2015年05月28日

宗教の恨みは恐ろしい

先日90近い大叔母を母と共に訪ねた。この叔母は、祖母の異父妹に当たる。曾祖父が早世したため、曾祖母は祖母を養女に出して再婚、再婚先で生まれた1人である。故に血は薄く繋がっているものの、家系的には全く異なる関係にある。

叔母はやや認知に難があり、何度も同じことを言われるのだが、中でも驚いたのは、「わが一族は先祖代々浄土真宗だったのに、両親(特に曾祖母)の一存でカトリックに改宗(幼児洗礼)させられた」旨の話を恨みがましく3度もされたことだった。80年以上も前の話で、彼女はずっと敬虔なクリスチャンだったはずで、どうやら再改宗するつもりもないようなのだが、それとは全然別次元のことらしい。何やら心の奥底にしまい込まれて80年間塩漬けにされた、精神の深淵を遺言として開示された気分だった。

私のことはともかく、母のことは姪として認知しているように見えるのだが、話が一段落すると「わが一族は先祖代々浄土真宗……」の話に戻ってしまうのだ。ひょっとしたら顔を合わせるのはこれが最後になるかもしれないのに、「大事なのはそこなんだ……」と母共々思わざるを得なかった。
不可知論者の私としては、宗教は知識としては理解できても、根源的なところは自分の想像力を上回ってしまう。叔母にしても、永年心の最奥部に封印し、必ずしもキリストの教えを否定するつもりもないのだろうが、「改宗を強制された」という事実は余りにも重いものだったのだろう。

もっとも、祖母の養家の場合、三河一向一揆(1563年)で真宗の菩提寺の求めに応じて主君である松平元康に対して挙兵、約半年にわたって戦い、一度は岡崎城を攻め立てるも、最終的には和議となり、「お咎め無し」の条件として浄土真宗から浄土宗に改宗(宗旨替え)させられている。
ところが、祖母の家にはそのことについては恨みがましい伝説や口伝は残っていない。時間的な問題なのか、完全な異教への改宗と宗旨替えの違いなのか、その辺のところもサッパリわからない。まぁ常識的に考えれば、家康に仕えたことで300年に渡って禄が保証されたのだから、文句など言えるはずも無いのだが。

母方の家は基本的に宗教に淡泊、徹底した合理主義者であり、亡くなった祖母からして「墓はもう不要」と言ってしまうほどだった。故に母も私も、叔母に遺言のように「うちは本当は真宗」と言われても迷惑なだけなのだが、敢えて仏教に帰依するとしても真宗は無いかなと。弟子に「いくらお経を読んでも悟りを開ける気がしないのですが」と聞かれて、「そうか貴方もか、実は自分もなんだ」と素直に答えてしまう親鸞は非常に好感が持てるのだが、どうにも真宗によって宗教的確信が得られるとは思えず、入信するからには何らかの「確信」が欲しい。そうなると、仏教の中で最も近そうなのは、無条件で即身成仏を目指す真言密教というのが私の見解なのだが、その修行過程は苛烈で10万人に1人も入定できるのかという感じで、これはこれで現実離れしている。いずれにせよ、悟りを目指すかどうかは別にしても、老後は種智院大学で仏教美術を学んで自らの手で曼荼羅を描いてみたいとは思っている(笑)
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2015年02月10日

少子化は政策上の帰結デスから!

【<セックス離れ>若い男性、性の「絶食化」 3000人調査】
 若い男性の「セックス離れ」が進んでいることが、一般社団法人日本家族計画協会がまとめた「男女の生活と意識に関する調査」で分かった。夫婦の約半数がセックスレスという実態も判明。専門家は「男性は『草食化』どころか『絶食』傾向。若年層の労働環境の悪化など、社会背景も関係しているのではないか」と分析している。
調査は昨年9月、全国の16〜49歳の男女3000人を対象に実施し、1134人(男519人、女615人)から有効回答を得た。2002年から隔年の調査で、7回目になる。 今回、特に目を引いたのが、29歳以下の男性の性行動を巡る事情だ。性交経験率が5割を超える年齢は「29歳」で、08年の「23歳」、10、12年の「26歳」と比べて一気に高年齢化した。一方、女性は「28歳」で、過去の調査結果(24〜27歳)より高かったが、男性ほどの変化はなかった。
 また、セックスについて、「あまり、まったく関心がない」と「嫌悪している」を合わせた男性の割合が18.3%で過去最高に。特に若年層ほど関心が低く、16〜19歳で34.0%▽20〜24歳で21.1%▽25〜29歳で21.6%−−となり、45〜49歳(10.2%)も上回った。若い男性のこうした傾向は10年の調査で初めて明らかになった。以降、「無関心」または「嫌悪している」割合が年々高くなり、今回は08年に比べほぼ倍増した。「草食男子」だった10代が20代半ばになっても草食のままで、かつこうしたケースが珍しくなくなってきたのかもしれない。なお、女性の場合、08年に比べすべての年齢層でセックスへの無関心・嫌悪の傾向が広がった。
(2月5日、毎日新聞抜粋)

2010年に発表された国立社会保障・人口問題研究所の「第14回出生動向基本調査」は、16歳から24歳までの女性の45%、男性の25%が「性的な接触に関心がないか、嫌悪している」とした上で、日本人の半数以上が独身で、かつ18歳から34歳までの独身女性の49%と独身男性の61%はいかなる恋愛関係にもない、といった報告を行っており、性に関する無関心が進行していることに警鐘を鳴らしている。

政府や財界は少子化、少子化などと騒いで色々と予算をつぎ込んでいるが、そもそも性交しないのだから、解決の入口にすらたどり着けないのだ。「婚活」を支援することがいかに馬鹿げているか、いい加減理解してもらいたいところだが、あれはあれで利権なのかもしれない。
この問題はずいぶん前から取り上げているので、参考にして欲しい。

少子化対策という愚策 
少子化対策は規制緩和で 

問題の根底には、社会からエロスの観念が徹底的に排除されていることが大きい。私のような初老世代の人間からすれば、子どもの頃は周囲にエロスが溢れていたことが思い起こされる。テレビ深夜枠には「11PM」や「トゥナイト」に代表される、お色気を売りにした番組が無数にあり、子ども向けアニメですらパンチラや入浴シーンが隠されることもなく放映されていた。路上や空き地で捨てられたエロ本を発見する確率は非常に高かった気がする。

ところが、1990年代後半か2000年に入って以降、「ワイセツ」の定義が非常に厳格に採られるようになり、厳罰化が進んでいく。放送倫理コードが厳格化され、お色気番組は消え、アニメのパンチラすら少なくとも地上波放映では絶滅が危惧されるようになった(DVDを売るための二重基準という見方もあるらしいが)。成人向け漫画が摘発され、裁判所で猥褻認定がなされて有罪になったことも、この傾向を加速させた。
また、ゴミ回収が個人別になり、デジタル化の進行と共に、路上等で「放置エロ本」が「発見」されることもなくなった。遊べるような空き地が無くなって、隠せる空間が無くなったことも関係しているかもしれない。友人や親戚関係の希薄化に伴い、エロ本やエロビデオなどが「譲渡・継承」されるような関係も消失しているのだろう。

実はこうした人間関係や社会空間は、江戸期や明治期の方が緩かった。詳しくは「エロスの伝統?−森鴎外の場合−」をお読みいただきたいが、森鴎外のような良家でも現代人の想像以上にエロスが溢れていたことが分かる。

こう言うと、「今はいくらでもネットで見られるだろう」と返ってきそうだが、現実には子どものスマホやPCには厳格なフィルタリングが課されており、よほどの子どもでなければ外せないようになっている。しかも、ネットの場合、当時者が主体的に見ようとする必要があるわけで、かつてのような偶然性や遭遇性は非常に低くなっている。

さらに全国の都道府県で「青少年健全育成条例」(淫行禁止)やら「夜間外出禁止条例」などが施行されるに及んで、法律の内容がどうであれ、現実には「青少年の恋愛関係は不健全」という理念・原則が確立した。未成年者の性的関係や夜間外出を禁止すれば、社会道徳や秩序は保たれるかもしれないが、青少年の関心が他に移るのはごく自然の流れだろう。
そして、学校を出て社会人になれば、そこには朝6時に家を出て24時過ぎに帰宅、休日は家で一日グッタリという労働地獄が延々と続くことになる。
つまり、現代日本において18歳までは性に関心を持つことが社会的に禁じられ、高卒あるいは大卒で社会人になると肉体的にも生活環境的にも性に関心を持つことが難しくなる。現実には大学2年までに単位を取り、3・4年次には就活に邁進するという大学環境では、大学生もまた初老世代のような「サークルでウハウハ」などになりようがなく、やはり性的関係を持つような環境から遠ざかっているようだ。

ところが、実際に勧められている政府の施策は、青少年に対する道徳教育を強化しつつ、さらに「淫行」や「ポルノ」を取り締まる方向で進めている他、大学でも出席や成績を重視するだけでなく職業教育も強化、そして労働法制から残業規制を撤廃しようとしているのだから、これで「最近の若者は性に対する関心が薄れている」「少子化が加速している」などと言われたところで、「何バカなこと言ってんの?Sねばいいのに!」と答えるほか無いではないか。
posted by ケン at 12:28| Comment(7) | 恋愛、結婚、魔術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月18日

婚活支援という国家主義

【自民が「婚活」後押し=未婚率半減目指す】
 自民党の婚活・街コン推進議員連盟(会長・小池百合子党広報本部長)は14日、衆院議員会館で会合を開き、脱少子高齢化に向けて、生涯未婚率と離婚件数を現状の2分の1以下にすることなどを柱とした目標を決めた。4月には、党が後援して出会いの場を提供するパーティーも開催する。議連によると、2010年の生涯未婚率は男性が20.1%、女性は10.6%で、それぞれ半減以上の改善を目指す。また、女性1人が生涯に産む子どもの数の推計値である合計特殊出生率を、12年の1.41から2以上にすることを掲げた。目標の達成に向け、地域少子化対策強化交付金の継続や、婚活支援や街コン(大規模な合同コンパ)を行う事業者に対し、政府が優良認定を行う制度を創設することなどを挙げた。党後援のパーティーは、4月20日に横浜市緑区で開く予定で、二十歳以上の男女各20人の参加を募って実施する。
(時事通信、3月14日)

【「子供産むのは国家への貢献」 公明指摘で自民代表質問から削除】
 自民党の二之湯智参院議員が12日の参院本会議で、「子供を産み、立派に育てることが国家に対する最大の貢献」としていた代表質問の内容を公明党の指摘を受け、事前に削除・修正していたことが分かった。二之湯氏の代表質問原稿案は少子化問題について「結婚しているのに子供を持つことが社会人としての義務だと考えない人たちが増えている」とも指摘。二之湯氏の質問は公明党を含む与党としての代表質問だったため、公明党が11日に党の政策と相いれないとして修正を申し入れ、自民党が応じた。この結果、二之湯氏は12日の代表質問で「国家に対する貢献」の部分を削除。「子供を持つことが社会人としての義務」との表現は「子供を持つことを望まない人たちが増えている」と修正した原稿を読み上げた。
(産経新聞、3月13日)

自民党はどこまでも権威主義的で、「自由民主」の看板の裏に国家主義を隠し秘めている。
結婚も出産も市民個々人の意思に基づいて行われるのが自由主義社会の大前提であり、市民の意思や選択に国家の意思を介在させるのは国家主義あるいは全体主義に他ならない。
正確には国家主義は国家を至上のものとし、国益は個人の権利に優越するという考え方であり、全体主義は国家方針を一本化して異論を排除しその国家目的を達成するために全資源を動員する考え方である。それを考えれば、公共福祉や国家目的のために中央統制を導入して個人の権利の抑制を認める集産主義と言うべきかもしれない。そのいずれも「日本人は、我ら選ばれた優良種たる自民党に管理、運営されてはじめて永久に生き延びることができる」というエリート主義に直結している。

つまり、自民党議員たちが主張するのは、人口の維持・増加は国家の至上目的であり、国民はその目的に奉仕せねばならず、個人の権利や主張は慎むべきであり、そのために国家資源を投入することを厭わない、ということであろう。
彼らの主張の結果出てきたのが「出産手帳」の交付であり、女性を中心に一定の反発が出たために規模こそ縮小されたものの、強行されている。これは妊娠・出産を国家管理の下に置こうという自民党と霞ヶ関の野望を具現化したものであり、ジェンダー分野でも著しく全体主義化が進んでいることを示している。

これらの自民党の政策は戦時中の優生政策に酷似している。
1940年、「悪質な遺伝性疾患の素質を持つ者」の強制断種に象徴される国民優生法が制定され、同41年厚生省は内地総人口一億を達することを目標とし、そのために避妊、堕胎等の人為的産児調節を禁止、さらに優生結婚指導ガイドラインを策定した。同42年には妊産婦手帳制度が導入され、妊娠の届け出を義務化、妊産婦手帳が交付された。これらの政策は全てナチス・ドイツの優生政策とレーベンスボルン計画を参考にして策定された。

国家が結婚や出産を奨励し、国家意思を市民の自由意思に優越させようとする自民党の姿勢は、個人の権利を尊重する自由社会を害するものであり、戦後日本が獲得した貴重な価値観を否定するものでしかない。自由に対する挑戦という危機意識が薄いのは、結局のところ市民が自力で獲得したものではなく、GHQ改革によって付与されたものに過ぎないからなのかもしれない。この意味でも安倍総理の言う「戦後レジームからの脱却」は着実に進んでいる。

【参考】
繰り返される「子供製造機」認定 
婚活支援に2億円? 
婚活?Nuts! 

【追記】
国家が国民の婚姻を推奨するのは倫理的問題もあるが、実施したところで成功しないだろう。そもそも現状の婚活市場が「専業主婦になりたい女性あまり」にあり、彼女たちが希望する「経済力+コミュニケーション能力+家事育児能力」を兼ね備えた男性なぞ圧倒的少数しかおらず、市場として成立しないためである。
単純に人口を増やしたいなら、「結婚しないと子どもが産めない」という規制こそが問題なのだから、結婚制度を廃止してその規制を撤廃すれば済む話なのだ。「結婚制度は残したい、でも人口は増やしたい」という保守反動の無理が、無駄な税の投入を招いていると言えよう。
posted by ケン at 12:35| Comment(5) | 恋愛、結婚、魔術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月22日

「ロシア語で愛してるって何て言うの?」という愚問

「ロシア語で愛してるって何て言うの?」という質問が結構ある。逆にシベリアで日本語を教えていたときは、「日本語で"Люблю тебя"は何と言うんですか?」という質問を何度か受けた。実のところこれは非常に厄介な質問なのだ。

大前提として、自分の数少ない恋愛経験的に日本語で「愛してる」と言われたことも、言ったこともないわけで、"Люблю тебя"と言われたこと、あるいは言ったことは、せいぜい片手で数えるほどしかない。ところがフランスに行けば、映画や巷で言われるほどではないにせよ、"Je t’aime"で溢れている。
このことは、仏語の「ジュ・テーム」と露語の「リュブリュー・ティビャー」と日本語の「愛してる」が、決してイコール(同じ)ではないことを意味する。それを理解していないと、ロシアに行ってちょっと仲良くなった女の子に「リュブリュー・ティビャー」と言ってしまったが最後、大変なことになってしまう。まず十中八九「軽い男」と見られてフラれると見て良い。これは考えて見れば分かりそうな話だが、日本で二、三度会っただけの女の子に「愛してる」などと言っても、冗談にしかとられないだろう。そもそもどんなに深い仲になっても、「愛してる」という言葉が使われることは超レアだと思われる。これは、アメリカやフランスの恋愛文化が「欧米スタンダード」だという思い込み、あるいは偏見に起因する。日本で見られる外国映画の大半がアメリカ、古いものでもフランスのものが殆どだから、致し方ないところはあるのだが。

とはいえ、その背景には「言葉は完璧に翻訳されうる」という思い込みないしは誤解がある。そして、その誤解は学校における外国語教育において、ひたすら「正しい訳」が要求されることがあると考えられる。ところが、現実には「完璧な翻訳」など存在しえない。
日本で日本人が米または御飯をイメージする時、頭にはコシヒカリや「あきたこまち」などを思い浮かべるだろうが、タイ人がタイで想像する米は長粒種であり、日本のそれとは大きく違うものになる。故に、日本人がタイに行って「ご飯食べたい」と言っても、想像した物とは違うものが出てくることになる。
もっと単純な話をすれば、「酒飲みてぇ〜」というオヤヂが頭の中でイメージしているのは、ビールかもしれないし、焼酎かもしれないし、ウオッカかもしれず、そのどれもが酒ではあるが、違うものであることは明白だ。
まして物質的に対照化できない感情表現や文化的背景を有する概念については、習慣や文化が異なるだけに相対化すること自体難しい。その象徴的なものが「愛」なのだ。

夏目漱石は"I love you"を「月が綺麗ですね」と訳し、二葉亭四迷は"Я люблю вас"を「死んでもいいわ」と訳したことで知られるが、現代の外国語教育的には「間違い」にされてしまうに違いない。
ところが、認知心理学や意味論の立場に立てば、間違いとすること自体誤っているのであり、"I love you"を実際の日本語ではまず使用されない「愛してる」と訳す方が誤りに近いと言えるのである。では、「月が綺麗ですね」や「死んでもいいわ」が正しいのかといえば、必ずしもそうではなく、それまでの二人の関係や場の状況、会話の流れなどから判断するしかない。少なくとも正誤で判断するべきものではなく、主観的な価値判断から「好き嫌い」が問われる程度の話だろう。
個人的には、2人の関係や会話の場や流れを考慮せずとも、「月が綺麗だね」は「僕たち分かりあってるよね」的な予定調和的「甘え」が感じられ、どうにも好きになれない。「いいからサッサとやってしまえ!」と叫んでしまいそうだ(笑)性愛というものが本来、エロスとタナトスを表裏一体のものとして構築される概念である以上は、160kmの剛速球とも言える「死んでもいいわ」の方が愛の表現としてはるかに相応しいように感じられる。

もう一つ考えなければならないことは、日本やロシアで恋人同士が「愛してる」とか「好き」といった直接的表現を使わないからといって、アメリカやフランスに比して「愛が無い」とか「愛情が足りない」と言えるのか、ということである。これは必ずしも恋人だけでなく、自分の子どもに対しても同じことが言えるだろう。子どもをあまり褒めない日本人の親が、良く褒める(かもしれない)フランス人の親よりも、子どもに対する愛情が少ないなどということは、決して言えないのではないか。

ちなみにロシアでは、男が戦地に赴くとか、2人が離れ離れになってもう会えないかもしれないなど、決定的段階を迎えて初めて「リュブリュー・ティビャー」という言葉が出てくるのであって、日々の習慣として交わされる"I love you"や"Je t’aime"とは本質的に異なるものと考えるべきなのだ。
二葉亭四迷が訳したのはツルゲーネフの『片恋』だったが、それはメイドの子であるヒロインが身分違いの主人公に対して恋心を抱いて悶々とした挙句、一世一代の賭けに出て自ら告白した際に出た言葉だった。それこそ「死んでもいいわ」こそが相応しかったのであり、日本におけるロシア文学の地位を決定的にした訳でもあった。

もう一つ、夏目漱石の「月が綺麗ですね」はどうやら都市伝説の類みたいだが、英語教員を務めていた際に、生徒が「我君を愛す」と訳したのを聞いて、「日本人はそんなことを言わない。月が綺麗ですね、とでもしておきなさい」と答えたことに由来する。英語教員も明治期の方がなにげに実際的だったのかもしれない。まぁ漱石に英語を教わるというシチュエーション自体が、今日からは想像しがたいのだが。
posted by ケン at 12:34| Comment(0) | 恋愛、結婚、魔術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月20日

高齢出産は意外にフツー

インリン様ご懐妊の報に接し、心よりお慶び申し上げます!

順調に経過すれば37歳での「高齢出産」となる。他方、日本政府は「女性手帳」なるものを女性に配布し、高齢出産のリスクを訴え、若年出産の推奨を行おうとしたところ、世論の強い反発を浴びて断念するに至っている。その一方で未成年者の性交渉や恋愛に強い規制がかけられ、女性の労働環境は悪化の一途を辿っているのだから、「産む機会(自由)」そのものが脅かされているのが現状なのだが、保守的な議員やヤクニンどもは自己個人の責任(問題)にすり替えるばかりだ。が、それは主題ではない。

保守連中は高齢出産がさも悪いことのように言い立て、近代特有の現象であるかのように吹聴しているが、決してそのようなことはない。全体的に出産の高齢化が進行していることは確かであるものの、それは何よりも寿命そのものが長くなっていること、そして教育、特に高等教育が普及して女性の社会進出が進めば避けようがないことでもある。
現実には、「人生五十年」と謳われた中世にあっても「高齢出産」は稀少例ではなかったと推察される。ただ、いかんせん女性側の生年月日が不詳なケースが多いため、データベース化するのは難しい。それでもいくつか例を挙げてみたい。

上杉清子が室町幕府初代将軍となる足利尊氏を生んだのは36歳の時、弟の直義を生んだのは38歳の時だった。その尊氏の妻である赤橋(北条)登子が基氏(二代将軍義詮の弟)を生んだのは34歳の時だった。その義詮の室である紀良子が義満の弟となる満詮を生んだのは28歳の時だった。もちろん夫婦別姓は基本。
時代は下って、甲斐の武田信虎の妻である大井の方が晴信(信玄)の弟である信繁を生んだのは28歳、次いで信廉(逍遙軒)を生んだのは35歳の時だった。また、長尾為景娘(仙桃院)が上杉景勝を生んだのは32歳の時だった。
浅井長政娘の「江(ごう)」は徳川家光を31歳、忠長を33歳の時に出産している。有栖川吉子が徳川慶喜を生んだのも33歳だった。
40歳で「初老」と言われ、50前後までに隠居(定年)した時代にあっても、30代での出産は意外とフツーのことだったのだ。

なお、近代の有名どころだと、夏目漱石は母・千枝が41歳で生んだ子で、千枝は「こんな年齢をして懐妊するのは面目ない」と周囲に語り、漱石は千枝を祖母と思って育ってしまったらしい。また、山本五十六は父親が56歳、母親が45歳の時の子で、本人は名の由来を聞かれると不機嫌になったという。大叔父も母33歳の時の子で、兵学校受験時に家族構成を問われ「(前妻から数えて)11男です」と答えたところ、面接官に「ふざけた返事をするな!」と一喝されたそうだ。

まぁ年齢と出産を結びつけて政府がコントロールしようなどと考えない方が良い。
むしろ小児科医たちの話を聞いていると、未熟児の増加こそが問題であり、その背景には生活環境や出産環境のストレス、あるいいは「小さく生んで大きく育てる」といった幻想こそ解決しなければならない課題であるという。
posted by ケン at 12:27| Comment(7) | 恋愛、結婚、魔術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月06日

苦悩を抱きしめて‐離婚もガマン?

某芸能人妻の自宅での姦通が露見して離婚する事件があった。
報道によれば、仕事から帰ってきた夫が、妻が姦通相手と同衾しているところに出くわしたというのだから、江戸時代なら刃傷沙汰にもなりかねない話であるが、夫はそのまま出て行って、後日話し合って離婚が成立したという。
夫を「偉い、よく我慢した」と言うのはた易いが、その内心はどうであろうか、個人的には余りにも人情味の無い、味気ない結末に思えて仕方がない。

現代は「生きることを強要される社会」「苦悩をひたすら我慢する社会」と定義することが可能だ。
室町〜戦国期の法慣習であれば、姦通が露見した場合、姦通を認めない夫は妻の姦通相手を殺害する権利を有するが、姦通相手を殺害した場合は自らの妻をも殺害しなければならないのが一般的だった。これは姦通相手の一族が異論・反論を唱えないようにするための「両成敗」的措置だったと考えられる。江戸期に至っても、妻の姦通現場に出くわした夫には生殺与奪の権限が認められていた。もっとも、実際に相手方を殺害してしまった場合は、相手方の一族が騒ぎ出し、なかなか「殺害が認められているから」で済まされるわけでもなかったようだ。「やり過ぎ」の非難はあるとはいえ、法律上、慣習上は姦通相手と姦通した妻を殺害することに問題は無かった。
件の芸能人夫も、200年ほど昔であれば、その場で刀を抜いて同衾する二人を斬り捨ててしまっても、あとは奉行所に報告するだけで済んだはずだった。むしろ、この場合「見事に密通を処理した」として社会的な賞賛に浴する可能性が高かった。

延享年間の長崎奉行所の調書には興味深い記録がある。
妻と男の密通現場に直面した夫が刀の柄に手を掛けたものの、号泣して詫びる妻を見て思い直し、男を追い出した上で、妻を実家に返した。その5日後、再び密会現場を遭遇してしまった夫が、今度は姦通相手を斬り捨てたものの、妻は失踪してしまった。これに対して、長崎奉行は、夫が最初の時点で二人を討ち取らなかったのは私情に流された結果であり、2度目に妻を討ちもらしたのは武道不覚であるとして、夫に30日の自宅謹慎(押込)を、不義の妻を戻された父親は監督不十分として30日の入牢と過料300貫文を科している。300貫文は50両近い金額であり、下級武士の年収を優に超すものだ。

江戸期には姦通罪は訴えがあった場合「両者死罪」が原則とされたが、法改正で「非人手下」や「重追放」になったりもしていて今一つ安定しない。そもそも姦通罪自身が親告罪であるため、実際には「内済」と言って和解で処理するケースが多かったようだ。庶民レベルの場合、和解金の相場は大体5〜7両程度、現代の感覚では100〜150万円といったところだろうか、庶民としてはそれなりの額だが江戸期に結婚できる階層と考えれば妥当なところだったのだろう。

フェミニズムの視点からすれば「女性蔑視も甚だしい」ということになるのだが、現実には必ずしも差別され放しだったわけでもなかった。戦国大名の伊達氏の分国法『塵芥集』にこうある。
妻・夫いさかいの事。その妻たけきにより、夫追い出す。しかるに彼の妻、夫に暇を得たるのよし申す。あらため嫁がんことを思う。(中略)しかるに、前の夫、なかばは、いまさいあい(最愛)の夫に遺恨あるにより、離別せざるよし、問答に及ぶ。

夫婦喧嘩についての法だが、妻の恐ろしさに堪えかねた夫が、妻を追い出した。しかし、妻の方は「ラッキー」とばかりに、お気に入りの男の下へころがりこんでしまう。元夫は未練たらたら、元妻に対してストーカー行為に及ぶ始末。分国法は、「離縁を申し渡した以上、前夫の罪科は明白」とばかり、ヘタレ男につれない判決を示している。

享保年間には麹町に住む足軽の家で、30代半ばになる妻が居候していた友人と懇意になり密通を重ねた。時を経て姦通現場を抑えた当人は、友人に対して「妻が欲しいならくれてやるから出ていけ」と伝え、妻には「離縁してやるからそいつとどこへなりと行け」と叫んだところ、妻が逆ギレ「あたいに行くところなんざあるもんか、腹が立つなら斬るなり刺すなり好きにしやがれ」と居直ったため、友人は蒼くなって遁走、被害者であるはずの夫もどうにも出来なくなって夜半に失踪してしまったという。
同じく享保年間、神田三河町の質屋の女房30歳が16になったばかりの手代と懇意になり、夫が怪しんで問いただしたところ妻は「あんな子どもと通じるとかあり得ない」と答えたものの、その夜半には手代と駆け落ち、しかし途中で手代が怖くなって逃げそうになったため、これを刺殺、本人も自裁して果てている。

近代国家と社会は感情を抑制すること前提に法支配を成立させている。
妻の姦通現場に直面した夫が感情を爆発させて、姦通相手や妻に暴行を加えたり、傷害を負わせたら一方的に犯罪者として処断されてしまう。しかし、常識的に考えて、結婚の定義には「配偶者の性的身体使用の独占」が含まれている以上、それに違背する行為について何の咎め立てもないのは「契約の不備」と言えないだろうか。その不備を補うために、和解と離婚調停があり、時として慰謝料が払われる訳だが、重大な契約違反をカネで解決する他ないというのは被害者的には感情の持って行く先が無い。有り体に言えば、パートナーの信用を裏切り大きく人格を傷つけた姦通の当事者はいくばくかの金を払って「はい、さよなら」と言えるが、被害者はただ和解に応じるか、なすすべなく金を受け取って離縁する他ない。つまり実質的に泣き寝入り以外に選択肢は無い。
逆に当事者の立場に立った場合、復讐・報復が禁じられている以上、相方に姦通を許容させるか、離縁を認めさせるほかなく、感情論の上では姦通を居直る選択肢しかなくなってしまっている。
近代社会はヒューマニズムの上に成り立っているが、そのヒューマニズムは生身の人間性を排除した合理性(人道主義)に倫理と秩序を求めている。ところが結婚は、本来動物的な営みを社会秩序に換骨奪胎した制度に過ぎず、本質的に相いれない部分が生じる。その典型例の一つが姦通なのだろう。

人がオペラや歌舞伎に萌えるのは、血生臭いまでの人間的な営みが昇華されているからであって、ヒューマニズムを謳歌しての故ではない。
翻って件の芸能人夫が妻の姦通現場に直面し、理性を保ったことはヒューマニズム的には最高度の称賛に値するが、そのまま慰謝料をもらって(?)離婚してしまったことは果たして「その結婚は何だったの?」「人間としてどうよ?」といった疑問を拭いきれずにいる自分が存在する。
現代はどこまでも人としての感情を抑制することが求められる時代であり、果たしてそれが「自由」なのか「人のあり方として正しい」のか改めて考えさせられるばかりである。

なお、本稿にはいかなる主張もない。ただ「人間も遠くまで来たもんだ」という感慨があるのみだ。
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2012年05月20日

パートナーとして適切な答えは?

のろけと言われれば返す言葉も無いのだが、たまには許されたい。
先日の妻の来日時、ショッピングに出かけた際、彼女が、

「50kg超えちゃった」
「59cmのジーンズ入らなくなっちゃった」


などとわざわざ告白。さすがにテヘペロは付いていないが。
いきなりムズカシイ選択が迫られた。
敢えて前提をおさらいしておくと、彼女は私と同い年の初老で、身長は178cmである。
それに対して、夫として、あるいは恋人としてどう答えるべきか。
ゲーム的に考えると、

? ダイエットすれば?
? ま、しようがないんじゃね?
? ボクの愛に変わりは無いよ
? その他
? 無返答


が選択肢になりうる。
本音ベースでは、?と?が7:3〜8:2くらいのイメージ。
しかし、日本男児的に?は回避したいものの、相手がロシア人だけに?要素をゼロにするのは危険であろう。

年齢と身長と人種を考えれば、あの体型を維持してきたこと自体が奇跡的なのだ。
私も、漢方とバレエで逆三角形を取り戻したが、下腹部の贅肉は非常にしぶとい。
だからと言って、「しようがない」では、彼女の努力を否定するようなイメージにも繋がるような……

恋愛要素薄々の草食系初老男性には難問過ぎる問いかけだ。
是非とも読者諸姉の御意見を伺いたい。
posted by ケン at 23:53| Comment(7) | TrackBack(0) | 恋愛、結婚、魔術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする