大学を追われ、ゼミが廃止されることでその分野の研究はストップしたことの反省に基づいている。
なお、憲法23条が謳う「学問の自由」の英訳は「Academic freedom」であり、「何者からも拘束されない大学・研究(者)の自由」を意味する。この「学問の自由」を制度的に担保するものの一つが「大学の自治」であるため、憲法上に明記されていないとはいえ、大学の自由は学問の自由と同一線上に存在する。
実は、国際的に見た場合、憲法で学問の自由を保障している国は非常に珍しい。それは少なくとも自由主義諸国では「当たり前すぎる」ことで明記するのも憚られるためであり、わざわざ新憲法に明記したのは、日本においてはリアルに考えられる「危険性」だったからだ。

そして、下村前大臣が国立大学における国歌斉唱を「要請」したことで、新憲法の起草者たちが抱いた危惧は現実のものとなった。下村氏も「最終的には各大学の判断」などと言っていたが、これはヤクザや金貸しが無理な要求を提示して「これはただのお願いで、決断するのはあくまでも貴方ですよ」と念押しするのと同じ構図だった。国立大学が運営資金を国に依存する以上、その力関係は圧倒的に国側に有利であり、そもそも対等な関係に無い以上、一般的な「お願い」は成立し得ず、大学側からすれば「国のお願い」は国家要求に等しいからだ。
あるいは、戦時中の士官が「特攻はあくまでも志願に基づくものであり、強制はしない(が何度でも強く要請する)」と言っていたのと同じで、圧倒的に強い立場にあるものの「要請」は、強い強制力が付与される以上、ほぼほぼ命令と同義になってしまう。むしろ「命令では無い」だけ責任が不明確でタチが悪い。
一連の戦前の事件から得られる教訓は、形式的に「大学の自治」が保たれても、内部者が国家の意思を汲んで自由の阻害に走ったのでは全く意味が無い、ということだった。教授会の権限が大きいのは、巨大権力に対抗するためでもあったわけだが、この間「大学改革」と称して教授会の権限が大幅に縮小されて、文科省からの天下りが経営陣に加わって「コミッサール」の役割を果たすに至り、外部権力に対抗できる勢力が失われた。そのため、国家から「要請」があった場合、それを拒否できるだけの権限が大学側にはすでに存在せず、助成金をちらつかされると、「国の要請に応えるが、あくまでも自主的に選択する形を採る」ことになる。これでは、美濃部、矢内原、河合らを追放した戦前の大学と何も変わらない。
本来であれば、「大学の自治」と「教員の身分保障と研究内容の保障」は不可分のものであるはずが、すでに「Academic freedom」の原則が崩壊していることが分かるだろう。これも安倍一派が主張する「戦後レジームの打破」の一環と言える。

確かに政府・自民党側は「今回大臣が求めたのは国旗掲揚と国歌斉唱であって、学問の自由とは関係ない」という批判をしてくるだろう。だが、1999年に国旗国歌法が審議された折、「強制するものではない」「教育現場で義務化するつもりはない」旨の答弁や談話が繰り返されたにもかかわらず、それから15年を経て全国の学校で強制されるようになり、今度は国立大学に至っている。今回の政府側の主張は、「税金が投入されている国立大学で国旗が掲揚され国歌が斉唱されるのは当然」というものだが、であるならば私学助成を受けている私立大学に対してもいずれ同じことが求められるはずである。そして、国旗と国歌を強制し、人文学部の廃止を強要する政府が、なぜ今後研究内容にまで踏み込まないと保障できるのだろうか。いや、科研費のあり方を考えれば、すでに国家が研究内容に介入しているとも言えるのである。
また、そもそも「君が代」は「帝の支配が永遠に続きますように」と祈願する呪歌であり、およそデモクラシーに相応しくない専制色の濃いものであることも付言しておく。
日本国憲法はありとあらゆる分野で浸食され、実質的な効力を失いつつある。同時に日本のデモクラシーと自由も、その実効性を失いつつある。やはり人は、失って初めて失ったものの価値を知る、ということなのだろうか。
大学にイデオロギーを強制する安倍政権

馳大臣は、安倍・自民党の中では「かなりマシ」な部類に入るだけに非常に惜しい。氏もまた、「学問の自由」が現行憲法にわざわざ明記された理由を知らないか、あるいは意図的にその廃絶と学問の統制を目指す国家主義者ということのようだ。
公立大学は、「文科大臣の要請があり、国から交付金を受ける以上、我々は国歌斉唱を強制しなければならない」旨を真摯に学生に説明すべきだろう。
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2016年02月10日

組体操問題に見る教育委員会制度の無責任

【馳文科相、「組み体操」中止を検討】
 馳浩文部科学相は5日の衆院予算委員会で、運動会での「組み体操」の中止について「重大な関心を持って、文科省として取り組まねばならない」と述べ、前向きな考えを表明した。維新の党の初鹿明博氏の質問に答えた。
(2月5日、産経新聞)

【タワー・ピラミッド禁止=組み体操、制限後も事故多発―大阪市教委】
 大阪市教育委員会は9日の会議で、市立小中高校の運動会で人気のある組み体操のうち、「タワー」と「ピラミッド」を2016年度から禁止することを決めた。事故を防ごうと高さ(段数)制限を設けたが、その後も事故が多発しているため。市教委によると、禁止は全国的に珍しいという。大森不二雄委員長は「段数制限は不十分で、見直さないといけない」と強調した。 
(2月9日、時事通信)

学校の運動会などで行われている組体操において、年間8千件もの事故が数年に渡って起きていたことが、ようやく問題になってきている。最近では死亡事故こそ起きていないものの、後遺症の残る重大事故はこの数年で20件近くも起きており、隠蔽されたものを考慮すれば、どれほどの事故が起きているのか分からない。

ただ、記事タイトルにある「文科大臣が中止を検討」はよろしくないと同時に、まさにこの点が一つのネックになっている。というのも、日本では教育の政治的中立性と地方自治の観点から、中央省庁の権限は限定されており、文科大臣の「鶴の一声で禁止」とは容易にいかないからだ。ただ、安倍政権以降、文科省が沖縄県の教科書選定に介入するなどの越権行為を強めているので、その流れでは「中央統制を進める良い機会」と捉える可能性も考えられる。

年間8千件もの事故が放置されている一因は、教育委員会制度にもある。建前上の「教育の独立」が故に、中央政府も自治体首長も個別の事案には介入できず、教育委員会は教育委員会で「教育は、地域住民にとって身近で関心の高い行政分野であり、専門家のみが担うのではなく、広く地域住民の意向を踏まえて行われることが必要」(文科省HP)との建前から、保護者・住民の「組体操の要望」を否定できない構造になっている。つまり、文科省と首長は「教育委員会の意向」「教育の独立」を理由に、教育委員会は「保護者・住民の意向」を理由に、問題解決を拒み、無責任を決め込んで、事故を放置しているのだ。また、保護者は保護者で、「組体操で感動を!」なるスローガンの下で同調圧力が強くなり、非常に反対しづらい環境におかれている。さらに、日本の教員は(若年層は分からないが)昔からマスゲームのような全体行動を好む傾向が強く、保護者から危険性を指摘されても「わが校の伝統行事」などと言って中止を検討すらしないと言われる。
これは、戦時中に「特攻は隊員の自主性に基づく」として指導部の責任を回避しつつ、大学生らを効果の低い特攻に行かせることを止めることができなかった構図と酷似している。

組体操問題は、日本の教育が「誰のためのものか」を如実に表している典型例である。少なくとも子どものためのものでないことは確かだろう。そして、誰の責任で組体操が行われ、誰の権限でこれを止めることができるのかも明確でない点にこそ、日本の社会システムの根源課題が潜んでいる。
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2016年02月09日

英語教育におけるポピュリズム

【<英語力調査>中3「英検3級」7割届かず 文科省】
 文部科学省は2日、全国の国公立の中学3年生と高校3年生を対象にした、英語の「読む」「聞く」「書く」「話す」の4技能に関する2015年度の調査結果を公表した。初めて調査した中3は、「書く」以外で国が卒業時の目標に掲げる「英検3級程度」に届かない層が約7〜8割を占めた。「書く」は英検3級程度が約4割と比較的高い一方、0点が1割強とばらつきが見られた。14年度に続き2回目の調査の高校生は4技能とも依然低水準だった。
 調査は中学3年約6万人、高校3年約9万人を抽出して実施。授業内容や学習意欲を尋ねる質問紙調査も実施した。現在の中学3年は、小学5年以上で「外国語活動」が必修となった現行制度の1期生になる。身近な話題の質疑応答ができる「英検3級程度」に届かないレベル(A1下位)の割合は、「読む」が73.9%▽「聞く」79.8%▽「話す」67.4%と高かった。「書く」はこのレベルが56.7%、「英検3級程度」(A1上位)が43.1%と他の技能とは違う傾向が見られたが、「0点」も12.6%に上り、ばらつきが目立った。
 高校3年では、国が高校卒業時の目標とする「英検準2級程度」(A2)の割合が、「読む」は29.9%(前年度比6.4ポイント増)▽「聞く」24.2%(同3.9ポイント増)▽「書く」17.2%(同6.5ポイント増)と、前年度より改善したが依然低水準。「話す」は9.8%で前年度(9.5%)と横ばいだった。質問紙調査では、中高生とも「話す」の得点が高い生徒は、低い生徒と比べて「授業で英語による話し合いを取り入れている」と答えた割合が高く、授業内容と得点の相関関係がみられた。高校生の英語力がやや改善した理由について、文科省の担当者は「4技能を意識した授業の改善が進んだ結果ではないか」と指摘。中学生に関しては「どこにつまずきがあるのか詳細に分析したい」としている。
(2月3日、毎日新聞)

記事では、「国の目標」として「高校卒業時に英検準2級」「中学卒業時に英検3級」となっているが、これは「当面の目標」であり、長期的には「高卒時に英検準1級、中卒時に英検準2級」まで持って行くとしている。これが、いかに「無理ゲー」「実現不可能な目標」であるかは、過去の記事でも述べている。
文科省の計画では、中学卒業時における達成目標を現在の「英検3級程度」から「準2級程度」に引き上げる。高校では英語による発表や討論などを重視し、「準1級程度」を目指すという。これも現時点で中卒時の「英検3級」(約25%)と高卒時の「英検2級」がどの程度実現しているのかを考えれば、いかに空想的な目標設定であるか分かるだろう。
なお、準1級は「英語圏での社会生活を不自由なく送れる」レベルとされており、問題を見て見れば分かるが、その難易度は相当に高い。

それに対して、現実の公立中では英語の授業は週3コマしかなく、しかも一学級は40人前後で組まれている。直接法(英語のみによる英語教育)による外国語学習で成果を上げるためには、少なくとも一クラスを15人以下にする必要があり、その上で授業数も週に6〜8コマ程度は必要だろう。それは完全な英才教育であり、英語嫌いの子どもや外国語習得に難のある子どもにとっては地獄でしかない。
授業数を増やすためには全体の授業時間を大幅に増やすか、他の教科を犠牲にするほかないが、教員の労働時間だけ見ても日本は他国と比べて極めて多いことを考えても、実現性に乏しいと考えられる。
(「英語は英語で」という勘違い・続の補)

私の場合は、中等教育でフランス語を学習するという、超レア・ケースであったが、「中等教育における外国語習得」という点で同じである。エリート校とは言えないものの、有名私立の中高一貫校であり、フランス語を第一外国語、英語を第二外国語として学んだが、中1から高2まで一外が週6コマ、二外が週2コマあり、フランス語は20人弱のクラスで学んだ。優秀な同期の何人かは第二外国語でありながら在学中に英検2級を取得していた。私の場合は、せいぜいのところ「中の上」の成績だったが、フランス語検定3級は取得したが、2級についてはどうだったか覚えていない。受験勉強を優先したので後回しにしたままになったと思うのだが、能力的には水準に達していたような気がする。これも推測になってしまうが、当時、高校卒業時に仏検2級の水準に達していたのは同学年のせいぜい2〜3割(3割は無理?)という感じだった。

英検二級は、「高校卒業程度」「社会生活に必要な英語を理解し、使用できること」というものであり、準二級は「高校中級程度」「日常生活に必要な英語を理解し、使用できること」というもの。最近の過去問をサラッと見たところ、中等教育で週2コマしか学ばなかった私でも、準二級は「十分行けそう」だが、二級は「合格は難しい」というイメージだった。確かに、「高卒で準二級くらいは何とかしようよ」という「目標」は十分理解できる。
だが、教育現場の実態はどうだろうか。

現実における中等教育の標準カリキュラムでは、英語は週3コマだったものが、ようやく昨年(今年度)から4コマに増やされたものの、一教室の生徒数は相変わらず40人のままであり、2012年に文科省が行った調査では、全国の公立校の英語教員で英検準一級の取得者は中学で28%、高校で52%にとどまっている。
文科省が考えている直接法(英語のみによる英語教育)を導入するとなれば、少なくとも一クラスを15人以下にする必要があり、その上で授業数も週に6〜8コマ程度は必要だろう。それは完全な英才教育であり、英語嫌いの子どもや外国語習得に難のある子どもにとっては地獄でしかない。仮にこれが実現したとしても、国内の日常生活で英語を使う必要が殆ど無い日本で、政府が望む水準に達成するのは、やはり2〜3割以下になるだろう。
だが、初中等教育に求められるのは、「市民生活、社会生活に必要な能力」「デモクラシーを構成する一員としての素養」であり、そこに「英語がペラペラであること」が含まれるのかと言えば、疑問しか覚えない。
英語学習に高いハードルを求めるために、他の教科を犠牲にすることが、義務教育の本来目的に合目的であるか、今一度よく考える必要がある。

こうした「無理ゲー」が生じる原因として、「対米従属の強化」(冷戦期における東欧諸国のロシア語が同じ位置にあった)のほかに、「保護者からの要求」がある。ある民間の調査によれば、小学生の子を持つ親の9割以上が「小学三年生からの英語教育」に賛成しているほか、高卒時に英語四技能(読む書く聞く話す)の完全習得を目指すという文科省方針にも同じく9割以上が賛成しているという。これは、英語教育を担う会社の調査なので、中立性には欠くものの、私の印象でも大きく外していない。例えば、私が仕えるボスも「英語教育の強化の何が問題なの?」と聞いてくるくらいだ。
だが、これは設問自体に問題がある。例えば、「税金は安い方が良いですか」と聞けば、99%の人は「そりゃそうだ」と答えるのと同じである。ところが、現実には税金を下げれば、行政サービスやインフラ整備、あるいは社会保障が悪化するわけで、そのバランスを問わずに税金の額だけを議論するのは不公正なのだ。教育も同じで、英語教育を充実させるということは、他の教科を減らすか、全体の授業量を増やすしかなく、それが子どもや将来社会にとってプラスかどうかは、よくよく検討する必要がある。個人的経験で言えば、中学生にとって一週間に8コマの外国語授業があったことは苦痛でしかなかった。

子どもを持つ親は、教育についていま一歩踏み込んで考えて欲しい。そして、自分にできないことを、子どもに押しつけるようなことは止めた方が良い。
posted by ケン at 12:00| Comment(4) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月02日

司法取引優先だから甘利はやりません?

【<甘利氏金銭授受>東京地検特捜部がURに事情聴取要請】
 甘利明前経済再生担当相を巡る金銭授受問題で、都市再生機構(UR)は1日、東京地検特捜部から事情聴取の要請があったことを明らかにした。政治資金規正法やあっせん利得処罰法違反の疑いで東京地検に告発状を提出する動きがあり、特捜部は報酬を見返りとした違法な口利きがなかったかなどを見極めるため、慎重に事実関係を確認するとみられる。甘利氏の当時の秘書らは、千葉県の建設会社側から資金提供を受け、UR担当者と面談を重ねた。資金の一部は政治資金収支報告書に記載されていなかった。
(2月1日、毎日新聞)

小耳にはさんだ噂によれば、「ここまで来たら、さすがにやらないわけにはいかないか」と重い腰を上げた東京地検に対して、自民党側は「君たちが首を突っ込みすぎると、刑事訴訟法改正案が審議できなくなっちゃうかも」と凄んだらしく、検察上層部は「司法取引と通信傍受拡大が最優先」と判断、「ほどほどにして適当に切り上げろ」と現場に指示を下した、とのこと。やっぱ「全員悪人」の世界ですなぁ〜

いま少し詳しく述べると(あくまでも噂デス)、もともと地検の特捜は郵政不正事件などの不祥事を受けて、規模縮小や人員配転がなされ、まだ従前の権力を取り戻しておらず、「いま抱えている案件で手一杯」で、「甘利の件まで手が回らない」状態にあったという。だが、報道で問題が大きくなるにつれて、現場では「放置するわけにもいかない」という判断に傾いていった。
そこに、首相官邸ないし自民党国対幹部から、「甘利問題がこじれると、予算成立が遅れて一般法案の審議にも影響が出る」「当然、刑訴法改正案にも影響が出るだろうな」という「つぶやき」が検察幹部に向かってささやかれた。

この刑訴法改正案は、検察権力を戦前並みに拡大する「魔法の法案」で、その主な内容は「通信傍受の拡大(無制限化)」「司法取引の導入」であり、「対価」とされている「取調べの可視化」は一部可視化で、「検察側の証拠開示」は「一覧表の提示」でしかなく、被疑者側に一方的に不利な内容となっている。検察としては、自身の能力低下と犯罪の高度化に対して強い危惧を抱いており、「新たな武器」の獲得は「悲願」だった。
しかし、前国会は安保法制の審議が難航、刑訴法改正案も参議院で強い抵抗にあい、政権党側は「ヘイト・スピーチ規制法案とのバーター」を提案したものの、野党側に「全く割に合わない」と拒否されたまま時間切れ、継続審議となった。とはいえ、今国会は会期が6月初めまでの上、参院選の都合上、延長することができないタイトな日程にあり、さらに法案審議の優先順位的にTPPや軽減税率が上に来ているだけに、法務官僚たちは「気が気でない」状態にある。結果、「検察権力を維持するためには政権党に協力するほか無い」という判断に至ったものと推察される。

甘利問題は東京地検が形だけ捜査して不起訴、ないしは秘書が政治資金規正法違反(記載漏れ)で略式起訴されるくらいで済みそうだ。
全国武田ファンの皆さん、虎泰の子孫は安泰デス!

【参考】
全く不公正な司法改革 
posted by ケン at 12:19| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月24日

文部科学省の制限主権論・続

【<高校生の政治活動>学校への届け出検討 9県・政令市】
 文部科学省が10月の通知で新たに認めた「高校生の校外での政治活動」について、宮城、愛知など6県と横浜など3政令市の教育委員会が、デモや集会に参加する際に学校へ届け出させるかを検討していることが取材で分かった。届け出制導入の判断を学校長に委ねる自治体も10道県と1市に上る。高校生の政治活動は選挙権年齢が「18歳以上」に引き下げられるのに伴い認められた。専門家は高校生の活動を萎縮させるマイナス効果を懸念している。
毎日新聞は12月中旬、47都道府県と20政令市の各教委に、「高校生が校外での政治活動(集会、デモなど)や選挙運動に参加する場合、事前もしくは事後に、参加届を提出させる考えがあるか」を聞いた。その結果、宮城▽茨城▽富山▽福井▽愛知▽三重の6県と仙台▽横浜▽神戸の3市が「検討中」と回答した。
 検討する理由について、愛知県の担当者は「デモに参加した生徒の身体に危険が及んだ場合、学校が全く把握しなくて良いのか。生徒の安全面の配慮から必要との考え方がある一方、思想・信条の自由の面から問題だとする考えもあり、どうしたらいいか悩ましい」と説明した。宮城県の担当者は「校外の政治活動は保護者の保護の下、自由に行うのが基本。しかし、文科省通知には『学業や生活に支障がある場合は必要かつ合理的な範囲内で制限または禁止する』とあり、その兼ね合いを時間をかけて検討したい」と話した。
 一方、北海道、秋田、熊本など10道県と札幌市は、教委として一律の指導は行わないが、届け出制を導入するかの判断を「学校長に委ねる」と回答した。秋田県の担当者は「これまでも生徒がバンド活動などで集まる際、『集会届』を提出させている学校が多い。選挙活動については、この集会届を見直して活用する学校が多くなりそうだ」という。また、「対応は未定」としたある県の担当者は「届け出制は、参政権や思想の自由を害してしまう可能性があり判断が難しい。できれば、国が一律で決めてほしいというのが本音だ」と語った。
(12月21日、毎日新聞)

行政府が一方的に国民の主権を制限してはならない。これは憲法に規定されていることであり、「若年者」であることを理由にこれを排除することは許されない。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
(日本国憲法前文)

日本国憲法は、権力の正統性の根拠を国民に求めており、それは当然未成年者を排除するものではない。つまり、未成年者といえども、主権者の一人であって、その主権行使を排除・規制することは何者にも許されていない。逆を言えば、「未成年者」を理由に、行政府が主権を制限できるとなれば、他のいかなる属性に基づく理由においても主権を制限できることになってしまう。極論すれば、認知障害を持つ高齢者や障害者、あるいは生活保護受給者であっても、主権行使を規制することが可能になってしまう。その意味では、本来的にはたとえ刑務所の中であっても、いかなる政治活動も許容されるべきであり、欧州諸国ではその権利が保障されているケースが多く、この点でも日本はデモクラシー後進国と言える。

そして、憲法前文に「権力は国民の代表者がこれを行使」とあるように、公選法の改正によって18歳以上が投票権を得た現在、高校生であっても国民の代表者を選出する権利を有するわけで、行政府が代表選出を阻害するようなことがあっては一切ならないし、そこにいかなる例外も許されない。

ここで届け出制などを認めてしまえば、まず「学校に届け出が必要」という時点で参加希望者のインセンティヴを奪ってしまう。届け出がなされるということは、学校側に記録が残ることを意味する。それはつまり「何年何組の某は、何月何日、『戦争法案反対』等を掲げる反政府デモに参加した」等のデータが治安当局に送付されると同時に、内申書に反映され大学入試や企業面接に利用される、という話なのだ。逆の視点に立てば、「自民党青年部の歴史検証会に参加」「国会議員と靖国神社に参拝する会に参加」などという記録が内申書に反映され、就職に利用される可能性を示している。こうなると政治信条、思想への介入あるいは差別と同義だろう。近い将来、「自民党の集会に参加すると就職に有利」などという話になるに違いない。これはまさに冷戦期のソ連や東ドイツと全く同じ社会になることを意味している。

噴飯なのは、上の記事にある某県担当者の「生徒の安全面の配慮から必要」という発言である。学校や教育委員会は、生徒の学校行事外の校外活動に責任を持つ必要は無く、校外で何が起ころうと、そこは「生徒の自己責任」と「保護者の保護責任」が問われるだけのはずだ。にもかかわらず、校外活動にまで責任を取ろうとするからこそ、「生徒管理」を強化せざるを得なくなるのだ。これもまた全体主義のなせる業だろう。

繰り返しになるが、未成年者あるいは教員であるという理由で主権を制限するのは違憲であり、戦後民主主義を否定する権威主義の現れである。文科省のそれは、「社会主義陣営全体の利益のためには、加盟国の主権は制限されることがある」としたブレジネフの「制限主権論」を彷彿とさせるものであり、全く西側の自由主義や民主主義にはそぐわないものだ。
デモクラシーを全く理解せず、憲法を否定する文部科学省は一刻も早く全面解体すべきである。
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2015年12月18日

夫婦別姓は法改正で実現を!

【<最高裁>夫婦同姓規定「合憲」 再婚禁止6カ月「違憲」】
 夫婦別姓を認めず、女性だけに離婚後6カ月間の再婚禁止期間を定めた民法の規定が違憲かどうかが争われた2件の訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は16日、「100日を超えて再婚を禁じるのは過剰な制約で違憲」とし、「夫婦同姓規定には合理性があり合憲」とする初判断を示した。国の賠償責任は認めず、原告の上告はいずれも棄却した。最高裁が法律の規定を違憲としたのは10例目。
 両規定は「家」制度を定めた明治民法に盛り込まれ、戦後も引き継がれた。大法廷は夫婦同姓規定についても「制度の在り方は国会で判断されるべきだ」と言及し、家族制度全体の見直し論議を求めた。大法廷は、結婚や家族を巡る法的紛争は社会状況を踏まえ、それぞれの時代に応じて総合判断すべきだと指摘。再婚禁止期間の規定は「父親の推定の重複を避ける趣旨で設けられたもので合理性がある」とした。だが離婚や再婚の増加で「再婚の制約をできる限り少なくする要請が高まっている」と述べ、原告の女性が再婚を決断した2008年には「100日を超える部分は法の下の平等や結婚の自由を保障した憲法に違反していた」と判断した。国家賠償請求については「規定はこれまで違憲とはされておらず、国会が長期にわたり立法措置を怠ったとは評価できない」と退けた。
 一方、夫婦別姓訴訟で大法廷は、原告側が主張した「姓の変更を強制されない権利」を「憲法上保障されたものではない」と否定。同姓には家族の一員であることを実感できる利益があるとした。そのうえで「女性側が不利益を受ける場合が多いと推認できるが、通称使用の広がりで緩和されている」と指摘。夫婦同姓規定は「結婚を巡る法律に男女平等を求めた憲法には反しない」と結論付けた。そのうえで、選択的夫婦別姓制度について「合理性がないと断ずるものではない」と付言し、国会での議論を促した。
 再婚禁止期間は裁判官全15人が違憲とし、うち2人は禁止自体を違憲とした。夫婦同姓は10人が合憲とし、女性全3裁判官を含む5人が違憲とした。判決を受け、法務省は16日付で離婚後100日を超える婚姻届を受理するよう自治体に通知した。政府は早ければ来年の通常国会に再婚禁止期間を100日とする民法改正案を提出する。
(12月16日、毎日新聞)


夫婦別姓については、すでに見解を述べているが、日本では別姓が「伝統」であり、夫婦同姓こそが帝政時代の「イエ制度」創設に伴う新封建制とも言うべき存在だった。夫婦同姓の強制は、帝政期の権威主義の残滓であり、自由主義や民主主義に反する存在なのだ。

日本は第二次世界大戦の敗北により、国家構造の改変を求められたが、それは帝国憲法の改正という形で行われた。行政機関を始めとする国家の基本構造は、軍部の解体と内務省の分割が行われただけで、戦犯処理やファシスト等の公職追放も冷戦の勃発に伴って不十分に終わり、権威主義体制そのものは否定されないまま、戦後を迎えてしまった。その意味で、日本は「市民革命」を経ないまま、「外圧」と国際政治状況によってデモクラシーを導入しただけの話で、リベラリズムもデモクラシーも十分に浸透しておらず、権威主義の復活を許している。
裁判所も明治帝政の権威主義を構成する一部である以上、その思考源は帝政権威主義であって、リベラリズムやデモクラシーではなく、その判決に期待できるはずもない。確かに単純な法文上は、夫婦同姓をしてイコール違憲とすることは難しいかもしれないが、そもそも姓名の強制がリベラリズムやデモクラシー違背するものであることは明らかであり、司法の自立を考えても、厳格すぎる法解釈は避けるべきだった。とはいえ、判決は立法府に法改正を促すものと解釈できることも確かだ。

夫婦別姓は、裁判所による違憲判決ではなく、憲法によって国の最高機関と認められている立法府たる国会で、堂々と実現すべきであり、そのためには全ての権威主義者=自公ほかを選挙でことごとく落選させる必要がある。それが難しいというのは、日本においてリベラリズムとデモクラシーが全く定着しておらず、19世紀的な権威主義が残っていることを全世界に示すものでしかない。

権威主義者たちの主張はすでに破綻している。一方で労働力の不足から、女性の労働動員を最大化しようとして「女性活躍」だの「女性の管理職を30%に」とか叫んでいるのに、それを阻害するようなことしかしていないからだ。
第一次世界大戦後に欧州で女性の参政権が認められるようになったのは、女性の戦時動員が図られたためであり、一次大戦に本格参戦しなかった日本では女性参政権が認められなかった。二次大戦でも日本における女性の戦時動員は世界最低水準だったが、敗戦に伴う休戦条約の履行条件として女性参政権が認められた。つまり、日本における女性の権利は全て内発的な理由ではなく、外圧によって実現したものであるため、GHQ改革以上の権利譲渡は一切否定される傾向が強い。

日本は遠くない将来、一度は権威主義体制が復活してデモクラシーを否定しそうだが、今度こそは市民革命によってあらゆる権威主義を否定する必要があると、最近思うようになっている。
posted by ケン at 16:39| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月27日

自由主義と決別するとき

【石破氏「共謀罪は必要」】
 石破茂地方創生担当相は20日のTBS番組収録で、パリ同時テロを受けて「共謀罪」創設を含む法整備を求める声が自民党内で上がっていることに関し、「テロは待ってくれない。丁寧で真摯な説明をして議論する。成立は必要なことだ」と訴えた。共謀罪の創設に当たっては「(対象を)重大な罪に限るとか、国民の権利を抑圧してはいけないとか、何重にも縛りをかけないといけない」と指摘した。
(時事通信、11月20日)

右傾化した自民党でも比較的自由主義寄りと思われていた石破氏が、この時期に共謀罪の必要性を訴えたことは大きい。だがこれまでに、共謀罪を含む「組織犯罪処罰法改正案」(犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法律案)が、内閣から三度提出されて三度とも審議未了で廃案(継続ですら無い)になっていることは、本法案に致命的な問題を抱えていることを示している。

共謀罪については、法務省も「組織的な犯罪集団が関与する重大な犯罪から国民をより良く守ることができるようになります」「国民の一般的な社会生活上の行為が本罪に当たることはあり得ません」(法務省HP)などと説明しているように、あたかもテロリストや暴力団を対象とするもので、一般市民には無縁のような印象を与えようとしているが、大ウソである。実際に内閣が提出した法案では、窃盗罪や詐欺罪を含む600を超える罪状に対して共謀罪に適用を可能としている。もちろん、共謀罪を成立させるためには、電話やメールなどの通信傍受が不可欠となるため、通信傍受法の改正が先行して進められている(現在継続審議中)。つまり、ラインでオレオレ詐欺の検討をしただけで共謀罪が適用できる構成となっており、法務省の説明は「法理上はそうだが、運用で一般市民には適用しない」というだけの話でしかない。

そもそも、犯罪を実行していない段階で、計画あるいは「検討した」というだけで罪に問うことは、当局の捜査権や裁判権を大幅に認め、甚だしく基本的人権を侵害する恐れがある。民主的な国家で市民から信頼されている場合は一部例外的に認められるケースもあるが、日本のように権威主義的で人権が不十分な社会体制の上、政府が市民から信頼されていない国での運用は、まずもって失敗に終わるだろう。

共謀罪の恐ろしさは、ソ連やナチス・ドイツのケースを挙げるまでも無く、日本の戦前に見ることができる。1910年の大逆事件では、明治天皇暗殺計画が発覚し、宮下太吉ら5人によるものであったにもかかわらず、幸徳秋水を始めとする24人が死刑に処せられた。当局は当初から5人の計画であったことを知っていたが、大逆罪を拡大適用した。事実が判明したのは戦後のことだった。なお、幸徳が死刑になったのは、公判で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と述べたことによるとされている。

1923年の朴烈事件では、関東大震災直後に治安警察法による予防拘束(まだ事件を起こしてもいないし、計画も発覚していない段階での検束)を受けた朴烈が、拷問を受けて、愛人の金子某との「皇太子襲撃計画」について、特高の誘導尋問に同意したと見なされ(自白すらしてない)、大逆罪が適用され、死刑宣告された。後に恩赦で無期懲役になったものの、戦後の1945年10月末(8月15日でも9月3日でも無い)まで刑務所に収容されていた。

1937年12月に起きた人民戦線事件では、当時すでに共産党が非合法化されていた中で、「人民戦線(社共協力)を企てた」カドで日本無産党の議員や労農派学者グループ・活動家が一斉検挙された。その数は446人に及んだが、二審で有罪になったのはわずか3人で、量刑が確定しないまま戦後を迎えて免訴となっている。「共産党の次は労農派」という当局の思惑によってハナから組織解体を目指したものだった。その証拠になったのは、加藤勘十が訪米した際に、亡命中の野坂参三から渡されたコミンテルンのパンフレットだったが、帰国後は自宅で放置されていたという。この野坂は、三・一五事件の共産党一斉検挙で逮捕されたものの、「眼病治療のため」として保釈され、外国に渡っており、合法左翼撲滅のため内務省に協力した疑いが濃厚とされている。

戦時中に起きた横浜事件では、出版社の温泉旅行を共産党再建のための謀議と見なした特高によって治安維持法違反で60人以上を逮捕、拷問で4人が獄中死した。後に起訴されて、ポツダム宣言受諾後に「駆け込み判決」が下されて、30人余が執行猶予付き有罪となった。恐ろしいことに、この公判の記録は、戦争犯罪追及を恐れた政府・裁判所によって焼却処分されている。なお、裁判で検察が証拠として提出した写真は、全く別の機会に撮影されたものだったことが判明している。そもそも、戦時下で共産党再建の謀議を行っている者たちが、記念撮影をするとは考えがたい。

日本の現政府は、基礎骨格を明治帝政から継承し、連合国との戦争に敗れて休戦条約の条件として渋々「民主化」しただけの存在であるため、根源的に自由主義や民主主義を否定し、権威主義に傾く傾向を有している。その政府に共謀罪やら通信傍受やらを許せば、容易に戦前のおぞましい暴力支配を復活させるであろう。権威主義者に際限なき権力を与えることは、「狂人に刃物」であり、その刃先は近い将来、一般市民に向けられること間違いない。
真の民主化を実現しなければならないのは、中東などでは無く、この日本である。
posted by ケン at 12:38| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする