2019年04月17日

歴史研究とフィクションとシミュレーションゲーム

少し前にある学者と作家が論争を演じ話題になっていた。
個人的には、作家の方が「オレだって史実を書いているんだから、ケチつけるな!歴史は学者のもんじゃねぇ!」と叫んでいるだけで、いわゆる「愚にも付かない論争」にしか見えなかった。だから、それ自体にはあまり興味は無い。要は、「史実を織り交ぜた(文学的?)作品」と「歴史研究」を混同しているだけの話だった。

そもそも歴史学は、確かに最終目標こそ「史実の解明」にあるかもしれないが、あくまでそれは理想論であって、現実には史料分析を積み上げて、「ここにはこう書いてある、あそこにはこう書かれている」ということを延々と繰り返すだけのもので、「史実はこうだった!」と言ってしまった段階で歴史学ではなく、フィクションの世界になってしまう。そして、現実の歴史研究ができるのは、「こうだった可能性がある」までで、百歩譲って「こうだった蓋然性が高い」というところまでなのだ。

恐らくは、欧州であればもう少し研究と創作の棲み分けができているのかもしれないが、どうも日本では混同が著しく、その悪しき影響として、「司馬史観」やら一連の歴史修正主義が横行するところとなっている。
創作作家も史料は読むだろうが、それはあくまでも創作のための基礎知識を身につけるものであって、研究のためではない。その点を踏まえずに、「これが史実だ!」とやってしまうから大問題となる。しかし、現実にはそれが大売れしてしまうから、非常にやっかいなのだ。
しかも、歴史の研究書というのは、基本的に面白くない。それは当然で、最初から最後まで「この史料にはこう書いてある」ばかり続いて、最後の最後に「従来の研究とは少々違って、〜だった可能性がある」で終わり、そこには物語性のかけらもないからだ。
例えば、長篠合戦に関する学術論文を読んでも、「この史料には鉄砲三千丁と書いてあるが、江戸期中期のものだ」「この史料には一千丁と書いてあるが、これは江戸前期のものだ」という話が延々と続き、最後の最後に「やはり確定的なことは言えない」とくるのだから、よほど根気のある人にしか耐えられない世界である。
それでも、私がフィクション・創作よりも研究書の方が好きなのは、やはり「少しでも史実に近づきたい」ということと「シミュレーションゲーム」であろう。

シミュレーションゲームの醍醐味は、「後世の歴史家」の視点ではなく「当時の指揮官」の視点から世界を眺め、その当事者が抱いたであろう様々な不安、問題意識、ジレンマなどを追体験して、限られた情報と資源の中で戦略目標達成に向けて何らかの意思決定を行うことにある。
それだけに、「ゲームとしての面白さ」と「史実再現性」の二つの要素をいかに両立させるか、あるいは一方をどの程度切り捨てるかというところに、デザイナーの才能と独創性が求められる。

独ソ戦を主題にしたゲームでも、かつてはドイツ軍がほぼ無傷のままモスクワ前面まで来るという作品が少なくなかったが、歴史研究によって批判的に見られるようになっている。クルスク戦についても、「大戦車戦は本当にあったのか」「ソ連軍の損害は実はかなり大きかった」などの検証がなされ、新たな作品に生かされている。
そもそもソ連崩壊を経てソ連側資料が公開されたことで、戦闘序列や部隊配置、あるいは損害の見直しがなされ、新作ゲームには最新の研究が反映される。
「どうせフィクションなんだから、細かいところはいいじゃん」という考え方も成り立つが、そこはユーザーの評価に委ねられるべきだ。

もっとも、逆に関ヶ原の合戦の場合、最新の研究では、「開戦と同時に小早川が離反し、西軍はすぐさま潰走に入った」という説が一次資料から導き出されており、「ゲームにならないじゃん!」ということになっている。
そもそも戦国時代の合戦というのは、実際の戦闘がどのように行われたのか良くわかっていないところが多く、ゲームをつくるにしても、かなり(大半)創作を施さざるを得ないのが現状だ。

鎌倉期の元寇も最近の研究で大きく評価が変わって、文永の役における「元軍は一夜で撤退した」も、弘安の役における「台風で壊滅して撤退」も、いずれも後世に書かれたフィクションで、一次資料には全く根拠を見つけることができないという。「軍船900隻」についても、上陸用舟艇や艦載舟の類いが600隻含まれており、大海を渡る能力を有する「千料舟」は126〜300隻と見られている。これなどは、作家が「これが史実だ!」などとフィクションをでっち上げてしまうと、後々まで歴史研究を阻害してしまう好例であろう。
ちなみに、改めて地図で確認すると、対馬と朝鮮半島は最短距離で50kmしか離れておらず、びっくりさせられる。

フィクションに話を戻せば、あまり史実を重視し過ぎると、現代人の感覚とかけ離れて全く理解できないという問題も生じる。
例えば、たかだか150年前のことでも、戊辰戦争において宇都宮城や会津若松城をめぐる戦いの後には、首無し死体が散乱していたというし、西南戦争では薩軍人たちが官軍兵の死体から内臓を奪ったり(ひえもんとり)、首狩りを行ったりしていたというから、およそ現代人の視聴に耐えられるものにはならない。
鎌倉時代から戦国時代にかけての武士の精神構造は、基本的に河部真道『バンデット』のそれであり、およそ現代人の感覚で理解できるものではない。

要は研究と創作を分けて考えるというだけの話なのだが、どうしてそれが難しいのだろうか。

もっとも、研究者でこそないものの長くソ連・ロシア学に従事してきた私からすれば、突っ込みが入りまくる日本史研究はうらやましい限りだ。まぁ戦国時代などかなり限定的ではありそうだが。
アフガニスタン介入」「チェコスロヴァキア介入」「ポーランド危機」「ペレストロイカ」などを書いてきたケン先生的には、自由主義史観論者などから何の反論もなく、全く寂しい限りである(笑)
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月16日

非正規化進む学校現場

【横浜の私立校で大量退職 「非正規教員を使い捨て」】
 元経団連会長の故土光敏夫氏が理事長を務めた学校法人橘学苑(横浜市鶴見区)が運営する中高一貫校で、非正規雇用の教員の雇い止めが相次ぎ、大量の退職者が出ていることが13日、学校関係者への取材で分かった。学苑側は昨年度までの6年間で72人が退職したとしている。一方、複数の学校関係者は退職者は120人近いと訴えている。
 改正労働契約法には、非正規労働者の雇用安定を図るため、有期契約が5年を超えれば無期に移行できる「無期転換ルール」がある。私立校教員も対象。私立の労働問題に詳しい労働組合関係者は「非正規の使い捨てとも呼べる状況」と指摘している。
(4月13日、共同通信)

臨時任用を含む非正規教員の割合は、小中学校ですでに2割近くになっており、私立の割合が高い高校ではさらに高くなるとみられている。
諸経費がかさむ中で、経営層が積極的に人件費削減を進めた結果であろう。労働集約型産業の典型である教育の場合、経営の観点から利益を出すためには、人件費を削減するほか無い。将来的には相当部分がAIにとって代わられ、あるいは学校という閉鎖空間に生徒を集めて教えるという方法自体がなくなるかもしれないが、それはもう少し先の話になりそうだ。それだけに、人件費削減は正規教員の非正規化という形になって現れる。

記事の学校の場合も、いわゆる底辺校ではないが、偏差値が50に届かない程度の学校であり、経営者が企業経営者であるということからも、学校を市場原理と収支の側面から捉える傾向が強かったのだろう。
だが、非正規教員を増やした場合、技術、経験、知識の蓄積が不十分となり、生徒と教員間の信頼関係も低下してゆくことになる。収支面では改善されるとしても、教育の質としては低下は免れず、学校としての評価もさらに下がってゆくところとなる。ただでさえ少子化によって、生徒獲得競争が厳しくなっているだけに、学校の評価は死活問題だが、「背に腹はかえられない」ということかもしれない。
結果、経営層は教員を叩いて精神主義的に「成果」を強要することになるが、もはやバンザイ突撃しか命令しない旧軍指揮官と同じだ。そして、教員の士気も低下、正規教員が辞めると、非正規教員が補充され、ますます士気と質が低下してゆく構造になっている(ようだ)。

これから子どもを学校にやる保護者はそんなことまで考えないといけないのかと思うと、ますます萎えてしまう。
posted by ケン at 12:00| Comment(5) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月15日

ヴォルゴグラード改めスターリングラード?

20190413SS00001.jpg

4月12日の「ノーヴォスチ」記事。
2023年に迎えるスターリングラード戦80周年に向けて、現在のヴォルゴグラードの市名を「スターリングラード」に戻そうという運動があるという。まずは住民投票を行うために運動を展開しているようだが、現実にはネット調査だと、793人の回答に対し、72%が反対、12%が「ツァーリツィン」(革命前の市名)、16%が「スターリングラード」支持だったという。回答者数が少ないので容易には判断できないが、厳しい道のりではありそうだ。
少なくともロシア人は意外と冷静と言えそうだ。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | ロシア、中国、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月14日

迷走するふるさと納税

【ふるさと納税 都市部では税の“流出”深刻に】
 ふるさと納税制度をめぐっては、寄付者が住民税を控除され、都市部から地方へ税収が“流出”しているとの見方もある。都市部の自治体からは「このままでは行政サービスの低下につながる」との声が上がる。
 総務省によると、平成30年度にふるさと納税で控除される住民税は全国で約2448億円(前年度比約1・3倍増)。都道府県別では、東京都の約645億円を筆頭に、神奈川県(約250億円)、大阪府(約210億円)、愛知県(約180億円)が続き、都市部での減収が目立つ。
 住民税の控除額が急激に伸びる川崎市。27年度に2億円だったが減収分は、ふるさと納税などの影響で、29年度には30億円に。31年度は49億円に達する見込みだ。本来、減収分の75%は交付税で補(ほ)填(てん)されるが、同市は独自の税収で財政運営ができるとして、交付されない。減収分はそのまま歳入減につながり、市の危機感は強い。
 同じく不交付団体の東京都杉並区も、直近5年間の減収分は計約40億円に上り、学校1校分の改築費に相当するといい、同区は「この状態が長く続けば、行政サービスの低下につながりかねない」と危惧している。
 関西の都市部でも税の流出傾向が顕著。神戸市では26年度まで寄付額が控除額を上回る“黒字状態”だったが、27年度から逆転。29年度の差額は約26億円に及んだ。大阪市でも30年度、約8万人がふるさと納税を行い、約55億円が減収している。
(4月11日、産経新聞)

記事にもあるとおり、本来の住民がふるさと納税することによって減る税収分は、その75%が国庫から補填されるものの、地方交付税の対象外の自治体には交付されないため、そのまま減収となる。特に大都市部は不交付のところが少なくないため、多くの自治体で減収となっている。実のところ、これこそが国の狙いなのかもしれない。

しかし、ふるさと納税によって得られた増収分は、20〜30%が「返礼品」として消費されてしまうので、実際に地方自治体が得られるのは残り分ということになる。これは、本来受領するはずのない「税収」(寄付金)であるため、それ自体困ることはないわけだが、それだけに「返礼品競争するな!」という国側の主張は、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなものだろう。

現実にふるさと納税によって地方が整備され、人口減の抑制や地方再生に効果が認められるのであれば、財政難の折、やむを得ないところもあるだろう。しかし、現状ではそれだけの効果は認められない。制度創設から10年以上経つのだから、検証すべきだ。

以前の主張の繰り返しになってしまうが、住民税は本来居住地における社会的インフラを負担するための税であり、非居住地に「住民税分を寄付する」するというのは、税本来の意味から外れてしまう。返礼品競争の本質的原因も、「非居住者からの寄付の奪い合い」にあると見るべきだ。
それだけに、一時的な起爆剤としては一考の余地があるとしても、ふるさと納税(実は税じゃない)を常態化させるのは、国家運営の本質を損なうところとなるだけに、もはや廃止を検討すべき時に来ていると考える。
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | 財政、社会保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月13日

【宣伝】『芳華』

本日日本で公開される中国映画。これがなかなか凄くてイイ。
1970 年代の中国、軍隊芸術団に青春を捧げる青年たち。 劉峰(リュー・フォン)は純朴で人助けが好きな好青年として仲間に信頼されている。何小萍(フー・シャオピン)は希望と 理想を持って芸術団に入団したが、農村出身であるため芸術団の先輩たちにいじめられている。激動の時代、恋の動悸、 人々が運命に翻弄され、思わぬ結末に...

1970年代の「文工団」を舞台とした青春群像劇あるいはラブストーリーなのだが、「文革」「バレエ」「中越戦争」という、ケン先生的には「盛り込みすぎでは?!」というくらい萌え要素満載となっている。実際、前半部と後半部では全く別の映画になってしまっている向きは否めないのだが、決して悪いわけではない。


『芳華』 馮小剛監督 中国(2017)

文工団というのは、要は軍の慰問部隊のことで、ソ連の赤軍合唱団に女性を加えたものと考えれば良いだろう。
ヒロインは父親を労働改造所に送られて、単身文工団に入団するが、それを理由にいじめられてしまうが、努力と根性で認められてゆく。かなり少女漫画の王道すぎる設定ではあるが、文革という背景があるだけに、簡単には片付けられない。
この文工団には多くの少女が所属していて、主に舞踊(中国バレエ)を担っている。舞踊の練習シーンも非常に美しく描かれているのだが、ロシア・バレエ好きのケン先生的には「やっぱソ連・ロシアの方がスパルタだな」などと思ってしまう。

後半に入ると、毛沢東の死を経て、中越戦争が勃発。解放軍の一部である文工団も当然動員され、ヒロインが恋心を抱いていた先輩は、団内で起きた不祥事から最前線送りにされてしまう。そして、二人はそれぞれ心身にダメージを受けて終戦を迎え、文工団は解散、改革・開放時代に突入してゆく。

前半の王道過ぎる少女漫画っぷりと、後半の戦争・戦争後遺症の描かれ方のアンバランスさが、なかなかに上手に融合され、描かれており、ハリウッド映画にありがちな「パンシャブの構造」(恋愛と戦争を一緒に描くな!)に(ギリギリのところで)ならずに済んでいる。

特に中越戦争で中国側がボコボコにされるシーンだけでなく、傷痍軍人やPTSDについてまで真正面から描いていることは、正直なところ良く公開が許可されたと驚きを禁じ得ない。実際、公開直前に当局のストップが掛かって、延期されたというのだが、果たしてどこが検閲・削除されたのか分からないくらいだ。この点だけでも、十二分に見に行く価値がある。当局による言論規制が強まっていると言われつつ、ここまでの表現は認められるということを確認できよう。

ただソ連・ロシア学徒的には、全体的に美しく描かれ過ぎており、わずかに「きれいすぎる」「ゆるい」不満が残ったことは否めない。ケン先生はどうしても中国をソ連・ロシアと比較して、いつも「(良くも悪くも)ゆるいなぁ」と思ってしまうわけだが、ロシアの場合、「幸せは悪」くらいの徹底した悲劇・悲観主義が全てを覆っていて(そこまで不幸にしなくてもといつも思う)、それに慣れすぎているからだろう。
そもそも文工団に可愛らしい女の子が沢山いて、「きゃっきゃ、うふふ」状態なのも、赤軍合唱団愛好者の私的には、「そうじゃないんんだ!!!」と叫びたくなってしまう。

ちなみに、私は日本公開の話を聞いて初めて本作を知り、「見てみたい」と微信にアップしたところ、友人から「(ネットの)QQで見られるよ」と教わり、「5元」をスマホ決済で払って、そのまま鑑賞した。中国語字幕があるので、半分くらいは意味が取れる。いやはや、中国は超便利である。いささか味気ないとは言えるが。
posted by ケン at 00:00| Comment(4) | サブカル、音楽、アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月12日

紙幣刷新をめぐるあれこれ

【渋沢栄一の新1万円札 韓国で批判的報道】
 新たな1万円札の肖像に日本経済の近代化に貢献した実業家の渋沢栄一が採用されたことについて、韓国メディアでは、「渋沢は、日本が戦前に朝鮮半島の経済を奪い取った象徴的な存在だ」などと批判的な報道が相次いでいる。
 5年後をメドに刷新される日本の紙幣のうち、1万円札の肖像に渋沢栄一が採用されたことを受け、韓国・聯合ニュースは「渋沢は日本が戦前に朝鮮半島の経済を奪い取った象徴的な存在だ」と伝えた。報道では、渋沢が設立した銀行が1900年代のはじめ、朝鮮半島で日本の軍事的な圧力を背景に渋沢の肖像が描かれた紙幣を流通させ、「恥をかかせた」と指摘している。
 また、保守系の大手紙・朝鮮日報は「過去の歴史を否定する安倍政権の基調が反映されたとの解釈もある」とした上で、「日韓の摩擦を激化させるとの見方も出ている」と伝えている。
(4月10日、日本テレビ系)

新帝即位に合わせて様々なプロパガンダが仕組まれている。世界各国で階級対立や民族対立などが先鋭化する中で、デモクラシーの伝統がない国では政治的求心力と国民統合を維持するために権威主義化が進んでいる。日本もその一つである。
今回の紙幣刷新もその流れの中にあるわけだが、どうにもセンスが悪いし、発想が古すぎる。
まず韓国や北朝鮮の国民感情に油を注ぐような選択肢を故意に選んでいることだ。財務官僚や日銀官僚が「知りませんでした」では済まされず、政治統制を担う自民党の意向も踏まえて、「敢えて渋沢を選んだ」と考えるべきだろう。逆をいえば、「渋沢でなければならない」理由はなく、この点でも恣意性しか感じられない。ただでさえ日韓関係が史上最悪と呼べるまでに悪化しつつある中で、敢えて火に油を注ぐ理由が分からない。一体誰が得するのだろうか。

国内的にも、渋沢は日本初の労働者保護法であった「工場法」の制定に反対した急先鋒であり、その主張は「工場法なんぞ制定されたらオレたち経営なんてできない!」というものだった。同法は小工場は適用除外だった上、今読むとスカスカな内容に思われる代物だが、そんな法律にも徹頭徹尾反対した悪徳ブルジョワの典型だった。つまり、渋沢は階級弾圧の急先鋒だったわけで、戦後日本が志向した「階級和解体制」の象徴としては最も不適当なものであることを意味している。論を一歩進めるなら、この渋沢を日本銀行券の象徴に据えることは、階級和解の破棄を内外に示す意図があると見なすべきなのだ。
にもかかわらず、NK党や社民党からそうした批判が出てこないのは、連中もまた階級意識を喪失していることを意味しており、戦後和解体制に取り込まれて階級政党あるいは階級代表としての役割を忘れ果てていることを示している。

現行の福沢諭吉もまた「侵略主義者の側面」を持っていたことは確かだが、同時に「アジア革命の支援者」としての側面も持っており、何よりも基本的には教育者であったことから、まだ「議論の対象」で済まされたわけだが、渋沢については議論の余地はない。
一部では渋沢の「道徳経済合一論」を支持する向きもあるが、これはこれで現代日本のブラック企業に蔓延する「家族型経営」などの論拠になっており、安易に評価すべきではない。

こうした「近代の偉人」を銀行券のデザインに据えることは、どうしても政治的問題と切り離せない。それだけに、時の権力者(政権党や官僚)の主観が入りやすく、国民的評価が分かれやすい人物は、国民統合の維持という観点から除外すべきだ。
個人的には、どなたかが主張しておられたが、世界的英雄である三船敏郎や高倉健などではダメなのだろうか。三船敏郎にすれば、世界中のファンが収集してくれるだろう。なんと言ってもカッコイイことが肝心である。
歴史人物も悪くはないのだが、聖徳太子は存在自体が否定される始末だし、足利尊氏の肖像画も否定されてしまって、現在では採用が難しくなっている。

さて、もう一点は「今さら紙幣かよ?」というものである。
中国で現金を使わない生活を送っているケン先生からすると、今さら紙幣にこだわる日本の統治者の頭の古さに疑いを覚える。日本政府が進めるべきは、非現金決済の導入加速であり、その方がはるかに効率的だ。
この話を始めると、また長くなってしまいそうなので今回は止めておくが、紙幣に固執する財務省、日銀の旧弊こそ、日本の衰退と時代不適合を示すものとなっている。

そういえば、私が「インフレ進めたいなら、まず五万円券や十万円券を導入して、一円玉を廃止すべきでは」と提案して、若い財務官僚に鼻で笑われたのはもう十年以上前になる。何というか、どこまでも愚かな連中である。

【追記、04/13】
ある方が教えてくれたが、2000年代のある時期に財務省内で10万円札の発行がひそかに検討されたことがあったとのこと。つまり、私の見立てはそう外してはいなかったのであって、改めて高慢ちきなヤクニンどもに対する憎悪がわいてきてしまう。
posted by ケン at 00:00| Comment(11) | 財政、社会保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月10日

英軍、野党党首写真を標的に射撃

【英軍、野党党首写真を標的に射撃 ネットに動画流出】
 英軍の兵士が最大野党、労働党のコービン党首の写真を標的にして射撃を練習している動画がインターネット上に流出し、国防省が調査を始めたと英メディアが3日報じた。メイ首相が2日、コービン氏に対し、英国の欧州連合(EU)離脱を巡り互いに納得できる合意案を模索するための協議を呼び掛けたばかりで、波紋が広がっている。
 動画には空挺部隊所属の軍人とみられる4人が射撃をする様子が映っている。アフガニスタンの首都カブールで撮影されたとされる。国防省の広報担当者は「全く容認できない。軍が求める(行動の)水準を大きく下回っている」と批判した。
(4月3日、共同通信)

いろいろな面で英国は末期症状の模様。
暴走する民意、その民意を制御できない、あるいは民意を反映できない議会。
そして、政党を敵視する軍部。
戦前の日本とは異なるが、大まかな症状ー議会政治あるいは議会制民主主義の機能不全が顕在化しつつあることを示している。
だからどうというわけではなく、我々はそういう時代に生きていることを自覚しなければならない。
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | ロシア、中国、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする