2017年04月09日

ラビリンス&CC@ノルマンディー

この日はK先輩と朝10時過ぎから夜8時半までガッツリプレイ。
とはいえ、ビッグ・ゲームでは無く、GMT「ラビリンス」と同「コンバット・コマンダー」という「いつもの」コース。そろそろビッグタイトルが懐かしくなってきたので、希望が合えばGWには「パスグロ」をやってみたい(幼女戦記の影響か)。

まずはラビリンスから。オーソドックスな9・11シナリオで、今回も先輩がUS、ケン先生がジハーディストを担当。
一回目、ジハーディスト(ケン師)は最初の手札に「アヘン」があり、いきなりアフガニスタンに全てのセルが登場してしまう。その米国は泥沼の戦争になるのを避けて軍事侵攻を躊躇、その間に中央アジアにセルが浸透して、あっという間にイスラム革命が起きた上、核兵器が流出してしまう。殆ど麻雀の天和のような配牌だった。しかも第3ターンには、イベントで米本土にセルが登場した上、USが「反戦運動高揚」イベントで手札を失ったところに核テロが発動、サドンデスに終わった。殆ど配牌だけの勝利で、これではアメリカは誰がやっても為す術が無い。見れば1時間も経ってない。

気を取り直しての2プレイ目。今度は同じセットアップながら、「もしゴアが当選していたら」という仮想戦。違うのは、USが「柔軟路線」で始まることだけ。この場合、アメリカは軍事介入ができなくなるが、その反面、威信が上がりやすく、イデオロギー戦争を進めやすい利点がある。
ケン師は、今度もまず中央アジアを攻め、2度目で原理主義国化に成功、さらにまた核兵器が流出する。他方、USも順調に援助外交を進め、良いダイス目で早々にパキスタンと湾岸諸国を「良好」にする。互いに独自の進行で穏やかなプレイとなる。
ケン師は、米外交を放置して、米本土でのテロとイラクでの革命の二兎を追うが、イラク革命に失敗したところで、USがインドネシアとエジプトを「良好」にした挙げ句、「石油価格の高騰」により勝利条件を満たし、USの勝利に終わった。

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2プレイしても12時を回った程度なので、ランチしてCCに移行することに。
今回は追加シナリオセット「ノルマンディー」を試すことにした。CCでノルマンディー上陸作戦を再現しようという企画だが、確かに『プライベート・ライアン』や『バンド・オブ・ブラザーズ』を再現する流れとなった。

1シナリオ目は、オマハ・ビーチに上陸、内陸に進む米軍に対する独352歩兵師団の反撃。ボカージュ・ヘクスサイドだらけで防御効果は低いのに、視線だけは妨害する難しい地形。ドイツ軍の方が戦力的にやや勝っている珍しいシナリオだが、対する米軍も十分に強く、ガチンコの遭遇戦になりそう。今度は、K先輩が独軍、私が米軍を担当。
ドイツ軍は数的優位をもって三班に分けて平押し、射撃戦となる。いかんせん地形の防御効果が低く、米軍は厳しい守りを強いられるが、必要なタイミングで士気回復カードが来たので、何とか耐えていた。逆に独軍の弱い徴集兵を狙い撃ちにして、漸減を図った。全体的には、ドイツ軍が押してはいたものの、決定打が出ないまま、時間切れ、米軍の勝利となった。米軍は一カ所でも陣地が突破されていたら、挽回は難しかったと思われるだけに、やはり戦力の集中運用が重要だ。

2シナリオ目は、オマハ・ビーチにおける米軍のトーチカ攻撃。ドイツ軍は、いくつかのチーム(半隊)があるだけの超少数にもかかわらず、装備だけは重機関銃3丁、歩兵砲、迫撃砲と凄まじい火力を誇る。対する米軍は、兵力だけはふんだんにあるものの、肝心の火炎放射器や爆雷のような陣地攻撃兵器が水に浸かって使用不能な上、砂浜の砂丘に隠れている状態から始まる。トーチカの周りには鉄条網、塹壕の切れ目には地雷原という、見ただけで萎える配置。
特別ルールで、米軍は爆薬筒を持っており、防御施設に隣接してアクション「Demolitions」か「Command confusion」を使えば、その施設を破壊できるようになっている。だが、一度地雷原を除去した後、全くカードが来なくなり、近づいては十字砲火を浴びせられ、一方的に損害が増すばかりとなった。米軍は、トーチカ以外の地点は抑え、戦線突破に成功した部隊もあったが、肝心のトーチカは攻略できず、時間切れ敗北となった。

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3シナリオ目は、上陸前夜、カーン郊外に降下した英第六空挺師団のグライダー部隊による、カーン運河橋攻略。独軍は両岸を鉄条網と塹壕で固めた上、橋には歩兵砲を据え付けて待ち構えているが、肝心の守備隊は徴集兵がメインで、援軍頼み。英軍は、兵数は多くないものの、エリート揃い。
夜間シナリオなので、射撃の射程分だけ火力が減衰する上、移動コストも全て1高くなっている。
英軍は、開始早々射撃と移動を上手く組み合わせて橋に接近、白兵戦で砲台を占拠した後、陣地に残る独軍部隊の掃討を進め、対岸の塹壕も抑えた。ドイツ軍の援軍が出てきた頃には、英空挺は両岸の陣地を固めており、激しい射撃戦を繰り返している内に時間切れとなり、英軍の勝利に終わった。
英側のカード回りが良かったため、理想的な展開となったが、なかなかバランスの良いシナリオのようだ。この「成功」に味をしめた英軍上層部がマーケットガーデン作戦を考え出したのだろう。

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【参考】
・戦跡散歩−ノルマンディ上陸作戦〜オマハビーチ〜 
・戦跡散歩−ノルマンディ上陸作戦〜英空挺師団の作戦〜 
posted by ケン at 00:00| Comment(0) | ゲーム、囲碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月07日

今どきシャベルじゃなくて銃剣?

【中学武道に木銃使う「銃剣道」追加】
 文部科学省は2020年度以降に実施する小中学校の次期学習指導要領を31日付の官報で告示する。2月に公表した改定案に対するパブリックコメント(意見公募)の結果を考慮し、表記を改める予定だった「聖徳太子」や「鎖国」を一転して変えないことにした。中学校の保健体育で必修の武道の例としては、柔道や剣道など8種目に加え、木銃を使って相手を突く「銃剣道」を加えた。また、小学3〜6年で授業時間が増える英語を不安視する声も相次ぎ、文科省は18〜19年度を移行期間として各校の「総合的な学習の時間」を英語に充てる措置を検討する。パブリックコメントは改定案公表後の2月14日〜3月15日に実施され、9年前の前回告示時の約2倍にあたる1万1210件の意見が文科省に寄せられた
(3月31日、読売新聞)

「旧軍復活」云々という話はすでにされ尽くしているみたいなのでしない。
もともと本件は自衛隊員の天下り先確保が本筋の話らしいが、現実には教員免許を持つ銃剣指導員は2人しかいないというから笑える。それを「日本固有の武道」とゴリ押しし、文科省もGOを出してしまう辺り、相当に「終わってる」観がある。まぁ、将来的には配属将校制度も視野に置いているのかもしれない。

それはさておき、今どきスコップ戦闘術じゃなくて銃剣かよと。スコップにしておけば、ロシアから指導員を招聘して日露友好になるし、実用性の点でもはるかに有用で将来のパルチザン戦や革命戦に使えるかもしれないのに。

そもそも論で言えば、武術と武道の違いも論点になる。「敵を無力化する技術」である武術と、「武術を土台にした人間形成のための教育ツール」としての武道という具合に色分けできるが、果たして武道が人間性の形成に有用なのかと言えば、私的には想像もつかない。例えば、剣術が剣道になった途端に人間性を形成する教育手段になったとはとても思えない。現実には、近接戦闘技術としての剣術が廃れ、剣道に鞍替えしたものの、十分な効果が認められないため、著しく衰退していると見るべきではなかろうか。
柔道プレイヤーが20万人を切ってさらに減少を続けているのも、「道」としての中途半端さ(戦闘技術としても人間形成にも不十分)に起因していると思われる。まして、銃剣「道」とは一体何なのか皆目見当もつかない。
であれば、将来の対中あるいは対米パルチザン戦や内戦を見据えて、現実的な近接格闘術としてのスコップ戦闘術を学校で学ばせ、自宅に金属製スコップを常備させる方がよほど実用的だ。倫理的な話は別にして。

ちなみに、従来の武道は、柔道、剣道、弓道、相撲、空手、合気道、少林寺拳法、長刀(なぎなた)の8つ。まともに指導員を確保できるのは柔道と、せいぜい空手くらいまでらしく、それすらも厳しいのが実情で、全く現場の実情と合っていないという。民間に需要が無いにもかかわらず、文科省のイデオロギー政策と一部の業界団体が結託して官営で武道をやらせようとするあたり、著しく倒錯的だろう。

余談になるが、銃剣を付けたいがために、いまだに自衛隊の小銃は固定銃床になり、折曲式が国際標準の中にあって化石化してしまっているという。この辺の白兵戦信仰も、いまだ旧軍の旧弊から抜け出ていないことを意味している。あるいは、自国民を敵に想定していることの証かもしれない。
色々な意味で、ダメっぽさ満載だ。

【追記】
ケン先生は、学校の武道授業も部活動も全面廃止論者です。学校はあくまでも社会生活に必要な知識を学ぶところであって、それ以上を目指すべきではありません。
posted by ケン at 12:04| Comment(8) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月06日

拡散する外国人差別

【スポーツ報知が「おわび」を掲載 照ノ富士へのヤジ「モンゴル帰れ」の見出しで】
 モンゴル出身の大関・照ノ富士が大相撲春場所14日目(3月25日)に関脇・琴奨菊に勝利したが、この取り組みについて観客のヤジ「モンゴル帰れ」という言葉を見出しにしたニュース記事に対し、外国人に対する差別的な「ヘイトスピーチだ」といった批判が相次いでいる。問題となっているのは、「スポーツ報知」が3月26日に配信した記事。見出しは「照ノ富士、変化で王手も大ブーイング!『モンゴル帰れ』」となっている。
(3月27日、The Huffington Postから抜粋)

【差別発言、3割が経験=外国人居住者に初調査―法務省】
 法務省は31日、日本に住む外国人を対象とした差別被害に関する初の実態調査の結果を公表した。過去5年間に外国人であることを理由に差別的なことを言われた経験が「よくある」「たまにある」と答えた人は合わせて29.8%だった。誰に言われたかを複数回答で尋ねたところ、「見知らぬ人」が53.3%と最も多く、「職場の上司や同僚・部下、取引先」が38.0%、「近隣の住民」が19.3%と続いた。金田勝年法相は記者会見で「外国人に対する不当な差別的言動、扱いがあってはならない」と強調。「相談窓口の周知や人権啓発活動に適切に取り組む」と述べた。
 ヘイトスピーチ(憎悪表現)を伴うデモや街宣活動を見聞きした人の受け止め(複数回答)は、「不快に感じた」が39.2%、「なぜそのようなことをするのか不思議に感じた」が28.4%、「日本人や日本社会に対する見方が悪くなった」が15.9%の順となった。このほか、外国人であることを理由として、住宅への入居を断られた(39.3%)、就職を断られた(25.0%)、同じ仕事をしている日本人より賃金が低かった(19.6%)といった実態が明らかになった。
 調査は外国人居住者の多い群馬県太田市、東京都港区、川崎市など16都道府県の37市区に住む18歳以上の1万8500人を対象に、昨年11月14日から12月5日まで、郵送で実施。有効回収率は23.0%だった。 
(3月31日、時事通信)

大阪府立体育会館では「モンゴル帰れ」が木魂したらしいが、市中でも外国人差別が顕在化、拡散する傾向を見せている。東京新聞の記事によれば、一橋大学の学生らが行ったアンケートでは、相当数の留学生が差別や暴力を受けたと回答している。公共の体育館でヘイトスピーチが乱舞し、スポーツ新聞の見出しにもなるくらいなのだから、市中に差別が溢れるのは当然かもしれない。外国人技能実習生に限れば、もっと悲惨な結果が出るかもしれない。

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差別感情は、本質的には程度の差はあれども、誰しもが抱えうるものであり、存在そのものを否定するのは無意味だ。だが、それだけにひとたび表出を許し、顕在化が始まると止めるのが難しくなってしまう性質がある。関東大震災に際しての虐殺事件や、大きなところではドイツにおけるホロコースト、ロシアにおけるポグロムなどが挙げられる。
比較的豊かで安定した社会では、差別は表出しにくいが、豊かさが失われ不安定化する中にあって、差別感情もまた表面化しやすい環境が醸成されつつある。同時に、権力者は社会的不満を逸らすために差別を助長する傾向があり、これはほぼ例外なく行われる。
民族の平和的共存を国家原理としたユーゴスラヴィア連邦が、凄惨な民族紛争と内戦の末に分裂、瓦解したのは四半世紀前のことに過ぎない。

とはいえ、特効薬のようなものが存在しないことも確かで、対処策としては、法律によって差別を禁じて、可能な限り表面化を抑止すると同時に、教育や社会的感化を通じて民族共生の普遍性を啓蒙していく他ない。
だが、帝国時代には同化政策を推進し、戦後は多民族共生を拒否あるいは無視してきた日本では、あらゆる外国人施策が遅れており、包括的な差別禁止法すら無く、多文化共生教育は自治体(教育委員会)の裁量に委ねられているため、差別が蔓延する環境はすでにできあがっていると見て良い。
今後、さらに留学生や技能実習生の増加が計画されているだけに、非常に危険な状況と言えよう。
posted by ケン at 12:22| Comment(4) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月05日

領土交渉は粛々と、だが急ぎ足で

【第2次大戦の結果認めよ=平和条約交渉でロシア外相】
 ロシアのラブロフ外相は週刊紙「論拠と事実」とのインタビューで、北方領土問題を含む平和条約締結交渉について、「日本は第2次大戦の結果をはっきりと認めなければならない」と従来の主張を繰り返した。同紙が28日、インタビュー内容を報じた。ラブロフ氏は平和条約締結後の色丹島と歯舞群島の引き渡しをうたった1956年の日ソ共同宣言の有効性は認めた。しかし「日本は平和条約の締結を拒否し、(北方)4島について領有権の主張を試みた」と述べ、交渉が進展しなかった原因は日本にあると指摘した。ラブロフ氏は北方四島での共同経済活動について「集中的に作業している」と述べつつも、「事業の実現に当たってはロシアの法律に反してはならない」と強調した。 
(3月28日、時事通信)

北方領土問題については長いこと、何度も触れており、新事実や見解も無いので繰り返しになってしまう。同問題については、若干のニュアンスの違いはあるいしても、ロシア側の主張は一貫している。
1945年8月10日あるいは14日に日本政府が行ったのは「ポツダム宣言受諾表明」だが、これは軍の作戦行動を中止させる法的根拠にはならず、それは休戦条約の締結をもって保証される。せいぜいのところ、休戦協定の締結交渉中は作戦行動が自粛される程度の話だろう。その休戦条約の締結が、1945年9月2日に先送りされたため、それまでの間、ソ連軍の侵攻を止められなかっただけのことだった。ただ、歯舞と色丹は、休戦協定の成立後にソ連が占領しているだけに違法性が問われる。故にソ連は、1955年の日ソ共同宣言で二島の「引き渡し」を約束したのだ。
その日ソ共同宣言には、

【賠償・請求権の放棄】
ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。
日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、千九百四十五年八月九日(ソ連の対日参戦の日)以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国、その団体及び国民のそれぞれ他方の国、その団体及び国民に対するすべての請求権を、相互に、放棄する。

とある。つまり、休戦条約が成立する前にソ連が占領した国後島と択捉島に対する請求権を、日本はすでに放棄しているわけで、北方四島を要求すること自体、本来は日ソ共同宣言(正規の条約)に違背しているのだ。
馬鹿というヤツがバカな話

北方領土に関する日本政府の主張は、
「サン・フランシスコ平和条約で我が国は、千島列島に対する領土権を放棄しているが、我が国固有の領土である北方領土はこの千島列島には含まれていない。」
(内閣府HP、外務省HP)

というもの。だが、日本政府が第二次世界大戦の終戦から平和条約交渉の頃までは、択捉や国後を千島と認識していた。ところが、「ダレスの恫喝」を経て、日ソ共同宣言の後に方針を転換して「北方4島は千島ではない」と強弁し始めた。
その動かぬ証拠として、1951年11月6日、参議院の「平和条約及び日米安全保障条約特別委員会」における楠見義男議員(緑風会)の質問に対する政府答弁がある。

草葉隆圓(外務次官):歯舞、色丹は千島列島にあらずという解釈を日本政府はとつている。これははつきりその態度で従来来ております。従つて千島列島という場合において国後、択捉が入るか入らんかという問題が御質問の中心だと思います。千島列島の中には歯舞、色丹は加えていない。そんならばほかのずつと二十五島でございますが、その他の島の中で、南千島は従来から安政條約以降において問題とならなかつたところである。即ち国後及び択捉の問題は国民的感情から申しますと、千島と違うという考え方を持つて行くことがむしろ国民的感情かも知れません。併し全体的な立場からすると、これはやつぱり千島としての解釈の下にこの解釈を下すのが妥当であります。

言い換えると、「択捉・国後は国民感情的には千島じゃない」かもしれないが、従来の政府見解や地理学上の通説から判断すると、「千島じゃない」と強弁するには無理がある、ということなのだ。

戦後の日本が独立すらままならないギリギリの状態の中で、当時の政府が、「歯舞、色丹だけでも返還されれば御の字」と考えていたことが(痛いほど)分かる。
質問した両者は、ともに農水畑の議員で、根室近海の漁業従事者にとって、歯舞と色丹の返還、そして日ソ漁業協定の締結は、火急の問題だった。
それは、日ソ共同宣言となって具現化されるが、その頃には、米ソ対立が決定的となり、アイゼンハワー政権のダレス国務長官が、重光葵外相に対して、「日本が、二島返還でソ連と妥結した場合、沖縄は返還しない」と圧力を加えるに至った。
米帝に恐れをなした日本外務省が考えついた言葉が「北方領土」だった。
(「ダレスの呪縛」戦闘教師ケン)

日ソ共同宣言の北方領土に関する部分(平和条約締結後に二島引き渡し)を反故にした日本政府は、米帝からの圧力に屈したことを隠すと同時に、自らの立場を正当化するために、「ソ連・ロシアによる不法占拠」「四島返還後(潜在主権の確認)に平和条約締結」などと主張し、「北方領土返還運動」なるプロパガンダを始めた。そのプロパガンダには50年を経た今日でも毎年10億円以上もの予算がつぎ込まれ、それが利権化、「北方領土マフィア」を形成している。
官製絵はがきに見る政府の欺瞞) 

つまり、ロシア側の主張は日ソ共同宣言から何も変わっていない。ただ、ソ連崩壊から新生ロシア勃興期の混乱の最中に力技で「買い取る」チャンスがあったものの、日本側の強欲と吝嗇がその機会を逃してしまった。
今となってはその目は完全に失われ、宗主国アメリカとともに衰退期に入った日本は今後外交交渉力を低下させてゆくことが確実な情勢にある。一方で、日本は中国、北朝鮮、韓国と敵対的あるいは非友好的な関係にあり、日本国内でもタカ派路線が支持される傾向にあるだけに、今後も外交関係が改善される見込みは無い。結果、極東地域で日本は孤立状態にある。
他方、ロシアにしてみれば、直接的には最大の脅威はNATOであるが、潜在的には中国こそが最も危険な対手であるだけに、可能な限り日本とは友好関係を築いて、対中カードにしたいところだ。だが、それもプーチン大統領の意向に依存しているところが大きく、仮にメドヴェージェフ前大統領のような親中派が再び大統領になった場合、どうなるか分からない。

それだけに、プーチン氏が大統領である間に、領土紛争を解消し、早急に平和友好条約を締結することが不可欠であろう。今も昔もそうだが、北方領土問題とは日本の国内問題なのだ。

【参考】
・プーチン氏訪日首脳会談を評価する 
・北方領土マフィアなるもの 
posted by ケン at 12:24| Comment(7) | 外交、安全保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月04日

最高裁のくせに穏当だ?

【GPS捜査 令状なし違法 異例の立法措置言及 最高裁大法廷、初判断】
 裁判所の令状なしに捜査対象者の車両に衛星利用測位システム(GPS)の発信器を取り付けた捜査の違法性が争われた連続窃盗事件の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は15日、「GPS捜査は強制捜査に当たる」との初判断を示し、令状なしに行われた捜査を違法と結論づけた。また、現行法上の令状で対応することには「疑義がある」として、GPS捜査のために「立法的な措置が講じられることが望ましい」と指摘した。
 15裁判官全員一致の結論。刑事裁判で最高裁が立法措置に言及するのは極めて異例。警察庁はこれまでGPS捜査は令状の不要な任意捜査との立場だったが、同日、全国の警察に対しGPS捜査を控えるよう通達を出した。
 大法廷は判決で「GPS捜査は行動を継続的、網羅的に把握するもので、個人のプライバシーを侵害しうる」と指摘。憲法が保障する「私的領域に侵入されることのない権利」を侵す強制捜査に当たり、「令状がなければ実施できない」と判断した。また、「公正担保の手段が確保されていない」などとして、現行法の定める令状で実施することに疑問を呈した。
 違法性を争っていたのは、平成24〜25年、店舗荒らしなどを繰り返したとして窃盗罪などに問われた建築業、岩切勝志被告(45)。捜査員らは令状を取らずに車両計19台に発信器を取り付けた。
 上告審で弁護側は「位置情報はプライバシーの中でも保護の必要性が高く、強制捜査に当たる」と主張。検察側は「プライバシー侵害の程度は小さく、任意捜査。現行法の令状でも実施できる」としていた。被告は犯行の事実関係は認めており、1、2審の懲役5年6月という結論は最高裁も支持した。
(3月16日、産経新聞)

権力(行政)に限りなく従属し、「国家の三位一体(行政、立法、司法)」を最重視する最高裁判所が、珍しく人権に配慮した判決を下している。
この問題はちょうど一年前に扱っているので、一部再掲しておきたい。
基本的には、技術革新に対して法整備が追いつかず、技術運用が先行してしまって人権侵害の疑義が生じている、という状態にある。現行憲法には、プライバシー権の記載こそ無いものの、13条で「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」が明記され、移動の自由もある。だがこれらは、「公共の福祉に反しない限り」という前提があるため、刑事捜査によるプライバシーの侵害は一定程度認められている。それだけに、従来型の追跡調査は合法だが、GPSは著しくプライバシーを侵害するから令状が不可欠という、地裁の判断は、人権原理上は妥当だが、現行法の中ではやや無理があったと思われる。

とはいえ、位置情報は個人の重大なプライバシーであり、治安当局が無制限に把握できるとなれば、それはもはや旧東側諸国の「監視国家」と何ら変わらないものになる。現状は、技術的に可能で、実際に利用が進んでいるが、一切の法規制や制度整備がなされていない状態にあるだけに、「警察の暴走」が危惧されるのもまた当然なのだ。日本の警察がその気になれば、携帯電話を始め、市内の防犯カメラやNシステムを利用して、全市民の位置情報を把握するだけでなく、あらゆる通話やメールを傍受することも可能だからだ。そして、それは一部実現されている。

まずは最低限、裁判所の令状を取り、一定の条件下で事後にでも令状開示を可能にする法規制が必要だろう。だが、日本の裁判所は99%以上の確率で捜査令状を出している現状を考えると、果たして一定の歯止め・人権擁護になるのか疑問はぬぐえない。とはいえ、警察の独自判断で、無制限にGPS捜査が許されてしまっている現状は、早急に改善する必要があろう。
GPS捜査は法整備を

私のスタンスに変わりは無い。技術が進化する一方で、警察の人的資源には限りがあり、GPS捜査そのものは肯定すべきだと考える。先の記事でも書いているように、ヒューマン刑事による尾行や張り込みは令状無しで合法なのに、同じ用途で行われる機械を駆使しての尾行、位置確認は非合法というのは、公平性の点でも時代性の点でもそぐわない。考え方によっては、常に刑事に尾行されている状態より、GPSで単に位置情報が知られている方が、警察にとっても容疑者にとっても「マシ」かもしれないのだ。
ただ、現状のように法律を始めとするルールが存在しない状態で、GPS捜査を全て合法化してしまうと、警察にノーチェックの「使い放題」を許すことになり、理論上は全市民の位置情報を常時入手できることになってしまう。かつてなら人員上の制限で、自然と捜査範囲が制限されていたが、技術進化によって、位置情報取得も盗聴も個体識別も無制限に可能になっているだけに、今まで以上に人権とプライバシーに配慮する仕組みをつくらないと、容易に監視社会化してしまうだろう。
posted by ケン at 12:27| Comment(4) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月03日

こども保険の無理筋

【自民・小泉進次郎衆院議員ら「こども保険」創設、幼児教育無償化の財源確保提言】
 小泉進次郎衆院議員ら自民党若手議員でつくる「2020年以降の経済財政構想小委員会」は29日、新たに社会保険料を上乗せして徴収し、幼児教育無償化の財源を生み出す「こども保険」の創設を柱とする提言を発表した。30日に党「財政再建に関する特命委員会」に報告し、次期衆院選の公約への反映を目指す。こども保険は厚生年金の場合、平成29年度で15・275%の社会保険料について個人、事業者とも当面0・1%分を上乗せして徴収し、約3400億円の財源を捻出。将来的に0・5%分まで引き上げて約1・7兆円を確保し、幼児教育と保育を実質無償化する。小泉氏は記者会見で「世代間公平の観点からも、こども保険の導入は画期的なことだ」と語った。党内には教育無償化の財源として「教育国債」を発行する案もあるが、小泉氏は「未来への付け回しになるのではないか」と批判した。
(3月29日、産経新聞)

先進国の中で子育て費、教育費の私的負担率が際だって高い日本にあって、「教育無償化」が与野党問わず叫ばれている。経済格差、貧困が広がり、政府内の汚職も顕在化する中にあって、自民党といえども有権者の歓心を買わないと権力が維持できないという判断に傾きつつある証左なのかもしれない。
とはいえ、現実には財政赤字がますます深刻化している中にあって、新規財源の確保が大前提となるが、その選択肢としては増税か国債しか無かった。だが、増税では選挙が戦えず、国債は借金を増やすばかりということで、トリッキーな解答として出てきたのが「保険」だった。「社会保険なら増税よりは受け入れられるだろう」との判断だったようだが、原則を逸脱した選択肢が支持されるかは微妙だ。

まず社会保険の目的は、万人が共有するリスクを分担し、支え合うことにある。ところが、育児や教育はリスクではなく、共産主義国家でも無い限り「共有財産」でもないため、少なくとも自由主義国家では「支え合う」対象たり得ない。
また、保険料の納付者の負担と、保育や教育の対象となる子どもや保護者の利益が一致しないことも、「保険」としては成立しがたい。人が健康保険に加入するのは、自身の健康を害した時のリスク管理のためであるし、私的なガン保険などに加入するのはガンのリスクを考慮しての判断であり、年金にしても自身の老齢リスクに備えてのものだ。そのリスクの対象はあくまでも自分であり、せいぜいのところパートナーや子どもにまでしか拡大されない。他人の子どものために保険料の納付を要求、しかも年金保険料に上積みしての納付が強要されるというのは、保険の原理原則に反しており、本来成立し得ない。言うなれば、自動車を保有しない人に自動車保険の納付を強制するような話だ。

育児、教育費の公的負担を拡大するならば、やはり税で賄うのが原則となる。保育と就学前教育だけならば、本来であれば消費税1%分で済む話なので不可能なものではない。だが、保険料で賄えきれない社会保障分の税による立て替え負担が急増しており、その額は10年前に年5千億円を超え、今では1兆円を超えてさらに増える見込みになっている。社会保障制度の底に大穴が開いて、税金で補填しているものの、全く間に合わず、逐次投入している状態にある。国家予算一般歳出における社会保障費を除く政策経費は、2008年の25.5兆円に対し、3%の消費増税を経ても、同17年で26兆円にしかなっていない。つまり、ここでさらに増税をしてみたところで、社会保障制度の穴を埋めない限り、継続的に育児、教育費分を確保するのは難しいのだ。

その社会保障の赤字を減らすためには、現役層が納める保険料を上げるか、高齢層の受給費を減らす他ない。だが、少子高齢化によって年齢構成が逆ピラミッド型になっていることで、高齢層の需要を賄うためには現役層の負担を急増するしかないが、それは納付率の低下や所得減による消費低迷を招くことになる。その一方で、高齢層の受給費を減らす、具体的には年金支給額の引き下げや医療費窓口負担増、あるいは還付制の導入は、高齢者層を敵に回し、選挙で大敗することが確実なだけに、政治的に「無理」になってしまっている。この意味で、日本は「民主主義であるが故に」財政破綻が必至の状態にある。

個人的には、社会保障費の給付を抑制しつつ、税と国債を半々程度で賄うのが良いと考える。国債については、教育制度の無償化による市場効果や受益が将来反映されることを考慮すれば、原理的には許されるが、償還のメドが立たない現状では大規模に発行することが良いのかどうか、判断が難しい。まぁヒトラーやルーズベルトのように「ガンガンいこうぜ!」を選択するなら、それでも良いし、強く反対はしないが、あまりお勧めできない。
posted by ケン at 12:38| Comment(2) | 財政、社会保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月02日

わが友イワン・ラプシン

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『わが友イワン・ラプシン』(Мой друг Иван Лапшин) アレクセイ・ゲルマン監督 ソ連(1984)

フルスタリョフ、車を!』『道中の点検』のアレクセイ・ゲルマン監督作品。もともと寡作の監督で、ほとんど10年に一本のペースでしか撮っていない。『道中の点検』は1970年に撮影されて、85年に公開されたが、本作も84年に完成したものの、「公開保留」とされて、ペレストロイカが始まった後の86年に公開された。当時は大人気を呼び、観客動員1200万人を達成したという。



ストーリー的には特筆することはない。1935年、ある地方都市にいる殺人鬼を追う刑事課長の日常なのだが、事件も捜査も「日常」の1ページに過ぎず、あくまでも一ソ連市民の日常に焦点が当てられている。つまり、全く刑事物ではなく、ストーリーに抑揚があるわけでもなく、淡々と流れてゆく。変に期待して見ると、「どこから本編が始まるんだ?」などと思ってしまうだろう。

興味深いのは1935年という設定で、この年は同32〜33年の大飢饉を乗り越えて、37年の大粛清が始まる前の「スターリン期の中で最も幸福な時代」に当たる。ミハルコフ監督の『太陽に灼かれて』も同時期だ。

その撮影と演出は、ゲルマン監督らしい独特のもので、最小限のカット、コマ割でドキュメンタリー風のリアリティを重視している。舞台の一つである警察の官舎と言っても、刑事課長が普通のアパートの一室に複数の同僚と同居しており、お世辞にもきれいとは言えない。街並みも「いかにもソ連の田舎街」な感じで、いかにも侘しく、貧しいところが良く再現されている。車も市電もボロボロで、「これならまだ日本の方がマシだったんじゃね?」と思えてくる(汚らしさが違う)。内容云々よりも、このリアルな生活感の再現が「公開保留」にされた理由なのではないかとすら思える。だが、ソ連帰りとしては、これらの映像がどこまでも懐かしく見えてしまう。

『フルスタリョフ、車を!』もそうだったが、登場人物はムダに大声でがなり立て、その会話は成り立っているのかも微妙な感じで、かと思えば突然ブラスバンドが鳴り始めるという、奇妙なカオス的祝祭空間がある。ロシアの庶民のパーティーや食事に同席すると、そのうるささや無秩序に閉口させられるが、まさにそれだ。これに比べると、ミハルコフ監督の作品は貴族的すぎて、ロシアっぽさが足りない。

決して恐怖に怯えていただけでは無い、スターリン体制下のソ連市民の日常を、ドキュメンタリー風に撮っている本作は、今日だからこそなお貴重だと言える。
なお、アレクセイ氏の父ユーリのいくつかの作品を原作としているそうだが、原作では主人公以外の登場人物の大半が獄死、戦死しているというから、その視点で見るとまた色々な感慨が沸いてくる。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | サブカル、音楽、アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする