2017年05月10日

柳広司先生の投書

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4月30日の朝日新聞投書欄の一つ。新聞に投書とは、柳先生も古風な手法を使われて乙ですな。中野学校出の伯父を持つ身として『ジョーカー・ゲーム』はもちろん読んでマス。

Dの魔王 
忠義とロイヤリティA補 

共謀罪の恐ろしさについては、すでに何度も指摘しているが、この機会に一部再掲しておきたい。
共謀罪の恐ろしさは、ソ連やナチス・ドイツのケースを挙げるまでも無く、日本の戦前に見ることができる。1910年の大逆事件では、明治天皇暗殺計画が発覚し、宮下太吉ら5人によるものであったにもかかわらず、幸徳秋水を始めとする24人が死刑に処せられた。当局は当初から5人の計画であったことを知っていたが、大逆罪を拡大適用した。事実が判明したのは戦後のことだった。なお、幸徳が死刑になったのは、公判で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と述べたことによるとされている。

1923年の朴烈事件では、関東大震災直後に治安警察法による予防拘束(まだ事件を起こしてもいないし、計画も発覚していない段階での検束)を受けた朴烈が、拷問を受けて、愛人の金子某との「皇太子襲撃計画」について、特高の誘導尋問に同意したと見なされ(自白すらしてない)、大逆罪が適用され、死刑宣告された。後に恩赦で無期懲役になったものの、戦後の1945年10月末(8月15日でも9月3日でも無い)まで刑務所に収容されていた。
自由主義と決別するとき

治安維持法が最初に審議された際、当時の若槻禮次郎首相は、

「世聞にはこの法律案が労働運動を禁止するがためにできるやうに誤解しておる者があるやうであります。此法律が制定されますと、労働者が労働運動をするについて、何等かの拘束を受けると云ふやうに信じて居る者があるようであります。斯の如きは甚だしき誤解であります。」

と答弁、川崎卓内務省警保局長は、「乱用など云ふことは絶対にない」と断言している。

現行の日本政府は、治安維持法を施行し国民弾圧をほしいままにした帝国政府の後継であり、安倍内閣は「明治の日」に象徴されるように戦前の帝政を称賛しているだけに、菅官房長官の言は全く信用に値しない。「一般の方々が対象になることはあり得ない」というのは原案の話であり、数年後には改悪されて「合法左翼」や「合法リベラル」が対象にされるのは明白だろう。本ブログが閉鎖される日も遠くないかもしれない。

そもそも期間が一カ月もない程度のオリンピックを開催するために、時限立法ならともかく恒久法で市民を「一網打尽」にできる法律が必要であると主張している時点で、政府の本音がどこにあるか分かるだろう。そもそも東京都と政府は、「東京は世界で最も安全な街」を最大のセールスポイントにしていたはずだ。
いつぞやの手口で楽しく弾圧

例えば、2013年の米ボストンマラソン・テロの場合、いまだに被疑者とテロ組織との関係は確認されず、計画と呼べるような計画書の類いも発見されていない。にもかかわらず、殺人などの罪状で死刑が宣告されている。この容疑者を、「テロ等準備罪」で取り締まれたかと言えば、まずムリだっただろう。

実際、治安維持法は「実際の適用が難しい」として適用緩和と対象拡大が進められ、戦前期の最大の悪夢となり、国民弾圧をほしいままに反戦・自由主義グループを一掃して、軍国と戦争に邁進する推進力になってしまったのである。
すでに先の刑事訴訟法改正で、通信傍受が大幅に緩和されたことを考えても、共謀罪と盗聴のコンボで「電話で冗談言っただけで逮捕」の環境が成立することだけは、覚悟しておいた方が良いだろう。
予備罪は立件が難しい

秘密保護法、通信傍受、共謀罪、予備罪等の組み合わせは、権力に巨大な暴力を付与するわけだが、日本の場合、森友疑獄や原発マフィアに象徴されるように政官業報の強固な腐敗テトラゴンが確立して、権力を相互に監視するシステムが存在しないため、巨大権力の暴走を抑止する装置が極めて脆弱なのだ。

例えば森友疑獄では、官邸と財務省が共謀して国家資産の不当な払い下げ(実質ほぼ無償)が行われていたことが判明したが、財務省はあらゆる関連文書の開示を拒否し、あるいは文書を廃棄して、一部では偽造している疑いすらある。この場合、背任罪、公務員職権濫用罪、財物侵奪罪、公文書管理法違反、虚偽公文書作成罪、証拠隠滅罪などに問われる可能性があるが、これらは今回の共謀罪から適用を除外されている。本来であれば、こうした「公共の利益を損なう重大犯罪」こそ共謀罪の対象にして、腐敗政治家や官僚を一掃すべきであるはずだが、それを自分の手で除外してしまうところに、今回の共謀罪の本来の意図といかがわしさが存在する。

森喜朗のように腐敗構造の頂点に立つ者が最高位の叙勲を授与されていることは、この国が自浄能力を失い、末期症状に陥っていることを象徴している。
posted by ケン at 13:03| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月09日

首相の解散権を制限したイギリス

【英首相、解散決断 経済堅調、高支持率背景に 「保守党圧勝」の可能性大】
英下院(定数650)は19日、メイ首相が欧州連合(EU)との離脱交渉を前に表明した前倒し総選挙の実施に向けた動議を、全議席の3分の2(434)を大きく上回る賛成522で可決した。総選挙は、高い支持率を維持する与党・保守党が圧勝するとの見方が有力。メイ氏は政権基盤を固め、「EU完全離脱」方針への反対論を封じ込めたい考えだ。
 採決では議席330の保守党と、229の最大野党・労働党の大部分が賛成に回った。反対は13で残りは棄権したとみられる。これにより5月3日解散、6月8日総選挙が決まった。メイ氏の報道官は19日、EUとの離脱交渉は総選挙後に開始すると表明した。
 英国では2011年の議会期固定法で総選挙は5年に1度と定められているが、動議可決で前倒しも可能としている。英スカイニューズによると、総選挙に賛成は68%で、反対の26%を大きく上回っていた。
 政治空白を懸念して解散総選挙を否定してきたメイ氏が方針を急転換したのは、議会の分裂が政治の安定を脅かしていると判断したためだ。その背景には、経済が堅調なことによる高い支持率がある。
 「(EU離脱を決めた)国民投票後に経済危機の予想があったが、経済成長率はあらゆる見通しを上回った」。メイ氏は総選挙を表明した18日、好調な経済が議会解散の決断につながったことを示唆した。英経済は昨年の国民投票以降も個人消費が堅調で、16年の国内総生産(GDP)成長率は1・8%と高い伸びを記録している。
 英BBC放送によると、保守党の支持率は43%で、強硬左派のコービン党首への批判が強い労働党の25%に大きな差をつけている。
 保守党政権への反発が強いスコットランドや北アイルランドで議席を増やせなくても、EU離脱派が多数のイングランドで保守党が圧勝する可能性が高いとも指摘される。メイ氏は大幅に議席を増やして「EU完全離脱」への交渉基盤固めをもくろむ。
(4月20日、産経新聞)

英国では2011年に「会期固定法」が制定され、5年毎に5月に総選挙が行われることが決められた。同時に首相の解散権が制限され、内閣不信任案の可決時と下院の3分の2以上の賛成で自主解散が決議された時のみ行使できることになった。それまでは、首相の助言により国王が議会を解散させる慣例だった(国王大権、慣習法)。

21世紀にもなってなお国王大権を議会で廃止する英国を、我々はどう評価すべきか。それまでの一般的な解釈は、「解散権は国王大権であって、首相が個人的理由などで議会や民意を無視して恣意的に行使(助言)することは許されない」というものだった。その意味で、従来の解散権は慣習とモラルに支えられていたが、大陸的な成文法に移行したとも言える。

こうした英国モデルを形式的に模倣した戦後日本では、解散権は憲法第7条の
「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。」
「三 衆議院を解散すること。」

に根拠を持つ。ところが、同第4条に
「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」

と規定されていることから、「首相の衆議院解散の決定を布告する」ことが天皇の権能という解釈が一般化している。その結果、慣習やモラルの基盤を持たない日本では、「解散権は首相唯一人に帰属する」という理解が一般化し、首相の一存で衆議院を解散できることになっている。
特に最近では、小泉氏の「郵政解散」、野田氏の「自爆解散」、安倍氏の「増税延期解散」など、必ずしも議会や民意に沿わずに、首相の政局的判断から解散権を行使するケースが蔓延している。

イギリスの場合、慣習とモラルに支えられているという前提がありながらも、「政権党に有利すぎる」「首相個人が恣意的に行使する恐れは否めない」などの否定的見解が政権党を含む大勢を占めたことを示している。
これはゲームで考えれば当然で、自分が有利なときに戦闘ダイスを振れる方が一方的に有利なのは言うまでも無い。野田氏のように、自分が最も不利なときにダイスを振るような愚かなプレイヤーの方が稀なのだ。

一般的には選挙が多いと、民意が反映されやすい反面、政治が不安定になりやすく、無関心層が増加しやすい問題がある。他方、選挙が少ないと政治的には安定しやすく、選挙時には有権者の関心が高まりやすいが、民意の反映度は低下する。
日本の衆議院の現状を見る限り、4年の任期がありながら、実際には3年毎に選挙が行われ、議員は常に次の選挙のことばかり考え、秘書ですら3年毎の失業危機ばかり気にしているのだから、ロクな人材が集まらないのは当然だろう。まして、自民党が50年以上にわたって培ってきた政官業報の腐敗テトラゴンが圧倒的な強度を誇る中で、議会解散権が自民党総裁に帰属しているという状況は、外見的には民主国家だが、内実は開発途上の独裁国家レベルにあると言える。

やはり英国モデルを導入した以上は、解散権改革についてもイギリスに追随するのが妥当では無かろうか。
posted by ケン at 12:31| Comment(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月08日

15年ぶり?GMT “Paths of Glory”

連休初日はK先輩にGMT 「Paths of Glory」の相手をしていただいた。何と言ってもロシア革命100周年であり、「幼女戦記」アニメ化記念でもある。
キューブリック先生の名画のタイトルにもなっている通り、第一次世界大戦の全容をカードドリブン化した作品で、名作の誉れも高く、制作から20年近く経った今でもそれなりにプレイされているようだ。通称は「パスグロ」。
とはいえ、アニメほどでは無いにせよ、それなりに新作が出ている中でなかなか手が回らないのが現実。こんな腐敗した業界の汚れ稼業なんぞ、さっさと足を洗って引退し、ゲーム三昧の日を過ごしたいと思うのだが、それにはまだ20年以上働く必要がありそうで、とてもそこまで生き延びられる気もせず、考えると憂鬱になりそうだ。

ケン先生も購入した当初に2回程度はプレイしたと思うのだが、それから15年近く経っているような気がする。今回確認したのも2001版のルールだったので、最新バージョンを読み直した。本ブログで紹介していないことを考えても、やはり最後にプレイしたのは2002年とか03年のことかもしれない。
第一次世界大戦のキャンペーンゲームは、日本でこそマイナーなものの、欧米では需要が高いようで色々選択肢がある。だが、やはりヘクスものにしてしまうとプレイ・アビリティが下がるようで、概ねプレイ可能性の疑わしいビッグゲームになっている。その点、本作は、エリア方式、「Point to Point」式、カードドリブンなどを組み合わせることで、「頑張れば丸一日でプレイ可能」なプレイ・アビリティを実現し、一種のデザイン革命を起こした作品でもある。
ただ古い記憶を辿ると、同社の「三十年戦争」と同じ、あるいは史実同様、「とにかく決着がつかず、ダラダラ続くゲーム」という印象は否めない。

今回初めての先輩が連合国、ケン先生が同盟国を担当。私の記憶では、連合国側は無難に対応していれば酷いことにはならないが、同盟国は勝ちに行くのが難しいというイメージだった。

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ドイツ軍は、「八月の砲声」イベントでリエージュを落とした後、その勢いでセダンも落とし、カンブレーの仏軍も排除するも、兵力不足で後が続かない。ブリュッセルも早々に陥落させ、英大陸派遣軍を撃滅するも、早くも戦線が延び延びになってしまう。
フランス軍は敢えて反撃せず、増援と戦力回復に努め、同時にロシア軍の動員や戦時体制の向上に努める。
ドイツ軍の初動は順調だったものの、やや動員が遅れ、戦時体制の移行も進まず、この点は連合国に後れを取ってしまう。
連合国は1915年に入ると、ルーマニア、続いてイタリアを参戦させるが、同盟国側のブルガリアの参戦は遅れ、南欧戦線の手当に戦力を割いたところ、ロシア軍にオーストリアを攻撃され、危険な状態に陥るが、ロシア軍も後が続かず、ドイツ軍の援軍によって押し返される。
15年の後半には互いに消耗戦モードに入って、ダラダラと殴り合いを続けてしまうが、同盟国側は、シナリオ毎の勝利条件的には「ギリギリ負けない」程度のVPを維持していたに過ぎなかった。1916年後半までプレイしたものの、同盟側は「戦線を維持しているだけ」の状態に陥り、時間の都合もあって投了した。

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同盟としては、西部戦線で大ナタを振るった後、返す刀で東部戦線のロシア軍を殴って大打撃を与えるというのが、一つの定石だと思うのだが、今回は独軍の動員が不十分だったことや、ルーマニア・イタリアの連合側参戦が早かったこともあって、思うようにはできなかった。とはいえ、イタリア参戦のタイミングで、イタリア軍を撃破して、半島のVP群を奪取してサドンデスに追い込むという手段もあったわけで、「一体全体、どのタイミングのどれが悪手だったのか」考え込んでしまう。

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やはり本作の同盟は難易度が高そうだ。もう少し研究して今年中にもう一回は再戦したいところである。
posted by ケン at 00:00| Comment(0) | ゲーム、囲碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月05日

メランション候補が訴えたもの

4月23日に行われたフランス大統領選挙は、四候補が得票率19〜24%の中にひしめくという大混戦に終わり、マクロン候補とルペン候補の2者が決選投票に進出した。だが、決選に進んだ二候補が獲得したのは全票のうち45%に過ぎず、しかも両者とも議会に支持基盤を持たないという点で、何重にも危うい状態が続いている。
中でも興味深いのは、当初「泡沫」扱いだった「極左」とされるメランション候補が得票率19%、700万票を獲得した点にある。一位のマクロン候補の得票は865万票に過ぎないことを考えても、フランス人らしい「分かりにくさ」が垣間見える。

社会党のアモン候補は229万票、6.3%の得票に終わっている。これは、フランス社会党のエリート化と、政権慣れして行政官僚との一体化が進み、保守党派との違いが殆ど見いだせなくなったことに起因していると考えられる。
もっとも、その意味では社会党員ながら無所属で出馬したマクロン氏が、より親EUと新自由主義色を前面に打ち出しており、エリート層を中心にかつてのサルコジ支持層を取り込んで勝利を収めている。

フランス社会党の凋落は、新自由主義的要素を取り込んだ「第三の道」路線の限界を示すものと考えられるが、マクロン氏の勝利は、同時に新自由主義がいまだ色あせていないことを意味している。
これを日本に当てはめて考えた場合、民進党の「嘘くさい左派色」と「必死に隠す新自由主義色」はいかにも中途半端な主張で、エリート層からも労働者層からも嫌悪される原因になっているとの仮説が立てられる。そして、むしろ「新TPP」「徹底した規制緩和」「市場開放」などの新自由主義を打ち出すか、そうで無いなら徹底した左翼色を打ち出すのが、合理的な選択となるだろう。

日本の不幸は、小沢自由党や「みんなの党」のような新自由主義政党が必ず政権に擦り寄って自滅していること、そしてNK党や社民党が中途半端に「良い子」になってしまって、社会主義やマルクス色を隠してしまっている点にある。
そこで、一部から「極左ブログ」認定いただいているケン先生としては、メランション候補の政策・主張を参考にして、旧式左翼に替わる新型左翼のモデルを考えてみようと思う。まず、メ候補の主な主張から。

「所得再分配機能の強化=大きな政府」
「フランスの国家主権強化、必要ならEU離脱を厭わず」
「週4日労働=週32時間労働制」
「移民賛成」
「脱原発」
「超規模財政出動、公的部門強化と公共投資拡大」
「年金支給開始年齢の引き下げ」
「NATO離脱、対外戦争反対」
「大統領権限の縮小=第六共和政」


つまり、マルキシズムに親和的な一国社会主義だが、コスモポリタニズムと国際主義は護持するという路線と言える。日本では、旧式左翼が週40時間労働制すらまともに主張できず、連合は訳知り顔で「労働時間インターバル制度」などを唱えている始末で、全て「死なない程度に働けるようにしよう」くらいの主張しかしていない。旧式左翼や既存のナショナルセンターが支持されないのは、政府や資本に遜りすぎて、労働者の権利を十分に主張できていないことに起因していると見るべきだ。
その他、細かいところも抜き出してみてみよう。

「金融取引への課税強化」
「大手銀行の経営責任追及」
「経営陣や株主の法外な報酬の規制」
「時短の実現による350万人の新規雇用」
「GDPの1%を文化と創造(芸術)に」
「音楽、映画、文化コンテンツを合法的に提供するプラットフォームを有するオンライン公共図書館の設立」
「給食、通学費、教材、文具などの無償化」
「男女平等を尊重しない企業に対する罰金と刑事罰、公共調達のアクセス禁止」
「代表機関(政治、行政)における女男間パリティ制度」


確かにやり過ぎ感満載で左翼ポピュリズム的主張が羅列されているわけだが、変に「現実=資本」に妥協して労働者の権利を主張しなくなったことが、日本を含む欧米の旧式左翼が沈む原因になっていることは確かだろう。程度の問題はあれど、我々はメランション候補に象徴される欧米の非従来型左翼に学ばなければならない。

なお、メ候補は決選投票に際してマクロン氏もルペン氏もどちらも推薦しないことを明言している。これもまた従来型左翼には見られなかった現象であり、興味深い。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | ロシア、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月04日

復興相交代だが?

【<今村復興相辞任へ>事実上の更迭 後任に吉野正芳衆院議員】
 今村雅弘復興相(70)=衆院比例代表九州ブロック=は25日、東京都内で講演し、東日本大震災について「まだ東北だったから良かった。これが首都圏に近かったりすると、甚大な被害があった」と述べた。被災者を傷つける発言と批判され、今村氏は同日、復興相を辞任する意向を政府・与党に伝えた。今村氏の発言直後に安倍晋三首相が「極めて不適切」と陳謝しており、事実上の更迭。首相は後任に吉野正芳衆院震災復興特別委員長(68)=福島5区=を充てることを決めた。
 今村氏は今月4日、原発事故の自主避難者に関し「本人の責任」と述べて撤回・謝罪したばかりだった。度重なる失言による閣僚辞任が政権への打撃となるのは必至だ。 今村氏は自身も所属する二階派のパーティーで講演し、発言は震災被害の大きさを説明する中で出た。安倍首相はその後のあいさつの冒頭で、「東北の方々を傷付ける極めて不適切な発言があった。首相としてまずもっておわびさせていただきたい」と陳謝した。
 ただ、今村氏は当初は辞任を否定。講演直後は記者団に「首都圏に近かったらもっととんでもない災害になっている、という意味だ」と述べて釈明。首相の陳謝後に改めて取材に応じ「本当に不適切な発言で、(被災地の)皆さまを傷付けたことを深く深くおわび申し上げる」と謝罪したものの、辞任に関しては「そこまでまだ及んでいない」と述べるにとどめていた。
 しかし、今村氏の発言には政府・与党からも反発が噴出。公明党の大口善徳国対委員長が記者団に「言語道断。本当に許し難い。政治家として自らのあり方、出処進退をよく考えるべきだ」と述べて事実上辞任を求めるなどの動きが重なり、辞任は不可避となった。
 今村氏は東京大卒業後、旧国鉄(現JR九州)を経て1996年の衆院選で初当選し、現在7期目。2016年8月の内閣改造で初入閣した。12年末発足の第2次安倍内閣以降の閣僚辞任は5人目。14年10月に小渕優子経済産業相と松島みどり法相が「ダブル辞任」。15年2月に西川公也農相、16年1月には甘利明経済再生担当相が辞任した。
(4月26日、毎日新聞)

今村氏だけでなく、磯崎内閣補佐官(前)、務台復興政務官、山本地方創生大臣など素晴らしい舌禍が続いているが、どれも東大出のエリートで、後3人は官僚出身、今村氏も国鉄官僚であり、恐ろしいまでの劣化ぶりを見せている。
エリートに舌禍が多いのは今に始まった話ではない。とはいえ、一党優位体制の固定化により危機意識=緊張感が薄まったことで、エリートの特権意識が「解放」されて露呈しているものと思われる。
もっとも、舌禍の水準も恐ろしく低下しているようだが、これは「東大を出て官僚になる層」の劣化ぶりと同時に、「官僚を辞めて政治家になる人種」の劣化を示しているのだろう。
内部にいる自分が言うのも何だが、今どき政治家になる官僚は、「省内にいても出世の見込みが無い」「偉そうな上司を見返してやる」などのルサンチマンを動機に政界に転じているものが大半であり、真っ当な理性の持ち主、あるいは自己を客観視できる人間なら民間に転じようとは思っても、政界に出ようとは思わない。政界で成果を上げるためには、多数派工作を始めとする人的コネクションを形成する政治的能力が不可欠だが、それは官僚に求められる資質とは別物だからだ。

新任の吉野氏は、中央エリートではなく、それなりに地元で苦労してきた人物で、人格的には悪くないらしいのだが、私の前ボスと同じ委員会だったので、委員会における低劣なヤジの数々が思い出される(野次っても人気があるタイプか)。非エリートではあるが、舌禍のリスクはまだ免れてはいない。
posted by ケン at 00:00| Comment(0) | 政局ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月02日

日本の低生産性の原因・補〜低士気について

先の稿で「みんなで頑張る」をモットーとする日本型組織が、結局のところは労働力の投入量に依拠した単純な人海戦術であり、労働力が頭打ちになった現在では、一人あたりの投入労働力を増やすことでしか現状を維持できなくなっている(超長時間労働)ことを説明した。

その結果、労働時間1時間当たりの国民総生産(GDP)は、2014年でスウェーデンが54.4ドル、フランスが60.3ドル、ドイツが58.9ドルである一方、日本は39.4ドルしかない。だが、この数字はサービス残業を含まないため、実際には35ドルか、それ以下かもしれないのだ。また、労働時間以外にも、日本型組織は欧米には存在しない「飲みニケ−ション」や社内行事が山ほどあり、サービス残業以外にもさらに組織に拘束される時間が長くなる傾向が強い。こうした拘束時間を含めれば、この数字は限りなく30ドルに近づくだろう。つまり、日本人の生産性は、3週間のバカンスをとるフランス人やドイツ人の半分しか無い。

別の見方をしよう。イタリアの年間労働時間は約1350時間であるのに対して、日本の名目上の労働時間は約1750時間。ただしこれはサービス残業が含まれない数値であり、現実の数値は2000時間に上ると考えられる(一説では2300時間)。このことは、日本人はイタリア人の1.5倍も働きながら、イタリア人と同レベルの収入しか得ていないことを暗示している。別の見方をすれば、一カ月のバカンスを取るイタリア人と、2日と連続した有給休暇を取ることも出来ない日本人が、同じ収入なのだ。むしろ「日本に生まれたことが不幸」と言えるレベルだろう。
一日の大半を会社で過ごし、夜12時に帰宅して朝6時には家を出て、休日出勤当たり前で有給休暇も取れず、ロクに残業代も支払われずに、子どもの教育費すら事欠くという生活環境にあって、御上や親からは「産めよ、増やせよ」と言われるのだから、生きることすら苦痛を感じてもおかしくない。

こうした結果、日本人の士気はエリートの知らないところで恐ろしく低下している。
エンゲージメントを研究する米国のタワーズワトソンの報告を見てみよう。エンゲージメントとは、エンゲージリングで思い出すだろうが、「繋がり、絆」を示すもので、社員の会社に対する愛着、貢献したい気持ち、あるいは積極的に関わりたいと思う気持ちを指す。これは、社員の積極性、自主性、創造性あるいは協同作業の効率に直結すると考えられている。
単純に言えば、誰しも好きな上司のためなら積極的に役に立ちたいと思うし、多少の無理は聞いてあげてもいいと思うだろう。だが、逆に嫌いな上司に対しては「死ねばいいのに」「失敗して脱落しろ」「言われたこと以外何もしてやらない」と思うのが情というものだ。

さて、同社が出した「2014年グローバル労働力調査」によると、日本でエンゲージメントレベルが高い社員は21%、ある程度高い社員は11%、低い社員は23%、非常に低い社員は45%であった。これに対して、アメリカは39%、27%、14%、20%で、調査平均は40%、19%、19%、24%だった。
つまり、日本では「会社のために自分も役に立ちたい」と考えている社員は32%しかいないのに対し、米国では66%、世界平均では59%いる。また、「会社のために貢献とするとかあり得ない」と考える社員が68%もいるのに対して、米国では34%、世界平均では43%だった。

貧困が増大し、いまや6千万人からの国民がフードスタンプを利用しているアメリカだが、企業内の士気は予想外に高いのだ。これに対し、表面上は内閣支持率が60%近くあり、政府調査(国民生活に関する世論調査)では「現在の生活に満足している」が7割にも達している日本では、社員の3分の2以上が「会社なんて死ねばいいのに」と思っている。

日本の場合、「愛社精神を育む」として長時間の集会や研修会が行われ、同時に望みもしない懇親会や社内イベントが山ほど開かれるが、これはソ連型社会主義国における政治集会、イデオロギー教育、パレード、スポーツ祭典などに相当するもので、やればやるほどトップの権威は向上するかもしれないが、末端構成員の士気・エンゲージメントはひたすら低下していくことを示している。
日本の学校が、ムダにイベントが多いのも、学校の権威向上には役立っても、実のところごく一部を除いて、大半の生徒の自主性や積極性を削いで、沈黙しながら「早く卒業して自由になりたい」と思わせている可能性が高い。

1991年8月、クーデターを受けて、エリツィン・ロシア大統領が共産党の活動を禁止した際、誰一人として抵抗しなかった故事が思い出される。

【追記】
他にも日本の生産性の低さは、祝日の多さと有給休暇の少なさに原因を求めることができる。詳細は、「公休増やすな、有休とらせろ!」を参照して欲しい。
posted by ケン at 13:05| Comment(9) | 労働、経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月01日

日本の低生産性の原因〜40年来の疑問

先日の勉強会で40年来抱いていた疑問の解答を得た。先に断っておくが、ケン先生も主宰者の一人だが、ソ連・東欧学の勉強会ではない。

小学生の頃、文化祭の準備をしていた時、自分の作業が終わったので「塾があるので帰ります」と宣言したところ、クラスの全員から非難され、屈服したことがある。自分としては、「お前らがダラダラおしゃべりしているから作業進まないんじゃねぇか、何で黙々と作業して早く終わらせた俺がお前らの作業を手伝わなきゃならねぇんだ!」という思いだったが、同級生の全員を敵に回す勇気は無く、従うほか無かった。私は小学生ながらこの非合理性と理不尽さに憤慨したものの、それを説明するだけの理論的背景は有しておらず、封印するほか無かった。あれから早や40年である。

実は、これこそ正に日本型組織、社会の典型で、仮に欧米の学校で起きていれば、誰も文句を言わなかったし、疑問にすらならなかっただろう。
問題の本質は、作業を終わらせられない生徒の非効率(能力の欠如ないしサボタージュ)にあるか、もしくはリーダーの管理能力(作業量の設定と割り振り)にあるのであって、欧米の企業ならまず労働者のクビを切り、それでもダメな場合は管理者のクビが切られ、作業方法と管理体制の改善が進められ、それによって生産効率の向上が図られる。この場合のクビは必ずしも解雇を指すとは限らないが、実質的には同じである。
ところが、日本型組織では、あらゆる問題が議論されずに放置され、理由も無く「みんなの責任(問題)」にされた挙げ句、精神論と人海戦術で解決するため、効率・生産性の向上が図られない。

日本の会社の99%はこの体質を有していると考えられる。まず、無能な管理職が自らの責務をわきまえずに膨大な作業を「部局全体の仕事」として部下に丸投げする。社員は「自分の仕事」が終わっても、「全体ノルマ」が達成されない限り、帰宅することも許されない空気下にあるため、他人の仕事を手伝うよりは自分の仕事を終わらせずに延々と続けるのが合理的選択となる。残業規制の不在がこの傾向に拍車を掛ける。「どうせ終わらないし帰れない」のだから、同僚の作業進捗を見ながらサボタージュすることで、楽して残業手当をゲットできるからだ。

さらに、日本の雇用慣行により、従業員は「職掌(ジョブ)」で雇用されるのではなく、全人格ごと雇用されるため、「作業効率が悪い」程度では解雇されない。司法判例も、まず他部署に配置して他の作業で試すことを要求している。これに対し、欧米の企業はジョブの能力で雇用しているため、その能力が会社の要求水準に達しない場合は、それを「正当な理由」として解雇できる。この結果、日本社会では正社員は、よほどの不祥事を起こさない限り解雇されない一方、企業は無能あるいは不適合な社員を囲い続けなければならない。同時に、日本の社員は職掌範囲が定められていないため、仕事の成果や能力が定量化、計測できず、公正に評価される基盤が無い。結果、個々の社員は生産性を上げるインセンティブが存在せず、企業側は無能な社員にも仕事を与えて人海戦術で対応せざるを得ず、組織としても生産性を向上させる術が無い。

かつてドイツの公的機関に勤めていた叔母は、ある日、同僚と早くディナーに出たいがために、彼女の作業を手伝っていたところ、ドイツ人の所長に咎められ、「何で手伝うんだ、組織の公正さが保てなくなる。それ以上やるなら貴女の人事評価を下げるぞ」と言われたという。これは、ジョブで雇用されている以上、「作業が終わらない」のは同僚の能力が低いか、ないしは彼女の上司(課長)の管理能力に問題があるかのどちらかであるが、叔母が手伝うことで能力の査定に支障が生じると同時に、責任の所在も曖昧になってしまう、というのが所長の主張だったらしい。
もちろん新自由主義が流行する前の話であり、新自由主義云々の問題では無く、組織管理と雇用慣行の問題であることは言うまでも無い。

特に日本の場合、管理能力が問われることが無いため、無能な経営者が跋扈していることが、低成長の最大の原因となっている。欧米の企業の場合、業績を上げられない経営者は株主総会で馘首されるが、日本ではまず起こりえない。世界最大級の核事故を起こしてすら、「原因は自然災害」とされ、一人の責任も問われずに終わり、安全性の向上は実質放置されたまま、再稼働が進められている。
核事故が進行中の時も、東京電力の社長は記者会見において原稿を読む以上の答弁は何もできなかったが、あれはまさに死の直前のブレジネフを思わせるものがあった。しかも日本の記者は予め当局に選ばれた者しか会見に参加できず、当局の意向を忖度して質問内容を自粛する傾向が強い。
また、ロシアのプーチン大統領は原稿も補佐官も無しに4時間でも5時間でも記者の容赦ない質問に答え続けるが、日本の首相は無数の補佐官を付けながら、国会のわずか一つの質問に対してすら「事前通告が無いから答えられない」と応じ、誰からも咎められない。むしろ「事前通告しないヤツが悪い」くらいの話になっている。
つまり、日本国民は生来の奴隷根性と学校の教育によって、無能な上司を告発する意識を持たないように洗脳されている。無能な経営者や政治家にとって日本ほどの天国はどこにもない。
日本型組織では、能力や成果ではなく、組織や上役に対する忠誠度によって人事評価がなされる傾向が強いことが、ますます生産性を下げていると考えられるが、これについては別途考察すべきだろう。

何のことは無い、日本の戦後成長は人口ボーナスで支えられてきただけで、人口ボーナスが失われた途端に成長も止まってしまい、生産性を向上させる術もないため、市場全体も停滞から減退へと転じているのだ。本来であれば、組織の効率化と女性の高度活用によって生産性の向上が図られるべきだが、現実には安価な非正規労働者と外国人奴隷を動員することで解決しようとしているため、消費が減退し、貧困が蔓延した上、生産性も停滞したままになっている。

カルロ同志の表現を借用するなら、仮に悪性腫瘍で足を切断しないと5割の確率で死亡する患者がいるとして、手術の是非は、西欧なら患者個人の自律的判断に委ねられる。ソ連なら執刀医が、共産党員の医局長ないし病院長の裁可を得て判断する。ところが、日本ではまず執刀医を決める会議の日程が組まれ、それまでに膨大な労力を掛けて患者と外科資格を持つ医師の資料が作成される。そこで執刀医が決まっても、今度は患者の家族に説明する日程を決める会議が行われ、説明用資料の作成に膨大な時間が掛けられ、そうこうしているうちに患者が死亡してしまうのだ。
posted by ケン at 13:51| Comment(0) | 労働、経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする