2018年05月30日

やりがい詐欺に注意せよ!

【東京五輪・パラのボランティア 「やりがいPRを」組織委】
 2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けて、大会組織委員会が公表したボランティアの募集要項案の宿泊費などが自己負担となっていることに批判があったことなどを受けて、ボランティアの在り方などを有識者が検討する初会合が開かれ「やりがいをわかりやすくPRしていく必要がある」といった意見が出されました。
 東京オリンピック・パラリンピックには大会の運営に直接関わる、組織委員会が募集する大会ボランティアと、空港や駅などで案内を行う、自治体が募集する都市ボランティアの2種類があります。
 組織委員会は、ことし3月、8万人を募集する大会ボランティアについて、1日の活動時間が8時間程度で交通手段や宿泊場所は各自が手配し、費用も自己負担とするなどの募集要項の案を公表しましたが、ネット上では「こんな条件ならやりたくない」といった批判の声などが上がっていました。
こうしたことを受けて、ボランティアの在り方などを有識者が検討する初会合が都内で開かれ、会議では「募集にあたってはボランティアのやりがいをわかりやすくPRしていくことが必要だ」といった意見が出されたということです。
 組織委員会は、今後も行われる会議で出された意見を踏まえ、ことし7月下旬までに具体的な募集要項を決める予定です。
(5月21日、NHK)

現代版「パンが無ければ、ケーキを食べれば良いのに」。但し、アントワネット様の話は政敵がねつ造したものであることは指摘しておく。

何度も言っていることだが、10万人を期間中20万円で雇用しても200億円で、全体の予算額2〜3兆円からすれば、出せないはずだ。仮に「現金は好ましくない」としても、例えば活動内容に応じてポイントを付与して、グッズやチケット、あるいは選手との交流権に換えられるようなシステムをつくれば良いだろう。むしろ「お金で買えないものが、ボランティアで手に入る」というインセンティブを与える方が、希望者は増えるかもしれない。
どうにも「無償奉仕でなければならない」というイデオロギーがあるとしか思えない。

筑波大学などでは、ボランティアを希望する学生向けに「ボランティア人財育成プログラム」なる有料セミナーを開講しているというが、ほとんどマルチ講のレベルに堕している。やりがい(労働力)だけでは飽き足らず、金まで巻き上げようというのだから、、まさに「魚は頭から腐る」である。

「交通費も出ないんですか?」という市民の問い合わせに対して文科省からの出向者が、「ボランティアですから無償です」と答えたというが、本来ボランティアは自発性を問うものであって、無償か有償かを問う概念では無い。この点からも霞ヶ関官僚の凄まじい劣化ぶりが見て取れる。貴族からすれば、「奴隷が奉仕するのは当たり前」「奴隷を甘やかすとつけ上がる」ということなのだろうが、日本は江戸期あるいは明治期の身分社会に逆戻りしつつある。

わが先祖が松平元康との主従関係を断ち切って三河一揆に参加したのは、「主従は一時の関係だが、仏の慈悲は永遠である」との信念に従って、「無縁」の宗教的ユートピアを夢見たためだったと考えられる。今日で言えば、手弁当で政党運動や市民運動に参加するようなものだろう。それに相当するものが、五輪ボランティアにあるのか?という話でもある。

ケン先生がコミケやゲムマのボランティアをするのは、世界観を共有すると同時に、事前入場のプレミアムや交流が期待できるからで、その辺も少しは学んでもらいたいものだ。
posted by ケン at 12:34| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月29日

モラルハザード進む日本

【<狛江市>セクハラ疑惑 副市長「あった」に市長「ない」】
 東京都狛江市の高橋都彦(くにひこ)市長(66)が複数の職員にセクハラ行為をした疑惑があり、水野穣(みのる)副市長は21日、2人へのセクハラが確認されたとの調査結果を発表し、市長に辞職を迫ったことを明らかにした。これに対し、高橋市長も記者会見してセクハラを否定。調査への疑念をあらわにし、真っ向から対立する異例の事態となっている。
 疑惑は共産党市議が3月1日の市議会で質問して表面化した。情報公開請求で入手したセクハラ相談に関する内部文書の「口をつけたコップで何度も飲むことを強要」されたなどの記述を基に、黒塗りで伏せられた加害者を「市長ではないか」と繰り返し追及。市長は「心当たりがない」と否定してきた。
 一方、市幹部が文書の作成者と女性職員の計4人に聞き取りを実施。水野副市長によると、女性職員の一人は否定したが、2人は被害に遭ったと証言した。2014年4月〜16年3月に「車の中で手を触られた」「腰に手を回された」との内容が確認できたという。
 この調査結果は市長と市幹部が18日に開いた臨時庁議で報告された。水野副市長が公表した議事録などによると、副市長は「立場を利用して卑劣な行為を行ったにもかかわらず、身に覚えがないと言い逃れ、職員や市政に及ぼした影響は計り知れない」と批判。石森準一参与も「あなたがその地位にいる限り、市は残念ながら、一歩も前に進めない」と市長に辞職を迫った。
 一方、高橋市長は21日の会見で「セクハラをしたという認識は持っていない」と重ねて否定。調査に関しても「目的から外れ、辞職を迫る内容になっている。圧迫面接のような調査が行われた。聞かれた側が正直に話したか疑念がある」と反発した。進退については「今は白紙の状態」と述べ、「支持者の意見を聞きながら対処の仕方を考えていきたい」と語った。
 高橋市長は東京都交通局総務部長、産業労働局理事などを歴任し、12年6月の狛江市長選に出馬して初当選。現在2期目。一方、水野副市長は市職員の生え抜き。
(5月21日、毎日新聞)

「狛江市に見る地方自治の衰退」の続編だが、異なる視点で考えたい。なお、高橋市長は23日の記者会見で辞任を表明している。
セクハラ事件では、前の財務次官も辞任こそしたものの、今もって行為自体は否定し続け、政府自体も「セクハラ罪という罪は存在しない」という愚にも付かない閣議決定をしている。これらは、国を挙げて権力者による性的非道を庇い、性的非道から市民の人権や尊厳を守るつもりがない姿勢を示している。

最近話題になっている日大アメフト部事件でも、監督が部員に試合出場の条件として「相手(プレイヤー)をぶっ壊してこい」と指示したにもかかわらず、発言を否定すると同時に、「部員が指示の理解を誤った」などと部員に責任転嫁する姿勢を示している。

これらに共通するのは、「性的嫌がらせ程度で告発するとはケシカラン」「監督に服従しない部員はケシカラン」という権威主義であり、同時に「権力者は何をしても罪に問われない」という権力者無答責の原則である。
中国では、政治局員で重慶市長だった薄熙来氏が、収賄と横領罪で無期懲役に処されたたことを思えば(権力闘争の側面はあるにせよ)、国家倫理の上でも日本の堕落と中国の向上が顕著になっている。

特に日本の場合、総理大臣自ら森友・加計などの疑惑を全否定し、質問に対しては正面から答えずに、延々と無関係の話をして審議時間を潰すという行為を繰り返しているため、地方自治体だろうが、民間企業だろうが、大学であろうが、ありとあらゆる組織のトップがマネをし始めている。
中国の場合、儒教を導入して以来、皇帝がモラルの範を示すことが権力の正統性を保持する重要な要素となってきた歴史がある。これに対して日本は、儒教は導入したものの、学問としてのみであり、文化や慣習の点では殆ど普及しなかったため、権力者が高い倫理観を持たねばならない理論的根拠が存在しなかった。「権力者は何をしても許される」という文化は、中国よりもモンゴルのそれに近い。

例えば、清の雍正帝は、自らの居室の入口に「為君難(君主たるは困難である)」「原以一人治天下(天下が治まるか治まらぬかは朕一人の責任である)」「不以天下奉一人(天下は朕のために存在するのでは無い)」の三つの額を掲げ、入室するたびに読み上げたという。こうした感覚は、日本の権力者には存在しないだろう。
安倍氏や麻生氏が、無自覚に保身のために責任転嫁と不快な言動を繰り返せば繰り返すほど、他の権力者たちも「あれが許されるなら俺も」と考えるのが道理であり、悪貨が良貨を駆逐する流れにある。

欧米の場合は、権力を分立させることで、仮に行政府が腐敗しても、議会の追及や司法の捜査によって正すことが可能だ(想定している)。しかし、日本の場合、権力分立の意義を理解しないまま制度だけ導入した結果、江戸期同様に行政府に権限が集中し、司法や立法府が従属する形になっている。特に戦後60年にわたって自民党が政権党の座にあり続けた結果、一党独裁と同様に、立法府と行政府が一体化して、ともに腐敗する状況が生じている。

さらに、戦後恐らく意図的に、デモクラシーやリベラリズムに基づいた主権者教育を国民に施してこなかったことと、教員組合も一体となって目上に絶対服従することを善とする権威主義教育を行ってきたことが、市民の主権者意識を育てず、権力者に反論したり、反対したりすることを悪とする倫理観(奴隷根性)を植え付けてしまった。その結果、市民レベルでの自浄能力が働かず、「ベルリンの壁崩壊」に象徴される民主化運動すら期待できない状況が現出している。

こう言うと、「田中角栄や小沢一郎も腐敗していた」と言われそうだが、江戸期で贈賄が最も激しかった田沼意次時代が懐古されるのは、圧倒的な好景気に依拠していたためで、田中角栄の手法も同様だった。つまり、景気の良いときは腐敗が目立たなくなるが、景気が悪化した時は、権力者の腐敗は正統性に対する懐疑となり、不景気が故に腐敗による蓄財が横行、負のスパイラルに陥ってゆく。
日本はすでにポイントオブノーリターンを越えたのである。

【追記】
昨今、日本と北朝鮮の近似性を指摘する向きが強い。いずれも戦中期の国体を模してつくられているからだ。「(国体護持のために)あと2千万の日本男児を特攻させれば、必ず勝ちます!」という大西軍令部次長の狂気は、金王朝から日大アメフト部まであまねく浸透している。
posted by ケン at 12:42| Comment(2) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月28日

人手不足の実態を暴露する教員不足

【広島県内35校で教員不足 授業できない学校も】
 広島県内の公立の小中学校など35校で、教員が決められた人数に達していない「欠員」の状態にあることがわかりました。呉市では4月、授業を受けられない生徒がいた中学校もありました。
広島県教育委員会によりますと、県内の公立小中学校などを対象に調査した結果、35の学校であわせて38人が欠員状態になっているということです。その内訳は非常勤講師が12人、臨時採用の教員が26人です。このうち呉市の吉浦中学校では、1年生の国語と2年生の理科で必要な教員を確保できず、あわせて4クラス101人が4月分の授業を受けられませんでした。5月からは、ほかの学年の教員が授業を行っています。
「生徒や保護者に心配をかけ、大変申し訳なく思います」
(呉市教育委員会 学校教育課・高橋伸治課長)
呉市教育委員会は、求人を出すなどして新たな講師を探していますが、このまま見つからなければ夏休みや冬休みに補習を行う可能性があるということです。
「今後、非常勤講師を早急に配置できるよう全力で取り組んでいきたい」(高橋課長)
「由々しき事態だと思っている。生徒たちにしわ寄せがいくのはできるだけ避けていくことが望ましい」(広島県・湯崎英彦知事)
湯崎知事は会見で、教員不足により授業への影響が出ていることに懸念を示しました。
広島県教委は、定年による大量退職に新規採用が追いつかないことが教員不足の原因だとしたうえで、「他の都道府県でも事情は同じため、教員の確保に苦慮している」と説明しています。今後、学校現場での授業などへの影響を詳しく把握したうえで、教員の確保策を検討したいとしています。
(2018.5.15、中国放送)

突っ込みどころ満載。
「教員不足」と挙げつつ、内実は38人からの非常勤が空席という話。
日本では教員の場合も、他の民間企業と同じで、正規職員と非常勤・非正規に要求される仕事の違いはなく、単に雇用の保障が無い上に賃金が安いだけで、下手すると部活動の面倒まで無償で見させられるという。部活動などの無償の仕事を引き受けないと、再雇用されない恐れがあり、非常勤教員はやむなく引き受けるケースが多い。

それでも、一昔前(十年くらい前か)は正規教員への道を信じて非常勤を続ける者も少なくなかったが、現在では正規教員の職場環境がさらに悪化して、敢えて非常勤を続けるものは減少の一途をたどっている。にもかかわらず、正規教員の定数は少子化を理由に減らされ続け、非常勤の枠ばかりが増えているため、「バイト教員がいない」という状態に至っている。

にもかかわらず、行政側は「新規採用が追いつかない」「他の都道府県でも事情は同じ」という愚にも付かない認識であるため、その誤った認識が誤った対応にしかならず、悪循環に陥っている。ガンであるにもかかわらず、医者が「風邪ですね」と診断すれば、あっという間に悪化するのは当然だろう。

これを解決するのは実は簡単で、教員の給料を他県比で5割増しにした上で、部活動や学校行事を全廃して勤務時間の3割減を実現すれば、あっという間に日本で最も優秀な教員が集まるだろう。
政治と行政の無能がそれを許さないだけの話であり、現行システムは遠からず衰退、死滅するだろう。

【参考】
深刻化する教員不足 
posted by ケン at 12:56| Comment(3) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月26日

働き過ぎたから賃金カットという地獄、そして資本主義の終焉

【除雪がんばったら給料カット!? 福井市職員 猛反発】
 今年2月の記録的な大雪による除雪費膨張の影響で、財政が危機的な状況に陥ったとして、福井市が職員の給与を削減する方針を決めたことに対し、市の職員組合は18日、反対を申し入れました。これを受け自治労福井県本部は21日、総決起集会を開き、この福井市のケースが全国的な広がりを見せないようくさびを打ち込むつもりです。
 「体力の限界まで頑張った見返りが給与カットとは!」「信じられない仕打ち」「来年も今年以上の積雪があったらどうなる」「除雪業務、もう頑張れない」「子育てでお金がかかるのに……」。除雪費が膨らんで財政悪化し、給与カットを打診された福井市職員の声です。
37年ぶりの記録的な大雪に見舞われた福井市。によりますと、今年2月の大雪に伴って昨年度の除雪経費は、当初見込んでいた4億円余りの10倍以上となる50億円に膨れ上がりました。
国の補助金や市の貯金にあたる「財政調整基金」全額を充てたほか、大型公共事業を先送りするなどして予算を捻出しましたがそれでも8億円が不足し、そのため▽一般職員2300人の給与や管理職手当を10%▽市長ら特別職の報酬を20%、それぞれ7月から9カ月間削減してまかなう方針を、市の職員組合に提示していました。
 これに対し、組合側は「給与で被災財源を補填するのは不合理極まりない」として、▽給与削減提案の撤回▽労使合意のないまま給与削減に関する条例改正案を議会に上程しないことなどを、東村市長あてに申し入れました。福井市職員の平均給与は月額32万円余り。10%削減されると月3万円ほど減る計算です。
17日夜の組合員の緊急集会では給与削減の提案に反対する方針を確認しました。また、福井市の提案に他の自治体も同調しないよう自治労県本部や県内のほかの市町の組合のメンバーらも応援に駆け付け反対の輪に加わりました。
福井市職員組合が加盟する自治労福井県本部は、財源不足を職員の給与で補填するといった提案が全国に波及しないよう、21日夜、総決起集会を開き、県内のほかの市町の組合員らと連携を取って、反対の方針を確認する予定です。
(5月21日、福井テレビ)

大雪で除雪を行ったところ、財源が底を尽き、除雪を担った市職員の給与を削減するという話。
民間企業であれば、労働契約法などによって賃金の引き下げに対して非常に厳しい規制が掛けられており、経営危機が理由の場合、労働者個別に合意を得る必要がある。管理職などで見られる「給料の一部返上」についても、懲戒処分以外は、当事者の同意が必要となる。ただし、現実には中小企業などでは、社長がクビをちらつかせるなどして恫喝し、賃金カットの同意を強要するケースが蔓延している。

しかし、公務員の場合、労働法の多くが適用除外となっており、「職員の同意無き賃金カット」が可能になっている。
「労働組合法、労働関係調整法及び最低賃金法並びにこれらに基く命令の規定は、職員に関して適用しない」
(地方公務員法第58条)

「この法律は、国家公務員及び地方公務員については、適用しない」
(労働契約法第22条)

そして、公務員は労働基本権が大きく制限されており、団結権は認められても、団体交渉権や争議権(スト権)は認められていない。そのうち団体交渉権については、地方公務員の場合、自治体に独立性の高い人事委員会などが設置され、労使関係の調整を行うことになっている。ところが、この人事委員は首長が指名して、議会の同意をもって任命されるため、殆どの自治体で首長と議会が自民党で占められている日本の場合、人事委員会は自民党の影響下に置かれているケースが大半となっている。

給与改定の過程は、人事委員会が人事院勧告と地域の給与水準を鑑みて独自の勧告を行い、それに従って自治体行政が給与改定方針を作成、議会が条例を改正する流れとなる。そのため、人事委員会、首長、議会が同一人格(政党)で占められている地方は、理論上自由に賃金を改定できる。

現実には、1990年代までは、日本社会党がそれなりの勢力を持って自民党と対峙しており、自民党の「やりたい放題」にはならなかったわけだが、社会党なき今、一般公務員の利益を代弁するのは、旧民主党系の自治労組織内議員とNK党だけになってしまっている。現在の立憲民主党の中にも、「公務員の賃金が高すぎる」と主張する議員は非常に多く、自治労が支援する理由が全く分からない。
地方の場合、地域経済の疲弊と余剰インフラに伴う財政破綻が前提にあるところに、社会党という抑制機能が失われ、地域資本の暴走(最後の悪あがき)が始まっていると解釈される。

福井からの報告によれば、自民党側は右翼にテロルの要請を行い、近々右翼の街宣車が福井市職労の周辺で大音量の恫喝活動を行うという。市職労は市役所の中にあるため、実質的には市民に被害が出る恐れが生じる人質作戦とも言える形となるため、公務員組合は基本的にテロルに対する耐性が無い。
こうした手口は、自民党が右翼団体を動員して、まず警察にデモ隊を襲わせて、路地に逃げ込んだ市民に暴力団が暴行を加えたという、1960年の安保闘争。あるいは、大学当局が右翼を動員して、学生運動家に対する個別テロを行った、1968年の日大闘争など、50年代から60年代にかけては日常茶飯事だったが、最近はあまり見られなかった。
このことは、1970年代から2000年代くらいまで成立していた戦後和解体制の瓦解を示しており、マルクスが指摘した「資本は、労働者の利益を犠牲にすることで自己増殖し、暴走する」の復活を意味している。

しかし、地域資本やそれを代表する自民党は、自らの首を絞めているだけでしかない。ただでさえ十分な産業基盤を持たない地方の場合、公務員の給与が地域消費の一大源泉となっているため、公務員の賃金削減は消費減に直結するところとなる。
これは別途記事にする予定だが、地方ではデパートが撤退して、ショッピングモールや大型スーパーとなり、それも撤退して小型スーパーとなり、それすらも経営維持に難儀しているのが実態だ。少子化、人口減解決のメドが立たない以上、企業に投資するインセンティブはなく、地方事業を切り捨て、人件費を抑制するほかなく、その影響は地方自治体にまで出ている。

つまり、デフレと人口減少にあっては、資本主義そのものが成立しえず、日本の地方はその最先端を行っているわけだが、資本家も霞ヶ関官僚もそれを認めないため、資本主義的手法で解決しようとする。
だが、利潤の上がらない地方に投資するメリットは企業になく、公債を発行して公共投資するケインズ的手法は、維持費ばかりかかる余剰インフラを増やして財政を悪化させる効果しか無い。
実のところ、少なくとも地方では、計画経済や協同組合制度に移行する方が望ましいと考えられるが、日本のエリートは思いつきもしないだろう。

話がズレてしまったが、従来の手法では利潤を上げられなくなった資本は、労働を収奪することでしか延命できなくなっている。本来、自由主義を貫くのであれば、不採算・低採算の企業は倒産させて、収益性の高い産業にシフトするように仕向けるべきなのだが、資本と行政と立法とマスゴミ(情報)が一体化している日本の場合、公的資金が優先投入されて不採算・低採算の企業が生き残り、ひたすら賃金コストの圧縮を進める事態になっている。国会で審議されている「高度プロフェッショナル制度」もその延長線上にある。

福井市の事例は、センセーショナルな形で顕現しているが、遠からぬ将来、日本全国で起こりうるものであることを覚悟しておくべきだろう。

「他の自治体に波及する恐れがある」として総動員を呼びかけた自治労福井県本部の見識は慧眼であり、産別労組のモデルであると言える。同志からの報告では、保育士や非正規職員の加入にも力を入れているとのことで、率直に敬意を表し、エールを送るものである。
posted by ケン at 00:00| Comment(5) | 労働、経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月25日

復活Twilight Struggle三戦目

T後輩と「またやろう」などと言いながら、半年以上建ってしまったGMT「Twilight Struggle」。今回は、T後輩がソ連、ケン先生がアメリカを担当した。

一回目は、第一ターンにソ連側の手札に三枚も得点計算カードが入ってしまい、序盤重視のソ連が出鼻を挫かれてしまう。しかも、「ヴェトナム蜂起」「カストロ」「ナセル」など第三世界で進出拠点をつくるはずのカードが上手い具合にアメリカ側に流れて、ことごとく宇宙開発に使われてしまい、アメリカによる封じ込め政策が教科書のように機能した。
その分、ヨーロッパではソ連が有利に進め、フランスに共産党政権ができたり、西ドイツが不安定化したりしたものの、全体的にはアメリカが有利に進め、こまめにポイントを稼ぎつつ、「Mid War」(中盤戦)の第6ターンにはアメリカがサドンデス勝利を収めた。
T後輩は、久しぶりのプレイだったため、クーデターをあまり実施しなかった結果、中東やアフリカへの進出が遅れた上、アメリカ側に「核兵器廃絶運動」でポイントを稼がせてしまったところに敗因があろう。デフコン(核戦争脅威度)が常に4とか5とかある、非常に平和な冷戦だった。

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一回目終了図。ターンマーカーと宇宙開発トラックをスタート時に戻してしまった。

二戦目も同じ担当でプレイ。前回の反省からか、クーデターが飛び交う激しい展開となり、デフコンが常に2と3を行き来する危険な冷戦となった。
全体的には、ソ連側のカードの流れが良く、中東ではイラク、イスラエル、エジプトが、アジアでは北朝鮮、パキスタン、インド、タイに共産政権ができるという、アメリカ人的には悪夢の展開となるが、勝利得点カードが米国側にあることが多かったため、マイナスを最小限に止めることができた上、宇宙開発で大きく先行したことによって、サドンデス(米ソどちらかが20点以上)を回避できた。この点でも、以前考えていたよりも、ゲームバランスが優れていることが分かる。
ただ、序盤・中盤のマップを見る限り、欧州以外は真っ赤っかで、我ながら「これで良くアメリカ負けないな」という展開だった。VP的には、ソ連側に5〜10ポイントのところで推移しており、アメリカ人的には「負けないのが精一杯」だったが、ソ連人的にも「押してるけど、押し切れない」苦しさがあった。
中盤以降、中米と南米が加わり、終盤に「Last War」カードが加わって、欧州でもソ連の東欧支配が崩れたことを受けて、アメリカ側が持ち直すも、全体的には赤色政権が多く、ソ連側に0〜5ポイントのところで推移、最終ターンまでシーソーゲームを繰り返す珍しい展開となったが、ケン先生の都合で時間切れとなった。

最終ターン開始時に、アメリカ側1点で、ソ連側が一枚得点カードを持っているが、アメリカ側は「核兵器廃絶運動」を持っており、差し引きゼロくらい。同点の場合は、中国カードを持っているアメリカの勝利。恐らくは、2分の1の確率で成功する宇宙開発に先に成功した方が、判定勝ちというギリギリの展開となった。
互いに苦しいゲームとなったが、このヒリヒリ感こそ、本作や同社「Labyrinth」をプレイする真骨頂であろう。
posted by ケン at 13:02| Comment(0) | ゲーム、囲碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月24日

日本の教育はなぜ空洞化したか・下

前回の続き
ところが、1980年代に学力偏重主義や受験競争が批判にさらされ、財界からは「国際化、情報化時代に対応した教育を」という要求がなされた結果、「生きる力」「自分で考える力」「個性重視」などの曖昧な指標を中心とする「ゆとり教育」が導入された。現実には、中等教育で教えられるパターンが激減、「人の価値は学力以外にもある」として学習習慣も軽視されていった(学習時間の減少)。パターン学習を減少させた分(学習内容の3割減)については、体験型学習、総合学習、英語などが導入された。

不足した基礎学力については高校で補うとされたが、高校の学習水準が地盤沈下を起こし、少子化と大学進学率の向上が相まって、本来高等教育の基準を満たさない学生が大学進学を果たすようになった。
同時に、高卒者はおろか大卒者の新卒採用者の水準が低下、企業側から「パターン認識力・対応力が足りない」とクレームが付けられるようになり、就職率の向上をめざす大学側はこぞって中等教育で行うべきパターン教育を施すようになっていった。

パターン教育を行う中等教育に対して、大学などの高等教育は、一定のパターンに当てはまらない状況を認識し、個別に対応する能力を養うと同時に、パターンの原理を理解して独自のパターンを作成する能力を追求する。
日本の場合、1970年代に大学進学率が急上昇したため、大学教育のマスプロ化が進み、テキストを暗記して試験に臨み、先輩の卒論をコピペして提出して卒業という、パターン教育になってしまった。しかも、1990年代以降は、中等教育におけるパターン教育も不足するに至り、大学に中等教育がなすべきパターン教育が求められるようになってしまった。

ところが、AIの導入によって工場労働はおろか、単純事務の多くが自動化されるに至り、中等教育におけるパターン教育の価値が大きく低下している。同時に、本来は高等教育に求められるパターン外教育の価値が高まっている。しかし、「パターン外教育」というのは、パターン原則を理解しなければ、「何がパターン外なのか」分からないだけに、中等教育をすっ飛ばすことはできない構造になっている。また、事務作業にしても、求められる水準が非常に高くなってしまい、平均水準では対応できなくなりつつある。

そして、日本の中等教育の場合、「上司の不条理な要求に耐える」「超長時間労働に耐える」能力を身につけることを目的に、部活動が推奨・強制されている。その結果、「指示が無いと何もできない」「指示が無ければ何もしない」「誤って出された指示を延々と繰り返す」などといった日本国内のごく限られた範囲でしか通用しない労働者ばかりが育成されている。同時に、この部活動が本来なすべき学習時間を削り、パターン学習の効果を減少させている。

日本の文部行政の失敗は、「パターン教育なんて時代遅れ」と性急に判断して、中等教育の脱パターン化を進めてしまったところ、労働力の質が低下、財界が応急処置的に大学に対してパターン教育の強化を求めたところ、パターン外教育も瓦解、ホワイトカラー労働者の質も低下、職場環境の悪化も相まって労働市場における人的荒廃を進めている。
最初の判断の誤りは、「ポスト工業化時代に対応した能力育成が必要」という認識にあったわけだが、これ自体は間違いとは言えなかったものの、それをパターン教育の否定に直結してしまったことが失敗の起源だったと考えられる。
恐らく真に必要だったのは、基礎学習能力とパターン教育の強化であって、どちらかと言えば、詰め込み式教育の前倒しプラス強化とパターン外教育の拡充こそが正解に近かったはずだ。

具体的には、幼児教育の2年間を初等教育に組み込んだ上で、高校を義務化、全14年間の初中等教育を実現。就学年限に一定の幅を持たせつつ(成長の遅い子もいるため)、中等教育や高等教育への移行には個別的に幅を持たせる(飛び級あり)のが望ましい。
もっとも、現実にはAIの進化速度を考えた場合、学校に子どもを収容し、生身の先生が多数の子ども相手に高説を垂れるマスプロ教育がいつまで行われるのかという疑問がある。遠くない将来、学校などに通わず、自宅でゴーグルを付けて、AI先生を相手に一対一で個別に授業を受ける形に移行するのではなかろうか(理論的にはまだまだ非現実的らしいが)。

問題は、文部官僚が現状の問題を認識せず、いまだ誤った認識のまま、英語教育の拡充だの、アクティブ・ラーニングなどと主張しているところにあり、かなり絶望的な状況にある。第一言語である自国語(日本語)の構造を理解していないものが、外国語を学んだところで自動翻訳に敵うはずもなく、まるっきり無駄な労力であろう。同時に、議論するに十分な知識の無いものがアクティブ・ラーニングを受けてみたところで、ネトウヨを増やすだけの話でしか無い。どう見ても、市民社会にとって害悪を増やす結果にしかならないだろう。

中国と8年にわたる大戦争をした挙げ句、連合国とも戦争になって大敗を喫したアジア太平洋戦争も、最初は「中国なんぞ、一撫でしてやれば、すぐ頭を下げてくる」という誤った認識に始まり、最後までその認識を正すことができなかった帰結だった。
我々は80年を経てもなお、同じ過ちを繰り返そうとしている。
霞が関官僚も政治家も「あれは正しい戦争だった」という認識の上に立っているのだから、正されるはずもないわけだが、あまりにも愚かである。
posted by ケン at 00:00| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月23日

日本の教育はなぜ空洞化したか・上

大卒新人の能力低下が聞かれるようになって久しいが、その原因についてはいまだ特定されておらず、特段の対策もとられていない。結果、英語教育の拡大や早期化、あるいはアクティブ・ラーニングの導入など不要不急の政策ばかりが施行され、ますます被害を拡大させるものと推測される。
「被害拡大」というのは、学習効果のさらなる低下と教育現場のさらなる荒廃を意味する。

文部科学省のこうした現場や現状を無視した政策は、1944年3月にインド侵攻をめざしたインパール作戦や、同年4月に中国大陸の南北貫通をめざした大陸打通作戦を彷彿させる。
個別的には「このままやられるくらいなら先にやってしまえ」という判断からなされた作戦だったかもしれないが、全体的にはすでに摩耗していた戦力をさらにすり潰してしまった観がある。
文科省の失敗は旧陸軍と同様、全体の戦略と着地点の見通しを持たないまま、その場しのぎの対応や見栄えの良い政策を優先させた結果、全体の整合性を破綻させてしまったところにある。

現代の公教育は、もともと大量生産社会に対応した工場労働者の質的向上と標準化を目的に導入され、同時に国家や企業体の管理層の巨大化に対応して高等教育の拡大が図られた。
そのため、初等教育では読み書きと計算を中心に、ごく基礎的な自然科学と国民教育に必要な社会科目が加えられた。初期の工業化時代であれば、工場労働者に求められた能力は初等教育で十分だったが、時代を経てブルーカラー労働者に求められる能力が高まり、同時に事務労働分野も量的に拡大していったため、中等教育が拡充・整備されていった。蛇足になるかもしれないが、歴史についても触れておきたい。

日本では1872年に学制が導入されて4年間の初等教育が実質義務化されたものの、1900年まで有料だったため、現代日本人が考えているほど通学率は高くなかった。例えば、尋常小学校の就学率は1890年にようやく50%を超え、70%を超えたのは1899年のことだった。特に日清、日露戦争後は軍事優先で財政難が続き、初期中等教育(今の中学校)の義務化・無償化が実現するのは第二次世界大戦後の1947年を待たなければならなかった。
なお、日本の中等教育の就学率は、1915年で20%、1935年で40%でしかなかったことは特筆に値する(但し地域差が非常に大きい)。この影響は、戦時動員にも影響が見られる。例えば、日本の陸海軍における航空搭乗員は1割が士官、9割が下士官で、アメリカの9割士官、1割下士官の真逆を行っていたが、これは士官を担えるだけの後期中等教育修了者が圧倒的に不足していた事実を裏付けている。

これに対し、義務教育の本場とも言えるフランスでは1926年には中等教育が義務化され、1930年までに実施されている。
1905年の日露戦争時には、ロシア軍人をして「日本軍は一般兵士が読み書きできる」と驚愕せしめたロシアでは、1917年のロシア革命を期に義務教育が導入された。だが、長い内戦の影響もあって必ずしも普及が進まず、1927年段階でも8〜14歳児の就学率は46%でしかなかった(革命時は10%以下)。だが、スターリン体制下で教育制度も強行に普及推進された結果、1932年には85%を超えるに至っている。これは全体主義の「正」の側面と言える。
戦前の日本において、軽工業から重工業への移行が遅れた背景には、中等教育の普及遅延という問題があったことは、もっと指摘されてしかるべきだろう。

話を戻そう。重工業化の過程で中等教育の価値が高まるのは、単純に言えば、作業の難易度が高まり、労働者に求められる理解力・対応力も高まるためである。この場合、理解力・対応力というのは、具体的には作業マニュアルの難易度が高まり、マニュアルに沿った作業にしても複雑化することを意味する。そこで求められるのは、パターン認識力とパターン対応能力になる。各労働者に求められるパターンがどれに相当するか理解し、マニュアルに沿った対応をすぐさまとれるかどうかがポイントとなる。

中学校の数学や外国語が、ひたすら公式を覚えて、出題された問題に当てはめてゆく「作業」であるのは、そのためだと言える。また、中学校の国語は、マニュアルを読んで理解し、模倣する能力を身につけるために存在すると言える。また、初中等教育で学習習慣を身につけることは、社会に出てから新技術に対応する術を学ぶことになる。
これらは、重工業の工場労働やホワイトカラーの単純事務に求められる基礎能力に相当する。

世間ではよく「学校で学んだことなんて社会に出ても役に立たない」などと言われる。確かに因数分解も歴史年号も実際に使うことはまず無いものの、中等教育でパターン認識力、パターン対応力、あるいは学習の習慣を身につけないと、社会に出て労働者として何の役にも立たないことになる。中学校の教科書を読めない(読まない)ものは、会社でマニュアルを渡されても読めない、あるいは読み方すら分からないに違いない。
(以下続く)
posted by ケン at 12:13| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする