2017年09月16日

また戦力の逐次投入−学校事務支援員

【学校事務支援員3600人=いじめ対応で弁護士派遣―文科省要求】
 文部科学省は30日、2018年度予算概算要求を発表した。一般会計総額は前年度当初予算比9.9%増の5兆8380億円。教職員の多忙化を改善するため、事務を手助けする「スクール・サポート・スタッフ」をまずは大規模な小中学校などに3600人配置する。弁護士を派遣し、いじめ問題について助言する「スクールロイヤー」事業も実施する。サポート・スタッフは保護者ら地域の人材を非常勤で採用し、学習プリントのコピーや授業準備などを手伝うことを想定。関連経費15億円を計上した。弁護士は、専門的立場から教員と保護者の間に立っていじめ対応に関するアドバイスを行う。全国10カ所でモデル事業を行うため、5300万円を盛り込んだ。
(8月30日、時事通信)

学校の業務量を減らすのではなく、かと言って事務員を増員するのでもなく、事務「支援」員を、3万6千人ではなく、3600人追加するという。ゲーマー的に言い換えるなら、最低でも現役の2個師団が必要とされているところに、後備兵どころか未訓練の民兵を3個大隊で済ませるという話だ。
ちなみに現在、全国に約1700の自治体があるが、大きさに関係なく均等に振り分けた場合、1自治体に2人の「事務支援員」が配される計算でしか無い。学校数で言えば、全国に約3万1千の小中学校があるが、9校に1人しか配置できない計算で、砂漠に水をまくような話になっている。

業務を減らさずに「バイト入れてやるから我慢しろ(9店舗に1人だけ)」的な文科省の対応自体、国家のブラック性を表している。
本来であれば、単純に業務量を減らし、授業外の教員の仕事を減らすことで、労働環境の改善と授業のクオリティ・アップの可能となる。それには、本来業務ではない部活動や学校行事を全廃し、クレーム対応や集金などを学校事務員に任せることが不可欠となる。だが、それらの改革はあまりにもコストが掛かりすぎるため、労働基本権がごく部分的にしか認められておらず、ストライキも打てない教員にあらゆる仕事を押しつけている。

記事にある「スクールロイヤー」も、実際には市場価格よりもはるかに安い報酬となると思われるが、果たしてその役を引き受ける弁護士が、特に地方にいるとは思えない。いかにもヤクニンの机上の空論だ。いかにも「何もしないと文句言われるので、
何かやっているように見せないと」という感じの仕事だ。

しょせん文科クオリティと評価せざるを得ない。
posted by ケン at 13:00| Comment(3) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月15日

アルチンボルド展 2017

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アルチンボルド展 国立西洋美術館にて9月24日まで 

ハプスブルク家、特にルドルフ2世に寵愛された宮廷画家で、マニエリスム期(ルネサンスの次代、16世紀後半)を代表するジュゼッペ・アルチンボルドの展覧会。
リアルな果物、野菜、動植物、本などを寄せ集めた肖像画(寄せ絵、騙し絵)で知られるが、日本では「知る人ぞ知る」レベルで、私などは澁澤龍彦先生に熱狂していたため興味を持っている。

大昔にウィーンの美術史美術館に行ったときにじっくりと眺めて以来だろうか。
実際に生の作品を見ると、印刷や画像で見るのとは全く質感が異なり、肖像画を構成する野菜や動物がいかにリアルに描かれているか驚かされる。絵の発想や構想といった想像力・創造力の部分と、観察や再現にこだわる科学力の部分の融合が、あまりにも見事なのだ。まぁ自宅に飾りたいとは思わないが。。。

その奇抜さから後世の人間からは精神異常を疑われたが、現実には単なる宮廷画家ではなく、帝室式典の企画・運営から衣装デザイン、庭の設計、楽器の開発まで携わった、いわばレオナルド・ダ・ビンチに匹敵する「科学者」だったことが分かっている。

なお、こうした寄せ絵、騙し絵のセンスは、100〜200年後の日本の浮世絵にも見られ、文化の爛熟期の見られる共通の何かなのかもしれない。

展覧会自体も、やはり他の著名な作家のそれほどには混雑しておらず、点数も多くないので、非常に見やすくなっており、お勧めしたい。
posted by ケン at 12:00| Comment(4) | サブカル、音楽、アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月14日

全くやる気の無い教職改革

【教員にタイムカード、長時間労働解消へ緊急提言】
 教員の長時間労働の解消に向けた対策を検討している中央教育審議会の特別部会は29日、タイムカードを使った勤務時間の管理や、事務作業を代行する専門スタッフの配置などを盛り込んだ緊急提言をまとめた。文部科学省は提言を受け、来年度予算の概算要求にあわせて具体的な対応の検討を進める。提言では、まず教員の業務を見直す基本として、校長や教育委員会に対し、すべての教職員の勤務時間を客観的に把握するよう求めた。その方策として、タイムカードや、ICT(情報通信技術)を活用して退勤時間を記録できるシステムの導入などを促した。文科省の2016年度調査では、タイムカードなどを使い、勤務時間を管理している小中学校は3割弱にとどまっている。
(8月30日、読売新聞)

教員にタイムカードを押させれば労働時間が減るとでも考えているのだろうか。どこまでもやる気の無い、というか教員を過労死させることしか考えていない連中である。
昨今、「働き方改革」などと称して公共機関や大企業では、夜9時とか10時になると自動的に消灯させたり、冷暖房を止めたりするということが行われているが、現実の業務は全く減っていないため、自宅やネットカフェで作業を続けたり、消灯下や冷暖房が止まっている中で会社に残り続けて残業するものが増え、むしろ健康被害を悪化させているという(産業医の証言もある)。

教員も同じことで、仕事量を減らさずにタイムカードを押させても、退勤したと見せかけて残業することになるだけの話で、むしろ形式的には「退勤した」ことになるため、教育委員会としては「個々の教員が自主的に作業しているだけ」と言い逃れる根拠を持てる仕組みになっている。つまり、タイムカードや一斉消灯は、資本側の弁解でしかなく、実態としてはむしろブラック化を促進してしまっている。

教員の勤務時間に占める部活動の割合は10〜20%に上り、これに学校行事とクレーム対応を合わせると軽く30%を超える。日本における教員の平均勤務時間は週約55時間で、この30%を削除すると38時間になって、OECD諸国平均となる。これにより、勤務時間に占める授業関連の割合は5割超に達するが、これはまだOECD平均の65%には届かない。つまり、授業の質を高めるためには、事務作業の大半を廃止するか、事務員に委ねる必要がある。
文科省などでは非正規の事務員を雇用して一部代行させる案が浮上しているものの、これはこれで官製ワーキングプアを増やすだけの話で、実は別の問題を生じさせる。
とはいえ、まずは最低限、部活動と学校行事を全面廃止しなければ、教職員の労働環境は何一つ改善されないことは間違いない。些末な改革など何も寄与しないであろう。

教職のブラック化の大きな原因の一つは、教職員組合の機能不全にある。例えば、欧州の教職員組合は、学校や教育委員会等と交渉して、仕事や作業の一つ一つについて「教員がやるべきもの」と「教員がやる必要の無いもの」に分類しているが、日本ではこうした交渉は一切されておらず、学校や教育委員会が要求するまま教職員が全ての作業をやらされている状態にある。
日教組などに労働者意識があるのであれば、今すぐにでも全面ストライキを行って、部活動と学校行事とクレーム対応の全面廃止を要求すべきだが、彼らには全く階級意識がなく、労働組合の意義も理解していないため、産業報国会と同様、当局の補助機関に成り下がっている。

現状では教職員の労働環境が改善される見込みは全く無いが、それは教育の質をさらに低下させると同時に、教員のなり手がなくなるだけの話で、特攻と玉砕で戦力と労働力をすりつぶしてしまった戦時中の指導部と全く同じ過ちを犯している。

バカばっか!

【9月15日追記】
なお、欧州では授業が終わると教員が生徒を追い出して教室の鍵を閉め、午後5時になると校長が校門の鍵を閉めて帰ってしまうので、物理的に残業などできない仕組みになっている。日本でも1980年代くらいまではこうした傾向も見られたというが・・・・・・
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2017年09月13日

総力戦体制とは何だったのか・下

前回の続き)
ここで冒頭の伯父上の話に戻るが、総力戦体制の掛け声に比して、政治指導者や軍幹部が「総力戦の何たるか」を理解していたかと言えば、相当に心許ない。先の野砲の他に、いくつか象徴的な例を挙げておきたい。

例えば、日本の航空機開発は、性能第一主義で、それも極端な攻撃力偏重で生産性は殆ど考慮されなかった。
最も有名な零戦の場合、戦闘機の空気抵抗を少なくするために、鉄板を接合するために打ち付けられたリベットの頭を一つずつ削る作業を行っていたが、これは熟練工が1機ずつ相当な時間をかけて行う必要があり、恐ろしく効率の悪いものだった。
また、被弾面を小さくし、生産資材を減らすために、航空機自体のサイズの極小化が図られたが、これにより同時に投入できる労働者の数が少なくなった他、組み立てなどに際しての些少なズレも許されなくなり、生産管理(質の維持)が難しくなった。
エンジンについても、軽量化と極小化が図られ、そして低オクタン燃料を前提としたノッキング防止性能を持つ「水メタノール噴射法」が1939年に開発、搭載されるようになったが、非常に複雑な構造を持ち、膨大な生産時間を要するところとなった。
こうしたことが積み重なった結果、戦争中に海軍が失った約2万7100機のうち、戦闘による喪失は1万350機だったのに対し、戦闘外の自然消耗は1万6750機と全体の61.8%に及ぶに至った。つまり、欧米の標準的な発想では、零戦は兵器というよりも工芸品に近いもので、量産することを想定した設計とは言えなかった。

そして、問題の本質は、基礎工業力の低さにあった。日本製のエンジンは、同時期の他国主力戦闘機のそれに比して10〜20%も出力が低かった。例えば零戦二一型のエンジン栄一二型は940馬力だったのに対し、英国のハリケーンMk1が1030馬力、Mk2で1280馬力、半世代前(戦間期)のソ連製イリューシン−16ですら1100馬力、零戦二一型と同世代のミグ−3は1350馬力あった。エンジン出力の低さを補った上で、他国機以上の攻撃力(旋回性能、重武装、航続距離)を追求した結果、極めて特殊な、つまり生産コストの高い機体整形となり、同時に機体重量を極限まで減らすために防弾装備、通信機、救命装置などを撤去するところとなっている。
また、当時の日本は石油精製技術も低かったため、高オクタン価の航空燃料を独自で精製できず、アメリカから輸入していたが、日米関係の悪化によって困難になり、上記の特殊な技術を搭載したエンジンを開発した。結果、量産も品質管理も難しくなり、熟練労働者の召集も相まって、カタログスペックからほど遠い低品質の機体を作り続けるに終わった。

もう一つは、大量生産制に移行できなかった点である。上記のような特殊技術満載の機体が量産を拒んだこともあるが、そもそも日本には自動車産業を始めとする、大量生産のための技術的蓄積が無かった。
大量生産の要諦は、部品と作業工程を規格化し、熟練労働者の必要や作業労働者の数を最小限に止めるところにある。ところが日本では、日米開戦の直前まで工場内請負制度に基づいて一機ずつ熟練労働者の手作業でつくられていた。しかも、同じ陸軍や海軍内の戦闘機や爆撃機でも殆ど互換性がなく、戦場で故障すると現地の整備兵が手作業で部品を改造するなどして誤魔化すほかなかった。アメリカ戦略爆撃調査団の報告では、ある時期の日本海軍の航空機の作戦有効率は20%だったとしているが、これは生産された機体の5機のうち1機しか実戦で使えなかったことを意味する(USは80%)。
日米開戦後ですら、ベルトコンベアー式のような大量生産への移行は遅々として進まず、例えば三菱を見た場合、1944年末までに組立工程のベルトコンベアー化を実現させたのは、全国17工場のうち2箇所に過ぎなかった。

人的資源の面でも大きな問題があった。第二次世界大戦ではどの国でも軍隊指揮官=将校が問題となったが、特に日本とドイツでは顕著だった。例えば、日本陸軍の兵科将校の数は1939年の6万7千人が1945年には25万人に膨れあがったが、兵員数もまた124万人から600万人を超えるに至った。つまり、将校一人に対する下士官兵の数は、約17人から25人へと増加している。同時期のアメリカが12人から8人へとむしろ減少させていることは非常に対称的だろう。また、将校全体に占める現役将校の割合は、39年の36%から45年の19%へと低下している。
なお、ソヴィエト赤軍を見た場合、大粛清前の陸軍の将校数は約40万人、うち4万人以上が粛清されたと見られ、1939年段階では38万人程だった。それでも独ソ戦が始まると、あっという間に士官が不足、最終的には全国に100カ所以上の士官学校が設置され、年間3万人以上の養成体制が組まれた。これに対し、日本の陸士は1944年2月入学の60期生でも1824人に過ぎなかった。

現実には、日華事変の緒戦から「士官不足」が指摘されていた。1937年7月の盧溝橋事件に端を発する日華事変は全面戦争となり、38年中には保有する 34 個師団のうち24 個師団が中国戦線に配備され、その動員兵力は23万人、事変発生からの累計だと73万人に達し、日本本土(内地)には1個師団しかいないという状況に陥った。これらの多くは、予備役兵で賄われたが(常設師団で42%、特設師団だと後備兵が66%)、特に小隊長、中隊長クラスの指揮官が圧倒的に不足した。現役士官の不足は予備役士官によって充当するわけだが、とにかく定数を満たすために根こそぎ応召した結果、特設師団の中隊長の中には58 歳の老人がおり、小隊長の殆どは大正期の 1 年志願兵(中卒以上等の学歴を持つ者は費用自弁で志願すると3年現役のところ1年で許され、試験に合格すると予備士官になれた制度、1928年廃止)出身だった。そのため、現地の大隊長や連隊長からは「せめて大隊の 4 人の中隊長のうち 1 人、12 人の小隊長のうちの 1 人くらいは、現役を回してくれ」などという悲痛な訴えが相次いだ。
『華中作戦―最前線下級指揮官の見た泥沼の中国戦線』を著した佐々木春隆は、士官学校、歩兵学校を出た後、1943年に華中戦線の特設師団に中隊長として赴任するが、小隊長は歯科医出身の予備士官、見習い少尉、ベテラン曹長の三人で、使い物になったのは曹長の予備小隊長だけだったが、いかんせん下士官は下士官なので扱いが難しかった旨を回顧している。

これは、もともと少数精鋭主義を謳っていた日本の軍事思想にも原因が求められるが、大正期の山梨・宇垣軍縮などで士官学校の定数が激減されたことも影響している。例えば、陸軍士官学校の卒業人数を見ると、1919年で489人いたものが、1928年には225人、1932年でも315人、1936年でかろうじて388人という有様だった。例えば、1938年段階で中国戦線に張り付いている陸軍23万人で考えた場合、将校と下士官兵の理想割合を1:15と想定すると、1万5千人からの士官が必要になる計算だが、陸士の育成ペースでは40年もかかる計算で、まるで現実的で無かったことが分かる。
この「非現実性」の穴を埋めたのは、一年志願兵制度に替わる幹部候補生制度(甲種)で、日華事変勃発までは年間4千名が採用されたものの、修業期間は10カ月で任期は一年、満了後は予備役に入り民間に戻るというもので、軍事技術者として十分な水準を満たせるものではなかった。
結果、1939年1月時点で陸軍兵科将校の少、中尉の約7割が一年志願兵、幹部候補生出身の応召となり、終戦時には兵科将校25万人のうち20万人以上が幹部候補生となった。なお、水木先生の『総員玉砕せよ!』を読むと、主人公のいる大隊で現役士官は大隊長一人だけのように思われ、非常に興味深い。

上記のようにただでさえ貴重な兵科将校も、「捕虜厳禁」「退却禁止」「自決強要」「玉砕」「特攻」「交替、休養なし」などの要素によって、戦局の悪化に伴って加速度的に消耗を促進させていった。この点でも、日本の戦争指導が戦力の刷り潰しを前提とし、長期戦や総力戦を想定したものでは無かったことが指摘できる。
なお、1945年4月に大本営が各軍に配布した「国土決戦教令」は、決戦時に軍部隊の後退を禁止するだけでなく、傷病者を後送することも禁じている。

同じく総力戦体制の構築を目指したドイツやソ連と比較する余裕は無かったが、あの世で伯父上に尋ねるまでもなく、当時の政治指導者や軍幹部が「総力戦とは何か」を理解していたとは思えない。様々な資料を読めば読むほど、「御先祖方は一体何がしたかったのか」と疑問が増えるばかりである。

【参考】
『近代日本軍事力の研究』 山田朗 校倉書房(2015)
『第二次世界大戦の起源』 A・J・P・テイラー 講談社学術文庫(2011)
『未完のファシズム』 片山杜秀 新潮選書(2012)
『井上成美』 井上成美伝記刊行会(1982)
『ノモンハンとインパール』 辻密男 旺史社(2000)
『華中作戦―最前線下級指揮官の見た泥沼の中国戦線』 佐々木春隆 光人社(2007)
「日本軍の人的戦力整備について―昭和初期の予備役制度を中心として」 長野耕治、植松孝司、石丸安蔵 防衛研究所紀要第 17 巻第 2 号(2015)

【追記】
1943年の日本陸軍二等兵の給与は6円だったが、銃後の家族の生活保障として「留守宅給与」が給付された。だが、それは応召前の給与の3分の1でしかなかった。例えば、当時の小学校教員の平均給与60円で計算した場合、支給額は20円でこれを本人と留守宅でほぼ折半された。実際には他にも手当がつくので、家族が受け取るのは20円程度だったものの、夫が召集された家族は困窮するのが普通だった。ちなみに当時の公定米価は10kgで3円36銭である。これに対し、ドイツの場合、この留守宅給与に相当する所得補償が、応召前職の給与の85%もあり、さらに児童手当などもあったため、銃後の夫人は「亭主元気で留守が良い」状態にあったという。ちなみに米英は45~50%だった模様。この辺にも日本とドイツの総力戦に対する考え方の違いが良く表れている。
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2017年09月12日

総力戦体制とは何だったのか・上

1941年7月に海軍省が「対米開戦を辞せず」を決定した際(そして南部仏印進駐)、航空本部長だった伯父は「こんな航空戦備で対米戦などできるわけがない」「長期戦をどう戦うつもりなんだ」と大臣に噛みついたという。資料を読んでいると、子孫としては、「伯父上おやめください」と背中に飛びつきたくなるほど真に迫っている。

先の「航空人事から見た日本の戦争運営について」で書いたように、日米開戦時の日本海軍の常用航空機定数は3019機で、運用に必要な搭乗員は3445名だったが、海軍所属の搭乗員は全3615名に過ぎなかった。このうち勤務2年以上の熟練搭乗者は49.5%だった。だが、42年末までに2300人からの搭乗員が失われ、熟練搭乗員の割合は22%にまで落ち込んだ。開戦時の米海軍と海兵隊が保有していたのは約4千機、同6千人だった。独ソ開戦前のソ連に至っては、航空機1万2千機に対し、2万人からの搭乗員を用意していた。
つまり、日本海軍は「緒戦で負けたら再起不能」という軍備しか用意しておらず、それで米英と戦争を始めてしまったことになる。伯父上がキレるのは当然だったが、当の海軍幹部たちは「アメリカと戦争することを前提に国家財政が傾くほどの予算をもぎ取ってきたのに、戦争できませんとは言えない」というのが本音だった。

実際、国家財政に占める軍事費の割合は、満州事変直前の1930年で28.5%、日華事変前の36年で47.6%、全面戦争突入後は38年で77%、41年で75.7%となっていた。
にもかかわらず、中国戦線では事変勃発から1年半後の1939年には前線部隊の約半数が補給不足に陥り、「攻勢不可」と認識された。

『ノモンハンとインパール』の著者で両戦役に砲兵として参戦した辻密男は、ノモンハン事件に際し、満州のハイラルから馬匹で200kmの距離を1週間かけて改造三八式野砲を運び、実戦では何の役にも立たなかった旨述懐している。
この1907年に制式化された改造三八式野砲は敗戦まで現役だったわけだが、次世代式の九〇式野砲は(1930年)は生産数200門、最新式となった九五式野砲は320門でしかなかった。この他に九一式十糎榴弾砲があり、こちらは生産数1200。なお、日本の歩兵師団の砲定数は36門で(75mmが24門、105mmが12門)、重火力師団(四単位編成)で48門だった。
制式野砲だった九〇式がわずか200門しか生産されなかったのは、必ずしも工業力のせいではなく、重量の問題から「馬匹牽引できない」「でも牽引車も無い」という理由だった。そのため馬匹牽引可能な軽量の九五式が開発されたものの、性能的には「改造三八式よりはマシ」というレベルに低下してしまった。

これに対し、ソ連の1939年式УСВ(76mm野砲)は約1万門、42年式ЗИС−3(同)に至っては10万門以上が生産されている。狙撃兵師団の野砲定数は、時期によって内容が異なるが122mmや152mm砲を含めて60門が基本だった(例えば76mmが16門、122mmが32門、152mmが12門)。
炸薬量を考えれば、赤軍の火力は日本軍の優に2倍以上あったわけだが、当時の日本陸軍は「日本の一個師団はソ連の二個ないし三個師に相当する」と豪語していた。一体どのような計算をすれば、そのような結論が出るのか、あの世で御先祖(一人は重砲兵学校長、一人は関東軍情報将校)に聞く必要がある。
ドイツ軍が「ラッチュ=バム」と呼んだことで日本のヲタクにも知られるZIS-3野砲は、発射速度で日本軍の九〇式の2倍(最大25発/分)を誇った。だが、その開発理由は前モデルのUSVが「生産コストが高く、納期が遅い」というもので、コストと納期を3分の2に縮めた上に、性能も向上させている(現代の中東・アフリカ紛争では現役、グルジア紛争やウクライナ内戦で使用されたという話もある)。

ここで「総力戦体制とは何か」を考えてみたい。
第一次世界大戦は、各国の軍事技術者や政治指導者の予想に反し、大規模かつ長期化を余儀なくされ、国家の工業力と経済力をフル稼働させて軍事生産すると同時に、国民大衆を肉体的にも精神的にも戦争に駆り立てる必要が生じた。また、政治社会的には、戦争の長期化と被害拡大に伴い、前線部隊の士気低下と国民大衆の不満増大が問題となり、厭戦気分や反戦運動・サボタージュへの対処が大きな課題となった。
戦争自体は、ロシアとドイツの軍事的敗北に起因する革命によって終了するが、共産主義ソ連の成立と、ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約以降の慣例(領土権、主権と内政の不干渉)を無視したヴェルサイユ条約の締結、さらに植民地体制の動揺(民族解放運動の激化)と世界恐慌によって、「軍事力による国際秩序の再編は不可避」という認識が、特にドイツ、イタリア、日本において共有されていった。
ソ連はソ連で「資本主義帝国による、干渉戦争に次ぐ侵略は必ず行われる」という認識を有していた。具体的にスターリンは「米英の支援を受けた日波同盟が東西から挟撃してくる」と予想し、早急なる戦時体制の確立を目指して、重工業化、軍部粛清、大軍拡に踏み切ることになる。

「次なる世界戦争」もまた、一次大戦以上の超規模かつ長期化が予想されたため、総力戦に向けた継戦能力と軍事生産能力の向上と大規模動員を可能とする国家体制の構築が求められた。これが「総力戦体制」となる。
英米仏に比して経済的、産業的基盤の弱い日独伊は、国際的影響力や経済力の脆弱性を軍事的優越によって補正し、あるいは覆そうという意図を持って、市民的自由を制限しつつ、広範な国家動員体制を築いて、重工業化と産業基盤の強化を目指した。

日本の場合、「日満支」のブロック経済化を実現し、自給自足体制を確立、軍需工業の拡充を目指し、その主敵は米英ソであった。石原莞爾は、1920年代半ばには次大戦の決戦戦力が航空機になることを予測、1937年には開戦までに生産数にして年1万2千機が必要と指摘したが、それは前年実績の10倍の数だった。だが、現実には日米開戦の41年でも5千機を達成するのが関の山だった。しかも、実際に開戦したのは、米ソではなく、「差し当たっては武力衝突を回避すべき」中国が相手だった。

もっとも、仮に中国との全面戦争を回避したとしても、当時すでに経済力で1位と2位にあった米ソを相手に、海軍は世界最大の艦隊を持つアメリカ、陸軍は世界最大の兵力を有するソ連と対手とするという想定自体「あり得ない」ものだった。1936年6月に改定された「帝国国防方針、帝国国防に要する兵力、帝国軍の用兵綱領」は、仮想敵を「米国、露国を目標とし、併せて支那、英国」としたが、何度見ても正気の沙汰と思えない。この点もあの世で伯父上に問い糾したいところだ。

GNPを見ると、日華事変が始まる1937年で、米8334億ドル、ソ連3980億ドルに対し、日本は1587億ドルに過ぎない。
特に日本が1936年1月にロンドン海軍軍縮条約を脱退し、自ら建艦競争を激化させたことで、直接的な軍事力整備(象徴的なところでは戦艦大和)に巨額の予算が掛かるようになり、基礎工業力(潜在的戦争遂行能力)のベースアップに割く予算と資源が少なくなり、刹那的になっていった。
そして、1937年に日華事変が勃発すると、直接軍事費(戦争経費)が膨大となり、諸外国からの借款や投資が滞るところとなって、資金調達が困難となり、国内や植民地からの収奪を強化するほかなくなったのである。同時に、軍事産業を支える熟練労働力を次々と戦時召集してしまい、大量生産技術が未整備の中、生産兵器のクオリティも低下する一途となった。
つまり、帝国日本は「世界最終戦争」(石原)に備えて総力戦体制を確立しようと試みたが、始めたばかりのところで自分から「世界戦争」を始めてしまったのだ。
以下、続く
posted by ケン at 12:55| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月11日

自分で足下に地雷を埋めるバカ

【山尾議員離党、愛知7区は「白紙」 候補擁立に民進県連】
 民進党愛知県連の大塚耕平代表は9日の記者会見で、離党した山尾志桜里衆院議員(愛知7区)に代わる独自候補を擁立するかどうかについて「現時点では全くの白紙。党公認候補を失ったことは痛手で、大きな影響がある」と述べた。9日の県連幹事会では、山尾氏が務めていた党県連政調会長の後任に重徳和彦衆院議員(愛知12区)が決まった。大塚氏は会見で「党所属だった議員の問題で騒がせ、有権者におわびしたい」と陳謝した。地元の有権者に対し、県連として説明する必要があるとの考えも示した。山尾氏は既婚男性との交際疑惑が週刊誌に報道され、離党した。大塚氏には8日、「申し訳ない」と連絡があったという。
(9月9日、朝日新聞)


国会議員てものは、地雷原の上でダンス・マカブルを踊って、どれだけウケるかを競うようなところがあるわけだが、たまに自分で自分の足下に地雷を設置するヤツがいるわけデス。
人気取りのために人事を利用するような組織は長く続かない。
(中略)
氏には大きな瑕疵があり、人格的に問題を抱えている。さすがにここで述べるわけにはいかないが、遠くない将来、「センテンス・スプリング」に暴露される可能性が高い。
(2016.3.26、気分はもう梅雪?

1年半前にケン先生が指摘した「問題」は不倫行為のことではない。つまり、彼女にはまだまだ暴露されてしかるべき瑕疵があるわけで、それは政敵や当局に弱みを握られているのと同じで、すでに戦力として計算に入れるべきでは無いことを意味する。その彼女の「人気」に頼らざるを得ない時点で、民進党にはいかなる未来も無いと言えよう。

【追記】
村田氏も野田氏に替わる幹事長を山尾氏にしようとして思いとどまったという。それほど黒々している彼女は、直前まで自分が幹事長になれると思っていたらしい。民進党は人材的にも枯渇している。
posted by ケン at 12:50| Comment(0) | 政局ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月10日

極限状態で生き残るということ

古老が「戦場ではいいヤツから死んでゆく」というのは真実で、ソ連帰りとしても実感できる。ソ連史や昭和史を学んだものなら想像できるはずだ。

戦場では「勇敢な者」「義務感の強い者」「戦友を助ける者」から死んでゆく
勇敢な兵士は危険な任務を厭わず、自ら引き受けるため、砲火が最も苛烈なところに身をさらすだろう。義務感の強い兵士は、降伏したり、勝手に退却したりしないため、死ぬまで戦うだろう。そして、戦友を助ける兵士は自ら危地に赴くことになる。

飢餓に際しては「盗まない者」「身体を売らない者」「他人に食料を分け与える者」から死んでゆく。
他所から食料を盗み、食料を得るために自らの体を売ったり、自分の女房や子どもを売ったりし、飢える隣人に自らの少ない食料を分け与えたりするものは、結局のところ飢餓を乗り越えることができない。

虐殺時には「信念を曲げない者」「仲間を売らない者」「友人を助ける者」から死んでゆく。当局や殺戮者の言いなりにならないものは殺される。自分が生き残るために仲間を当局に差し出すのが合理的選択となる。友人を救おうとする者は当局に疑われるだろう。

後に苦難を生き延びた者が美徳を称揚するのは、彼らの生が死者の美徳の上に成立しているからに他ならない。同時に権力者が美徳を称揚するのは、極限状態におけるこうした美徳こそが最も権力に奉仕するためである。

日本で言えば、ガダルカナル、ニューギニア、フィリピン、インパール、沖縄、あるいは中国戦線や特攻作戦などがこれに値する。大震災もこれに含めて良いかもしれない。
そして、我々は次の世代にこれを教えるべき時が近づいている。
posted by ケン at 13:00| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする