2008年07月19日

読者の皆さんに質問

次の記事のために読者の皆さんに質問したいと思います。
是非ともコメント欄に思いついたままお書きいただければ幸いです。
ちなみに私の教育学の授業で使ったテーマです。ある程度意見が出てきたら、私の考えるところを掲載します。
正解があるわけではないので、あしからず。

【質問】
自分が中学校の先生、あるいは自分に中学生の子どもがいるとします。
ある生徒または子どもは、全然勉強しないで遊んでばかりいました。
そこである日、
「もっと真面目に勉強しなさい!」
と叱ったところ、その生徒(子)は、

「そんなことお前に言われる筋合いはねぇっ!」
と言ってきました。もちろん本気そうです。
さて、
皆さんならどう答えますか?
posted by ケン at 15:35| Comment(12) | TrackBack(0) | 教育日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月13日

最後の合宿

「ゼミ合宿」などというものも、おそらく日本にしかない文化に違いない。
論文の提出も口述審査も終えた私としては、特別参加する義務はないのだが、これも御恩に対する奉公であるため、参加。
しかも、どういうわけか2回、4時間近くにわたるゼミを主導するという主役級の役割を果たすこととなった。
もっとも、2ゼミ合同のゼミであり、2つの分科会に分かれた結果、私の「ガッツリ教育学」の分科会は全然人気がなく、イマイチ盛り上がりに欠けることとなった。
今年の新入生がむしろ社会学を志向していることに起因するものと考えられる。
いずれにせよ20人近くいると収拾がつかず、とても大学院とは思えないような有様になっていた。
来年以降の課題だろう。
こうして教育学の話をする機会もいよいよなくなるのかと思うと少し寂しい気もする。

ちなみに、合宿の場所は「天目山」だった。
近くには「大菩薩峠」もあり、何やらあまり縁起がよろしくないのだが、それがわかる学生がほとんどいなかったのは不幸中の幸いである。

現在、PC買い替えによる新規移行中のため、ご迷惑をおかけすることもあると思いますが、ご理解の程、お願い申し上げます。
posted by ケン at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月06日

せっかくの連休が

論文も書き終えて、2カ月ぶりに2連休がとれるから、ゲームと読書三昧で引き籠もろうと思っていたら、甘かった。
来週末にはゼミ合宿があるのだが、そこで発表することになってしまったのだ。
それも2回分も。
どう考えてもおかしいだろう。
若い院生が発表して、厳しい突っ込みを入れて、激しい問答に持ち込むことこそが、先輩たる私の本来の役割であるはずだった。
あと卒業するだけの私が何か発表したところで、どれほどの意味があろうか。

合宿といえば、一年生が研究計画を発表するか、二年生が中間発表をするのが常。しかし、二年生は「就活」を理由に不参加を表明し、一年生は「もうゼミで発表したから、発表することがない」とゴネているらしい。
おかしいだろう。
別に発表内容は、論文に関係することには限っていないのだから。
せいぜいが、教育学とその周辺領域という縛りがある程度。
全員が発表するなら、一人30分程度になるのだから、自分が話す時間は15分から20分程度。
私が毎日ブログに書いているようなことをそのままレジュメにすればOKなはずである。私のブログ程度のレベルで良ければ30分とか1時間でできるだろう。テーマなんて、ゴロゴロ転がっていそうなものだ。まぁ、私が発表するのに、カンニングの話というわけにもいかないだろうが……
しかし、若い学生はそうではないらしい。
発表したくない大学院生など、ほとんど無価値ではないか。存在理由に関わるだろう。

「論文のテーマに沿って」
とか言われても、「ソヴィエト・ロシアの高等教育制度の理念的変遷」なんてマニアックな話は、誰も分からないだろう。いや、残念ながら院生のレベル的にも難しい。
かと言って、いまやゼミ生には日本語教育専攻の学生は一人もいないので、日本語教育をテーマにすることもできない。
だから、論文のテーマとは別のネタを立てる必要がある。

当初は、「ゆとり教育の深層的諸課題について」ということで、「ゆとり教育」がその建前とは全く別に、日K組の時短闘争、ポストモダン学者・官僚の「学校からの解放」、ネオリベラル系財界人による「子どもの消費者化(できない子は従順な消費者に)」という3つの思惑から誕生したものであった、とする説をじっくり語ろうと考えた。
しかし、今の院生には、「日K組」「ポストモダン」「ネオリベラル」などの基本的キーワードすら一から教える必要があることに気づいて、断念することにした。
何せマルクスの考え方すら聞いたことがないのだから、如何ともしがたい。

一年生が全員発表放棄したため、時間だけは腐るほどある。
考えてみれば、そもそも合宿やる価値すらないようにも思えるのだが、そこは指導教官の顔を立てねばなるまい。
まぁせめてもの置き土産に、ちょっとは院生も考える内容にしなければと思い、「国家の教育理念と目的の比較検討」をテーマとした。
レジュメの序文はこんな感じ。
 ウォーラーステイン(1997)は、旧来の資本主義的リベラリズムの崩壊に伴い、世界は2つのイデオロギーに収束されていくと予測。一つは、能力主義を掲げて適者生存を旨とするイデオロギーであり、もう一つは反差別・同権を掲げて社会的共生を旨とするイデオロギーである、としている。日本の場合、かつての自民党は伝統志向の保守主義者よりもリベラリストが優位であったが、80年代半ば以降、リベラリストが淘汰され、「政治的保守主義・経済的新自由主義」のネオコン・ネオリベが多数を占めつつある。小泉内閣では、経済的新自由主義のもと、郵政民営化を始めとする各種の経済改革が実施されたが、後継の安倍内閣では、政治的保守主義が前面に出る形となり、教育基本法の改正が、同内閣の最重要課題として実行された。
 現代の日本における教育改革の特徴は、学区制の緩和(学校選択制)や国立大学の民営化に代表される教育分野における競争原理の導入(ネオリベ)と、「郷土を愛する心」、「道徳」、「伝統、文化の尊重」を強調する伝統的価値観の導入(ネオコン)の二本柱と言える。
 さて、公教育の存在意義、理念と目的は、各国の憲法と法律、あるいは国際条約によって定義されている。日本では、2006年12月22日に、全面改正された教育基本法が施行された。改正教育基本法における教育の理念と目的を検証した上で、他国で法定化されている教育の理念と目的とを比較することによって、現代日本における公教育のあり方を再考していく。

改正教育基本法の特徴と、世界人権宣言や子どもの権利条約の教育関連条文を説明した上で、学生を4つの班に分けて、中国、ロシア、フランスの教育法と、日本の改正前の教基法を読ませて、その特徴について発表させ、5つの教育法に書かれている理念と目的について、議論を進めていく。「発表」ではなく、完全にゼミの延長のワークショップなのだが。
結果的には、今の院生レベルでは難しくなってしまったかもしれないが、私としてはこれ以上下げたくない、というところまで妥協したつもり。

しかし、ワークショップ部分でもう一ひねりする必要があり、明日さらに練らなければならない。
そして、もう一つ「発表」を用意しろとか。まったく人使いの荒い……
バカバカしくなってきたので、自主ゼミ合宿は止めにして、人的資本論とシグナリング理論をごく優しく説明して、「学校選択制」「国立大学民営化」「教育バウチャー制」の根底にある考え方について議論していく、という感じのものにしようと思う。
は〜、明日も一日がかりだな……俺の休みはいつになったら……
どうも若い連中はマニュアル世代のせいか、大学院でも先生から教わることしか頭にないらしい。

「ヤツらもう修士号取った気でいやがる」
「よし、教育してやる!」
posted by ケン at 00:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月09日

最後の授業?

論文もいよいよ佳境だというのに授業に出てしまう。
私の場合、学生としてではなく、補佐ではあるのだが。
さすがに締切が迫ってきたので、来週と再来週は休ませてもらうことにした。まぁ休むと言っても、登録してないのだから、何か不都合があるわけではなく、ボランティアに類するものなんだけど。

登録が終わって少し減ったとは言え、大学院ゼミが15人で、学部生と留学生の合同授業は30人という規模。講義形式ならともかく、ゼミ形式の授業としては、相変わらず成立しがたい人数である。
大学院ゼミ(比較教育学)は、お世辞にも高いとは言えないレベルで、私の感覚的には二流大学の学部のイメージである。
とは言っても、知人の大学教員の話では、今時の二流大学の学部ゼミでは新書が講読されている、とのことだから、全体的に高等教育の頽廃が進んでいるらしい。
ゼミにもかかわらず、私以外からまともな意見やコメントが出てこず、先生が一人で話しているような感じになっているのだ。
まぁ一つには、研究生(大学院入学準備の留学生)と一緒だから、というのはあるかもしれないが、それだけではないだろう。
3年前の同じゼミでは(当時は5人ぐらいだった)、ハーバマス(政治思想)やブルデュー(社会学)を読んだりして、一応の水準を保っていたのだから、「常にダメ」という訳でも無さそうだ。学生間格差が広がっている、ということだろうか……

この間、私も指導教官の緊急代講を務めた。とは言っても、教育学とも日本語とも縁のない話ばかりで、
「修士論文ができるまで」
「プレゼンテーションの方法論」
「会議の方法論」
「ロシアの日本語教育」(これだけ専門?)
なんてことばかり話していた。

学部生の自主ゼミに呼ばれたかと思えば、
「日米同盟の歴史と諸相」
などというテーマで話をさせられた。
いちおうボク、教育学専攻のつもりなんだけど……ねぇ。

どうせなら、
「ロシア連邦教育法と改正教育基本法の対比」
「ソヴィエト・ロシア高等教育改革の変遷」
「人的資本論とシグナリング理論」
「ゆとり教育と消費社会の親和性について」
「教育の自由化をめぐる諸相」
とかのテーマで話させてくれれば良かったのに、とは思うものの、準備する余裕もないので、あきらめた。
もし実現したら、自主ゼミ合宿で扱いたいと思う。

「最後の授業」の数々は、十分な準備時間を割けなかったこともあり、納得できるものにはならなかった。少々心残りではある。
しかし、授業をすること自体は楽しかった。やはり私はものを教えるのが好きらしい。
それもいよいよ終わりかと思うと、少し寂しい気もする。

かと言って、今従事している論文執筆の辛気くささを思うと、博士課程に行くのはちょっと気が引ける。
幸いにして、ものを書くのが苦にならないため、苦痛ではないが、学術論文というのはいかんとも退屈なものである。
やはり私は学者ではなく、ディレッタントでしかないらしい。

まぁ万が一、上に行くとしても、教育学じゃないなぁ……政治学で、
「日本社会党から見た『北方領土』の諸相」
とかゆーテーマになるのかなぁ……
うわっ、誰も読まねぇ〜

話を戻すと、日本にいる欧米から来た研究者たちの間では、
「日本は中学校まではいいが、高校から後の教育はからっきしダメだ」
という評価が一般的であるらしい。
それは当然の話で、日本の高校は大学入学の予備校でしかなく、大学はテーマパークでしかないからだ。
もっとも、高等教育の質というのは、授業で計る必要はない。
単純に、学生がどれだけ本を読むか、で知ることができる。
かのアラビアのロレンスは、学生時代、年間1千冊の本を読んだと言うが、私の基準で考えても、最低年間150〜200冊ぐらいは読まないと、「大学生」の世界水準は保てないのではないかと思う次第。当然、本の中身にもよるが。

従って、大学教員の役割は、「良い授業をする」ことよりも、「どれだけ学生に本を読ませるか」にあると愚考する次第。
その意味では、私ももう少し本の紹介を増やした方がいいわけか……
ま、私はさっさと卒業しますんで、先生の皆さん、頑張ってくださいませ!
大学院で何を学んだかについては、また回を改めて書きマス。
posted by ケン at 02:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月26日

今時のゼミって……

論文も佳境だというのに、授業やら新歓コンパに呼び出されてしまう。
新歓と言っても、私はさほど教官と年齢は変わらない。

しかし、今年のゼミは尋常ではない。
その人数たるや優に20名を超しているのだ。
しかも、学部ではなく、大学院のゼミである。
学部に至っては30人近くになっていると言うから、それはゼミの形骸すら残らないだろう。
いや、その辺になれば、もうあまり人数は変わらないか……

大学院のゼミというのは、文系の場合、先生あるいは学生自身がテキストを選んで、一人が発表者として、解説し、自分の解釈を述べていく。
もちろん、出席者は全員テキストを読んでくることが前提で、発表者に対して、異論を述べたり、自分の意見を開陳したりする。
先生の役割は、ゼミの進行と、補足説明、あるいは自分の意見を述べることにある。
基本的にゼミの中では、「同じ研究者」として扱われることが原則。もっとも、この辺は日独露あたりの権威主義的傾向の強い国々では、やはり教員の権威が強く、ゼミでも主導権を発揮する傾向がある。
従って、ゼミナール形式の授業というのは、多くても10人程度、普通は5、6人までで行われる。
人数が増えれば、議論の濃度が薄くなってしまうからだ。

だが、いくら多いと言っても、20人はちょっと……如何ともしがたいのでは……
しかし、これが現代の大学院の現実らしい。
これで、やれ「教養力」だの「大学院の質的向上」だの言われても、無理でございます。

しかも、その構成たるや、先生と補佐の私を除けば、女子20人に男子3人。
また、学生の内、約半数が中国からの留学生。
性別や国籍で差別するつもりはないが……察して欲しい、何とかしてください、学長様!
ゼミを終えての質問がまた凄い。

「先生、私は何をすればいいんでしょう?」(← 何しに来たの?)
「先生、論文の書き方が分からないんです」(← それ勉強しに来たんでしょ!)
「先生、やりたいテーマがないんですけど」(← 試験官は何してたんだ?)

「よし!教育してやる!」という気分も萎えてくる。
(空の徳利から酒は出ねぇよなぁ……)と、私などは思ってしまうのだが、
先生は、

「教育というのは、語源からして、知識詰め込み型が基本なのですが、educationは、その人の持っている素質・経験・知識を引き出して活用することを意味します。(後略)」

と、やる気満々。
やはり、こういう方でないと、先生業は務まりそうにない(私は不向き)、と納得する。
とは言うものの、さすがに先生も危機感はあるらしく、
私が先に提案した、

特別講座「修士論文ができるまで」

の開講を許可してくれた。
文字通り、大学院の意義から、研究テーマの選び方、論文の形式、計画の立て方、修士論文の重要点、リサーチの方法論などなどを講義する。

しかし、これは、教育倫理的に問題がある。
本来、大学院修士課程というのは、「学術論文の書き方」を学ぶところであって、それは様々な紆余曲折を経て、苦労して独習していくべきものなのだ。
独習していく課程で、研鑽を積み、知識と経験と人脈を得ていく。

私が言うのも何だが、修士論文なんて中身はどうでもいいのだ。
要は、学術論文としての体裁が整っていれば、「十分」なのである。
先行研究を読んで、リサーチをして、起承転結と十分な註と参考文献があることが、最重要だと言える。
その上で、中身があれば、それにこしたことはない、という話になる。
もちろん、博士課程に行くような人は、一定のレベルが要求される(現実には、酷い人も多いのだが)。

だから、私などがこのような講座を開いてしまうのは、いきなり推理小説の犯人を教えてしまうようなもので、倫理に反する。
が、そうでもしなければ、「誰も修論が書けない」という事態になりかねないのが、今の大学院の現状なのだ。
いや、これでも一応、一流国立大学のはずなのだが……
このままでは、(先生が)来年の12月に地獄を見るだろう、ということを予想して、リスクを冒して進言したのが、功を奏した形だった。

一種のモラルハザードと言えなくもない。
ソ連の崩壊も、こうしたモラルハザードから始まったことを思えば、日本の大学院制度もよほど危機を迎えているとも取れなくもない。
私などは、大学院の定員を5分の1程度にすれば、全て解決すると思うのだが、ダメなのだろうか、学費収入が減る?いや、その分は、学部定員を増やせば良いのでは?
話がずれそうなので、今日はここまでにしておきたい。

でも、こんなんでいいんでしょうか?学長様……
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2008年01月30日

チュウ太の道具箱

たまには日本語教育ネタも書かないと。
こちとら、いつ失業するか、いつ再亡命を強いられるや、戦々恐々ですから(笑)

久方ぶりに大学の留学生センターの授業を見学。
学生は、この4月から日本の大学の学部に入学して、4年間日本人と同じ条件で学ぶ予定の人たち。
一言で「日本語教育」と言っても、その学習者も目的も様々。
労働者もいれば、ハイソなビジネスマンもいるし、学生もいれば、外国人妻もいる。
滞在目的が異なれば、使用する言葉つまり学びたい言葉も違ってくる。
となれば、学習方法や時間もそれに合わせて対応しなければならない。

「アカデミック・ジャパニーズ」もその一つ。
「(日本の)大学で学ぶために必要な日本語」というコンセプトで、生活のための日本語だけでなく、講義を聴いてノートを取ったり、レポートを書いたり、ゼミで発表したりするための日本語を重点的に学ぶ。
日本人の大学生と一緒に学ぶのだから、講義もテキストも日本人と同じものになるのは当然。
それだけに、学生にはかなりの負担(勉強)が強いられる。

私が見たのは「速成教育」クラス。
一年に満たない時間で、ゼロから日本の大学で学ぶレベルにしようというもの。
学生は世界各国から選抜されてきた優秀な学生。
話す方は、まだまだ拙くても、読解のテキストは、新聞記事のレベルだった。
各学生は自らテーマを選び、それに合わせて先生がテキストを用意、学生たちは家でそれを読んでくる。担当学生は、テーマについてさらに独自に調べて発表するというもの。
授業では、担当者が説明し、自分の意見を述べた後、全員でディスカッションする。
先生は、司会と同時に、色々なことを補足説明する。
テキストを準備するだけでなく、各テーマについて、ある程度知らないとコメントできないので、自分でも少しは勉強しておく必要がある。

授業の準備でもっとも時間を費やすのは、テキストの作成だろう。
実際の新聞記事や本の一部あるいはネットの文章など、手を加えない状態のものを「生教材」と言うが、これは余程の上級者にならないと使えない。
ほとんどの学生の場合、教員が書き直した(リライト)ものを教材として使うことになる。
難しい言い回しや単語を、学生のレベルに合わせて直し、必要に応じて訳や説明を付けていく。これが非常に手間のかかる作業なのだ。

そんな話をしながら、先生が紹介してくれたのが、これ。
チュウ太の道具箱
である。

教材作成の支援ツールで、ネット上で一般公開して、誰でも自由に使用できるようになっている。
使い方も簡単で、テキストをコピーして、貼り付けて、クリックするだけ。
「ポチッとな。」
語彙の説明や訳が出てくることもさながら、単語や漢字ごとの日本語能力試験や漢字検定のレベルが一度に判明する点が、非常に重宝する。
教員にとって判別が難しいのは、「この語彙(漢字)は既習のものか否か」という点にあるが、このツールを使えば、大体の目安を得ることができる。
正確さの点では確認こそしてないものの、目安としては十分だろう。
一々「出題基準語彙表」などを参照する手間が省けるのだから、非常に助かる。

寂寞たる永田町で頭の悪い議論ばかり聞いていると、教育現場が懐かしくなってしまう。
多忙の余り、自分が大学教員だったことすら忘れてしまいそうな毎日。
当分教育現場に戻ることはなさそうだが、教えることの楽しさは忘れずにいたい。
posted by ケン at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月04日

久しぶりの授業準備

指導教官に呼ばれて大学に行く。
「明日から3週間、研究生を指導してくれ」
どうして議員とか教員という連中は、こうせっぱ詰まった注文をするのだろう?

「研究生」というのは、日本の大学院進学を目指している留学生を指す。
つまり、留学生の大学院入学試験の指導を意味する。
が、その試験たるや、3週間後だという。

まず試験に目を通してみる。
試験科目は「日本語」と「小論文(学部教養)」。
目をむくほどの難しさだ。
「日本語」は本当に日本語教師がつくったものなのか?
「小論文」に至っては、私でもそらでは難しいテーマ。

例えば、
・「ソフト・パワー」とは何か説明せよ。
・「ジェンダー・フリー」の代表的理論家を一人挙げて、その説を解説せよ。

はい〜?うちらは教育学専攻なんすけど……
専攻してない限りはまず答えられないだろう。
そもそも普通の大学院生はそらでは答えられませんから!
いや、俺、つくづく「社会人入試」で良かった。

それにしても、俺に何をしろと?

研究生と話している限り、日本の普通の学部生レベル、あるいはそれ以下。
この問題は無理だろう……荷が重すぎる。

だが、指導教官の命令は絶対服従がキホン。

顔を青ざめさせて、帰路につく。
そのまま、対策を考える。
授業では比較的簡単なテーマを取り上げ、難しいのは宿題にしよう。

?読解:「大学の卒業認定試験導入について」(新聞記事から)
?論理力養成講座:「『美人白痴』を論理的に説明せよ」
?宿題・小論文「教育崩壊の経済的要因について」


適当な題材を探す余裕はなく、ブログの記事を使うことにした。
もともと学部卒業生レベルをターゲットにしていたので、ちょうど良いだろう。

出来はこんな感じ。
留学生の皆さん、ご愁傷様……

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教育崩壊の経済的要因について

教育崩壊の経済的要因について述べてみたい。
米国の経済学者で、クリントン政権の労働長官だったR・ライシュ氏の理論を基にする。

大量生産大量消費の産業社会では、中間技術者層の養成が重要になる。
商品を開発した大企業は、中小企業に下請け?を出し、そこで作られる一次製品や部品の品質が最終商品の質を決定する。
同時にそこで作られた商品は、大企業や中小企業の従業員(消費者)によって買われていく。
こうした構造下では、企業は平均的に高水準の労働者を求めるようになる。
そのため生産で得た利潤?を、人材の養成に再投資する合理的理由がある。
結果、多少高い税金が取られても、質の高い公教育が保証されれば、企業は優秀な労働力の獲得が容易になるため、問題ない。
技術労働者層も一定の待遇が保証され、安心して消費生活を享受?できる。
つまり一国内でそれなりの経済循環?が成立し、それが公教育に大投資を行う合理的説明にもなっていた。

しかし、産業のグローバル化で大きく環境が変化する。
ポスト産業社会Aでは、製造業からサービス業や金融業に産業の主軸が移る。
そして、中間技術者層の需要が減少する。
企業を管理・統括する「エリート」と、ソフト商品を開発する「創造的開発者」が求められるようになるが、その他の労働者は営業を中心とした非熟練労働者のみで十分とされるようになる。
ファミレスでいえば、グループを統括する管理職とメニューやサービスを開発する開発者、あとはせいぜい各店舗?の店長が求められるが、それ以外は対面サービスをこなせる労働者であれば誰でもよいことになる。
結果、企業は質の高い労働力よりも、安い税金の方に魅力を感じるようになる。
同時にグローバル化が進行しているため、質の高い労働力を国内に求める必要がなくなり、より安価な労働力を外国に求めるようになる。→ 外国人介護労働者など
つまり、企業としては教育投資を減らし、税金を安くしてもらった上で、安価な移民労働者を大量に受け入れてもらうのが望ましい、ということになる。
企業が自国の国民に求めるのは、「従順な消費者」としてのみになる。B

日本の場合、「ゆとり教育C」がその路線上にあると言える。
それは、ポストモダンDから見れば「学校・勉学からの解放」であったが、ネオリベラリスト(新自由主義者)Eたちから見れば「子どもの消費拡大」であり「教育のコスト削減」であった。
授業が減り、部活からも解放された子どもたちは、大人が提供した新商品に向かって一斉に走りだした。
それは、アニメでありマンガであり、あるいは携帯電話であり、インターネットだった。消費に溺れた?子どもと社会に疲れた大人が没頭していった「エンコー(援交)F」は、日本型ポストモダンが生み出した鬼胎?と言える文化だった。
他方、教育現場のコストダウン(経費削減)Gは教員の負担(作業)を増やす一方となり、仕事(教育)の効率を低下させていった。
教員や教育の質が低下し、生徒のやる気や勉強時間が低下すれば、学校もまた荒廃していくのは必然だった。
日本のオタク文化の振興と「ゆとり教育」の相関関係はもっと研究されてしかるべきだろう。

話を戻す。
上流階級が高い税負担を許容していたのは、一国内経済循環の中で、税負担が自分の利益となって還元されることが期待できたからである。H
産業主義時代には、企業経営者は利潤追求と国民(従業員)福祉の二兎?を追う必要があった。
しかし、グローバル化したポスト産業社会では、福祉を始めとする再分配構造Iが上流層の利益に還元される率が低くなる。そのため、企業は自社の利潤追求に邁進?すればよいことになる。

日本ではポスト産業主義への移行を強く主張する新自由主義者たちの主張に引きずられる形で教育改革が進められた。
結果、「子どもが少なくなったのだから教員も減らすべき」などの主張の下、教育関連予算は相対的に縮小され、教育内容や授業時間も減らされていった。
その根本的原因は、大企業が支持する自民党の一党優位体制Jが長すぎたことが大きい。
同時に、ネオリベラリストたちの教育改革論に対抗する論理を、旧態依然?たる左派が打ち出せなかったことも大きい。
そして、今日でも「パンピー(一般人)に教育は必要ない。従順でさえあればいい。」という原理で「教育再生」の議論が進められている。
そうした改革を支持しているのは、自民党と公明党に投票している有権者なのだ。
つまるところ、教育崩壊は医療崩壊?同様、有権者の政治的選択の結果による、と言える。

こうした構造を踏まえて、左派(非マルクス系社会主義者、リベラル)がいかなる対抗策や対抗理論を打ち出せるか、が我々の今後の課題となるだろう。
ブログ『戦闘教師ケン』2007年9月10日より(一部改変)

【問題1】漢字?〜?の読みを書きなさい。


【問題2】二重線A〜Jの言葉、文章を簡単に説明しなさい。


【問題3】日本の「教育崩壊」の要因をあなたはどう考えますか。「崩壊していない」と考える場合は、その理由を説明しなさい。


【問題4】あなたは日本の教育制度をどう評価しますか。
posted by ケン at 21:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする