2017年02月09日

西南戦争の原因を考える・下

前回の続き)
そこで、薩摩に視点を転じたい。同じ幕藩体制下の大藩ながら、薩摩は他藩と大きく事情が異なる。その最たるものは、武士階級の人口であり、それに伴う動員力だった。明治初年における鹿児島藩の人口は72万人で、長州と同水準にあった。ところが、動員可能な人数は、嘉永5年(1852年)で、城下士4500人、郷士2万3千人、陪臣1万人、計3万7500人と、長州藩の何と5倍もの動員力を誇っていた。しかも、この数字は「当主」の数に過ぎず、兄弟や子を戦時動員するなら5万人を超えるまで可能だった。当時も「薩摩の実兵力は5万とも10万とも言う」と話されたそうだが、あながち誇張ではなかった。
鳥羽伏見戦における幕府軍の兵力が1万人強、後詰めで大坂城に駐留していたのが2万人超であったことを考えても、薩摩の「戦争マシーン」ぶりがよく分かるだろう。九州南部に引き込んで戦うなら、島津は徳川に負けないだけの兵力を、江戸期を通じて保有していたのである。ちなみに会津戦争において、会津藩は白虎隊に象徴される総動員を行ったが、それでも4千人に満たなかった。

維新後、鹿児島で申請された士卒の数は34万人に及び、総人口に対する割合は45%にも及んだ。全国平均が6%前後であったことを考えれば、壮絶な数であり、この数の士卒を維持するため、薩摩・大隅はもちろんのこと奄美などの植民地では言語を絶する収奪が行われた。西南戦争に際し、農民層がこぞって新政府軍に協力したのは、このためだった。

ところが、戊辰戦争に際し、鹿児島藩が動員して出征させたのはわずか8千人で、多く見積もっても1万人に過ぎなかった。持てる兵力の殆ど全てを倒幕戦(革命戦)に投入した長州に対し、薩摩は先鋒程度の兵力を投入したに過ぎず、兵力の過半を後方で温存させていた。これは、西郷・大久保らが、「幕府が全面戦争を決断した場合」を想定して兵力を温存していた可能性もあるが、基本的には「革命の推進者」として長州、土佐とのバランスを考慮して、自藩が突出して悪目立ちしないよう配慮した上での戦力供出だった。例えば、薩摩が2万人も出してしまうと、長州5千、土佐3千と比べて突出してしまい、「幕府が倒れた後、薩摩が権力を独り占めするのではないか」とあらぬ疑いが掛けられてしまう恐れが強かった。この感覚は、マルチプレイ・ゲームのプレイヤーなら想像に難くないだろう。
さらに、戊辰戦争における薩摩の戦死者は500人超に満たず、禁門の変や薩英戦争の死者を足しても600人に遠く届かなかった。つまり、長州が全身をボロボロにして御一新を迎えたのに対し、薩摩は「もう一戦でも二戦でもできるぜ!」くらいの余力を残していた。

そこで当然ながら、長州の脱隊騒動と同じ状態が生起する。戊辰戦役に出征したか否かにかかわらず、御一新で武士が失職するのは変わらない。薩摩の場合、約3千人が御親兵として維新政府に供出され雇用が守られた。ところが、これはほぼほぼ城下士に限られており、郷士や陪臣は置き去りにされた。そのため、治安維持の必要もあって、大久保・川路が主導して東京警視庁を発足させ、郷士階級を中心に警察官への採用が進められた。とはいえ、警察官を鹿児島県人に限定させるわけにもいかず、正確な数字は分からないが、薩摩からの採用は当初2千人、その後さらに1千人ほど増員されたものの、3千人程度だった。結果、雇用された警察官の半分以上が薩摩の士卒出身者となり、他藩出身者からは強い不満が上がった。また、明治初頭の「東京」では、意思疎通のできない警察官が多すぎて「通訳」が不可欠だったと伝えられている。「おい、こら!」はその名残である。だが、それでも3万人以上の郷士や陪臣は、御一新の恩恵を何ら賜ることなく、「秩禄処分」「徴兵令」を迎えることになる。

付言すると、明治期は「藩閥政治」と批判されることが多いが、地方行政官は意外と能力主義に基づいて公正に採用、配置されていたところがあった。例えば山口県令、県知事は戦前期に1人も長州出身者がいなかった。これに対して、明治初頭の薩摩の場合、県知事も県庁役人も殆どが鹿児島県人で占められ、「独立王国」と陰口を叩かれると同時に、長州人は「薩摩の連中は御一新の意味を全く理解していない」と批判した。長州人は腐敗した側面もあるが、意外と「革命」に忠実だったのである。

まず「秩禄処分」は、明治6年末(1873年)、廃藩置県に伴い家禄を返上した士族に対し、数年分の禄高を半分は現金、もう半分は「秩禄公債」で支給することになった。言うなれば、武士の退職金、失業手当である。ところが、明治初頭は不換紙幣である太政官札を始めとする政府紙幣と国立銀行券が併存して大量発行されていたことや、秩禄処分、殖産産業などのために大量に公債が発行されたことが相まって、高インフレ状態にあった。そのため、現金は間もなく価値を失い、公債の利息もすぐに微々たるものになってしまった。そもそも郷士や足軽は家禄が低いため、禄高に基づく査定はごく低いものでしかなく、「単に武士でなくなった(=定収入を失った)だけ」になってしまった。最多層の下級武士が拝受した公債の金利は、日割りにすると当時の最底辺労働者の賃金の半分以下だった言われる。
歴史学で言うところの「封建的特権の有償廃止」であるが、明治政府の財政事情は十分な補償を許さなかった。明治初年における政府歳出に占める家禄支給額の割合は30%を超えており、封建特権を放置したまま近代化などできるワケもなかったのだ。

話はやや前後するが、徴兵令は明治6年始めに施行される。これは士族特権だった武力行使権を廃止して中央政府に一括集中することを意味したが、士卒階級からすれば「町人に権限を奪われた」形となった。同時に、士族に家禄を支給する根拠が失われた。
徴兵制の導入については、西郷隆盛を筆頭に主に薩摩閥から強い反対意見が出され、彼らは自然と士族が中心となる志願兵制を主張した。だが、最終的には「武士の軍隊では近代戦は戦えず、国民軍が不可欠」という長州閥の意見が大勢を占め、徴兵制の導入が決められた。最終的には「皇軍」なる怪しげなもの(天皇の私軍)になってしまうものの、明治初頭のこの段階では「四民平等の国民軍」が志向され、そのため武士は武権を失い、武権に伴って設定された家禄を失うことになった。
明治9年の廃刀令は、士族に唯一残された個人武装権をも剥奪されるというもので、現実には象徴的なものであったが、精神的打撃は大きかった。

「征韓論」に象徴される「明治六年政変」は、まさにこの時期に起きた。征韓論の説明は省略するが、長州閥と薩摩・大久保派を除く薩摩、土佐、肥前閥がこぞってこの時期に外征を主張した背景には、どの藩でも抱えていた士族の失業問題を解消、抑制するために、徴兵制が軌道に乗る前に大規模な外征を行って大動員を果たしたい、という狙いがあった(どこまで自覚的だったかは不明だが)。この辺の背景は、根源的には豊臣秀吉の朝鮮出兵とよく似ている。
ところが、紆余曲折があり、多数派だった征韓派は敗れ、西郷(薩摩)、板垣、後藤(土佐)、江藤、副島(肥前)の5人の参議が辞職した。これに伴い、薩土を主とする官吏、軍人600人ほどが同調、下野するが、うち軍人は400人超と見られる。
同時代を扱った小説では、「征韓派が一斉に下野して大混乱に陥った」などと書かれているが、当時の近衛兵(御親兵)1万人のうち、薩摩兵が4千、土佐兵が2千程度だったことを考えると、薩摩・土佐兵のうち征韓派に同調したのは10分の1にも満たなかったことが分かる。やはり、小説は小説であり、注意して読む必要がある。
この明治六年政変で征韓派が下野したのは、明治6年10月のことであり、その12月に上記の「秩禄処分」が開始されたのだから、士族からすれば「どこまでも救いが無い」と考えてもおかしくなかった。

秩禄処分は、激変緩和措置として当初は「家禄の自主返上者」のみを対象にしていたが、上記の通り補償が不十分だったため、一向に返上は進まず、業を煮やした明治政府は、明治9年(1876年)、秩禄処分を全士族への強制適用を決定した。
熊本・神風連の乱が同年10月、西南戦争が翌明治10年1〜2月に始まったことを考えれば、「封建的特権の廃止」こそが、士族反乱の最大の原因だったと考えるのが合理的だろう。
下野した西郷らは、鹿児島で「私学校」をつくり、士族子弟の教育を担うことで暴発を止めようとした、と今日では美談のように語られるが、その生徒数は700人程度で、原則的には城下士に限定されていた。つまり、「上京できず就職できなかった城下士」のみを対象にしていたのであり、郷士や陪臣などはここでも放置されていた。もっとも私学校は、鹿児島県下に支部をつくって郷士の組織化に努めていたようだが、実態はよく分からない。全体で見ると異なる風景も見えるかもしれない。

西南戦争で西郷軍が動員したのは鹿児島県人2万3千人だった(日向を含めると2.6万人)。鹿児島の武家当主3万7千人に対し、上京・就職できたのは7、8千人程度に過ぎず、鹿児島県庁に就職できた士族層を考慮しても、御一新で家禄を失い、失業した士族層が、倒幕戦のために準備された武器を持って反乱に立ち上がったと見るのが最も自然なのではなかろうか。仔細に見ると、私学校党が1万3千人、徴募兵が1万人となっている。つまり、「上京就職できなかった城下士とその子弟」が中核を担い、鹿児島近郊の郷士(麓郷士)を動員して初期兵力の1万3千人をなしたと見て良い。意外と外城郷士や陪臣層には不参加だったものが多く、それらは徴募という形で強制徴召集せざるを得なかったのだろう(初期動員時にも志願強要があった模様)。戦後の口述書や上申書の類いを見ると、意外と「場の空気で志願せざるを得なかった」とか「私学校党の区長に強要されて」などの供述が多いことが分かる。
鹿児島は単に武士が多すぎたのである。

【追記】
西南戦争における薩軍の戦死者は、薩摩大隅で3,263人、日向で650人だった。戊辰戦争の500人に比して、あまりにも大きいツケを支払わされたと言えよう。

【追記2】
最終的な薩摩武士の動向を大ざっぱに推計すると、西郷軍参加者が3万人(後方配置含む)、政府側についたものが1万人強、逃亡または動員拒否者が1〜2万人と考えられる。詳細は既存の郷土史研究を精査する必要があるので、良い資料をご存じの方がいらしたら是非とも紹介いただきたい。
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2017年02月08日

西南戦争の原因を考える・上

西南戦争の原因についてネットで論争しているのを見かけ刺激を受けたので、一説ぶってみることにした。
西南戦争の原因については、いまもって定説が無い。それは首謀者とされる西郷隆盛が戦争(反乱)目的について何一つ語らなかったためだった。結果、様々な仮説が立てられているが、仮説のままになっている。主なものを挙げると、「征韓論に敗れたため(安保政策の相違)」「欧化政策への不満」「士族特権廃止への不満」などがある。
このうち征韓論については、外征策が否定されたことが、果たして3万人もの人が武装蜂起する理由になるかと言うと、当時の空気感を考えても疑問を禁じ得ない。欧化政策については、反乱参加者の中に留学帰りのものもおり、3万人が武装蜂起する根拠としては弱い。士族特権の廃止は、最も合理的な理由ではあるものの、現実の西郷軍は同じく明治政府に不満を持つ他藩士からの協力申し出に恐ろしく冷淡だった。但し、最終的には7千人からの非薩人が参加している。

大きな社会現象を1つの原因の特定するのはあまり意味が無い。例えば、「第二次世界大戦は何故起きたのか」を考えた場合、その原因をヒトラー一人に負わせることは、むしろ事の本質を見失わせるだけにしかならない。
だが、そうは言っても、いくつかの原因を挙げて影響の大きさを論じることには意義があると考える。

そして、西南戦争を含む明治初頭の士族反乱について、必ず考慮すべき要素がある。それは「失業」だ。
まず、士族反乱の先鋒となったのは、長州諸隊の反乱だった。戊辰戦争は、明治2年(1869年)5月に北海道・箱館を拠点とする榎本武揚らの旧幕軍が降伏したことで終結する。同年7月には版籍奉還がなされるが、同11月、長州藩は財政再建を理由に長州軍(諸隊)5千人余のうち3千人をいきなり解雇、残る2千人余を「御親兵」として朝廷(新政府)に差し出して自らを武装解除してしまった。
これは「御一新・王政復古(中央集権)により諸藩が独自の軍を持つ必要は無くなった」という解釈の下、維新を推進した長州藩が他に範を示そうとして行う意図もあった。当時としては、革命思想の先端を行ったものだったが、解雇された者としては「維新を担って、幕軍を打ち倒したのはオレたちじゃねぇか!」という怒りを覚えるのは当然だった。しかも、拙いことに、解雇に際しては一時金もまともに支払われず、雇用継続の御親兵には士族階級が上から優先配置されたため、下級藩士や町人階層から「騙された!四民平等などウソだった!」という声が上がった。
結果、11月末には解雇に反対する不満分子が千人以上集まり、翌明治3年1月には蜂起、山口藩議事館(県庁)を包囲、藩兵を撃退、排除する事態に陥った(脱隊騒動)。1月末までには、農民一揆も加わって2千人を超える軍勢となり、新政府幹部の顔を青ざめさせた。そこで、2月には長州閥のリーダーである木戸孝允が自ら兵を率いて鎮圧に向かい、激戦の上、平定している。
現代の教科書等では、7年後に起きる「萩の乱」の方が大きく扱われているが、同乱の参加者は2〜300人でしかなく、政府が受けた衝撃は奇兵隊反乱の方がはるかに大きかった。

ここで戊辰戦争期の人口動態と動員力を考えてみたい。長州藩の場合、支藩を含めると、明治初年の人口が79万人で、うち士族2万人、卒族(足軽階級等)が2万3千人で、士卒の割合は5.4%とほぼ全国平均にあった。この数字は家族を含めるので、このうち戦時動員可能なのは7〜8分の1程度、実数にして6千人弱でしかない。長州戦争や馬関(下関)戦争に際し、高杉晋作が平民の志願兵で「奇兵隊」を結成したのは、兵力不足を補うためだった。ちなみに、小説等では八面六臂の活躍をする奇兵隊・諸隊だが、その実数は定数で1500人、実数で2千人超であり、世間の評価は過大と言える。
戊辰戦争における長州藩兵の死者は約500人、他に禁門の変、下関戦争、長州戦争等の死者が約千人なので(禁門の変だけで半分)、明治初年における長州藩兵が「5千人余」というのはごく現実的な数字なのだが、このうち士族は2千人前後と考えられるので、士族のみを御親兵にして雇用を守り、残りの足軽、中間、陪臣(家臣の家来)、平民を問答無用で解雇したのが、「脱隊騒動」の本質だった。
第一次世界大戦以降、戦死者の数が急増するので感覚が麻痺してしまっているところがあるが、民兵を含めて7500人の兵のうち1500人の死者を出した(戦死率20%)長州は、まさに「革命の推進者」だった。
鳥羽伏見の戦いが勃発して、長州藩執行部が倒幕戦を決心した際、実質上の軍最高司令官だった大村益次郎(村田蔵六)は、「この現状で幕府と戦争などできるわけがない。少なくともあと数年は必要だ」と(キャラに似合わず)叫んだとされる。
ちなみに、農民出身の大村に藩軍指揮を任せていた一点だけでも、長州藩は時代の革命者だったと言える。
以下続く
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2017年02月07日

残業規制で状況悪化か?

【残業上限は月60時間、繁忙期100時間 政府が改革案】
 政府は「働き方改革」で、これまで事実上、青天井になっていた長時間労働に制限を設け、残業時間の上限を繁忙期も含めて年間720時間、月平均60時間とする方向で調整に入った。忙しい時には月最大100時間、2カ月の月平均80時間までの残業は認める。労使との調整を経て、年度内にまとめる働き方改革の実行計画に具体策を盛り込みたい考えだ。
 現在の労働基準法は、労働時間の上限を「1日8時間」「1週間40時間」と定めている。ただ、同法36条に基づいて労使が協定(36〈サブロク〉協定)を結ぶと、法律の上限を超えた残業が認められる。
 その残業時間は「月45時間、年360時間以内にするのがのぞましい」としているが、労使間で「特別条項」を付ければ、年6カ月までは青天井にできる。長時間の残業を設定しても罰則がないため、長時間労働や過労死を生む原因と指摘されていた。いわゆる「過労死ライン」と呼ばれる過労死の労災認定基準は、1カ月100時間、または2〜6カ月の月平均80時間とされている。
 このため政府は、労働基準法を改正し、残業時間の上限を原則として「月45時間」「年間360時間」と規定。そのうえで、企業の繁忙期に対応できるよう6カ月は例外を設け、「月最大100時間」「2カ月の月平均80時間」の残業を認める。その場合でも、「年間720時間」「月平均60時間」に抑えるよう義務づける。違反に対しては、罰則を科す。
(1月29日、朝日新聞)

いかにもやる気の無い、表面上だけ取り繕った「改革案」である。
そもそも政府は「過労死ライン」を「月80時間」に設定しておきながら、「月60時間」を上限としている辺りで、いかにも「8掛けしておけばいいだろう」的な安直さが透けて見える。「繁忙期は月100時間まで」「2カ月で月平均80時間はOK」とか、過労死ラインすら無視されている。
月60時間は、月24日勤務と仮定して一日2.5時間、勤務8時間に休憩1時間を加えると一日11.5時間までの拘束が「合法化」されることを意味する。これに通勤時間往復2時間を加えると13.5時間にも達する。
このことは、逆に「年720時間までならノープロブレム」という大義名分を与えかねない危惧があることを示している。

また、違反企業には罰則を科すとしているが、現行、労働基準監督署は規模過少で機能しているとは言いがたく、電通事件を見ての通り、死人が出てようやく出向くレベルでしかない。労基署をよほど拡張しない限り、実効性はほとんど期待できない。

実効性という点では、「残業のアングラ化」も課題だ。現状でも、残業時間の過少申告やそもそも申告が認められない、あるいは労働者の判断で申告しないといった問題が山積している。これは、特に公務労働において著しく、例えば地方公務員の残業時間は、統計上、大ざっぱな全国平均で1時間に満たないわけだが、私が見聞きする限り「月100時間は当たり前」「月200時間以上の人もいた」レベルにある。特に都市部の社会福祉関係部署は相当にブラックな状況にある。先に私制服を着用して生活保護受給者を威嚇していた問題が明らかにされた小田原市の場合、ケースワーカーの定数29人に対し実働は25人だった。これは「まだマシ」な部類かもしれない。学校教員の場合、夜9時とか10時に退校して、夜半まで仕事するケースが報告されている。
民間企業では、「朝5時出社」という例が報告されており、何のことは無い勤務時間がずれただけになっている。

こうしたことが起こるのは、「管理職の命令」と「正規の手続き」という残業の大前提が現実には殆ど無視されているためだ。例えば、労働組合が機能している工場では、たとえ日本でも、定時になると労働組合の幹部が職場を回って、残業の有無を点検、「管理職の命令」「正規の手続き」を確認している。これは、労働組合が殆ど機能していないホワイトカラー職やサービス職ほど、「残業天国」が横行しやすいことを示唆している。
この「管理職の命令」と「正規の手続き」を徹底させない限り、「穴の空いたバケツ」の水を注ぐ結果にしかならないのだ。同時に、残業を命じる管理職の評価を下げる人事評価基準を導入しつつ、違法残業の内部通報制度を確立することが不可欠だ。

要は残業時間上限の問題では無いのだ。
マジで官僚どもは「Sねばいいのに!」と思えてくる。だが、これは単に官僚の問題では無く、「人を使い潰しても生産力を上げろ」という日本国の国家方針に起因しているのである。
posted by ケン at 12:11| Comment(0) | 労働、経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月06日

日立がウラン濃縮技術開発から撤退

【日立、700億円の営業外損失見通し 米国の原発事業で】
 日立製作所は1日、米国での原発事業で2017年3月期に700億円の営業外損失が出る見通しになったと発表した。世界的に原発の新設が鈍っていることを受け、米ゼネラル・エレクトリック(GE)との合弁会社がウラン燃料の濃縮事業から撤退するため。英国での原発新設については、コスト管理を徹底して予定通りに進めるとした。16年4〜12月期決算を発表する記者会見で、西山光秋専務が明らかにした。
 GEが60%、日立が40%を出資する「GE日立ニュークリア・エナジー」が、グループ会社で手がけていた燃料の新しい濃縮法の開発から撤退し、見込んでいた収益が得られなくなったという。損失の計上後、合弁会社の株式のうち、日立の持ち分の価値は約110億円しか残らないといい、「これ以上の大きな損失リスクはない」(西山氏)と説明している。 英国で20年代に4〜6基の原発を新設する計画について、西山氏は「海外で初めての建設で、もともとリスクはある。英国政府やプラントメーカーと協議し、リスク管理を徹底する」と話した。
(2月1日、朝日新聞)

東芝に引き続き日立もダメらしい。
もはや原発はビジネスとしては国内でしか成立しない模様。日立は英国での事業を続行する決意を示しているが、そのコストは天井知らずの状態にあり、攻勢限界点が見えながらも攻撃を止められない指揮官の様相を呈している。
欧米で成立しない原子力ビジネスが日本国内で成立するのは、低めに設定された安全基準がコスト超過を防いでいることと、国民負担が大きいことによる。

原発事業は自由主義経済下では成立し得ないことは自明であり、部分的統制経済下にある日本でも事業が困難になってきていることを示している。ちなみに「部分的統制」というのは、社会保障や電力、あるいは巨大な補助金や政策減税などを指している。
今後も原子力政策を継続できそうなのは、中国、ロシア、インドなど安全保障と統制経済をからめて戦略的に核保有を進める国に限られそうだ。そして、日本はより統制経済と権威主義体制に傾斜しつつ原子力政策を続けるか、現行の自由主義経済を維持して原子力を諦めるか、という選択肢を迫られることになりそうだ。
posted by ケン at 13:06| Comment(0) | 労働、経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月04日

2017年の迷宮初め

3人でGMT「Triumph & Tragedy」をプレイする予定だったが、1人不都合となり、K先輩と2人で「ラビリンス−テロ戦争」をプレイすることに。今年も迷宮人気に変化は無い模様。今回も先輩がアメリカ、私がジハーディストを担当した。

一戦目は、久しぶりに「覚醒」ではなくオリジナルの方をプレイすることに。シナリオは2001年。アメリカは、セオリー通り最初にアフガニスタンに侵攻。セルは、中央アジアとパキスタンに流出する。ジハーディストは、パキスタンでテロやジハードを実施するも、ダイス目が悪く上手く行かない。そうするうちにブット氏が首相に就任したため、パキスタンは諦めてまず中央アジアで、次いでイラクで革命を目指す。一方、米国では厭戦気分が高まり、穏健路線に転換してしまうが、イベントも相まってトルコの安定化に成功する。ジハーディストは、フセインを倒して原理主義政権を打ち立てるが、湾岸諸国とサウジには米軍が駐留、シリア、ヨルダン、トルコは比較的安定しており、「革命の輸出」が難しく手詰まりとなった。だが、カザフスタンで核兵器が流出、ちょうどイギリスに潜伏していたセルが、米国内に潜入してイベントでテロを計画、アメリカはそれを止めることかなわず、「米本土核テロ」が生起して、サドンデスとなった。
「覚醒」では、大量破壊兵器を入手して米本土で使用するよりも、アフリカ等にイスラム国をつくる方がはるかに「楽」になってしまっており、ジハーディストがパキスタンやシリアに固執する必要が低下している。それだけに、オリジナル版における「大量破壊兵器流出」のハラハラ感が非常に新鮮だった。

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二戦目以降はハウスルールを試してみる。「ジハーディストが有利すぎる」との共通認識から、いくつか案が出されたが、まずは私の「盤上に原理主義国が存在しない場合、ターン終了時にジハーディストの資金をマイナス2する(−1ではなく)」を採用することにした。ジハーディストが有利なのは、テロを行えば資金が入るので、資金に困るのは珍しいくらいレベルにあるが、他方でアメリカの威信はなかなか上がらないので、全般的に「ジハーディストはいつも余裕があり、アメリカはいつも苦しい」展開になりがちだ。このローカルルールを採用することで、多くの場合、原理主義国が無いとジハーディストの資金段階が1つ下がることになるため、少なくとも「ジハーディストはいつも余裕」ということは無くなるだろう、との読みがあった。

オリジナル版の2002年シナリオ(アフガン侵攻後、イラク侵攻前)を選択。このシナリオではセットアップ時に原理主義国がないため、3ターンにはジハーディストの資金が「最低」ランクになり、手札7枚、セル上限「5」になってしまう。そこで当然、「イラクで革命を」と考えるが、アメリカは先手を打って「イラクで大量破壊兵器発見」の濡れ衣を着せてイラクに侵攻、史実通りの展開となる。だが、アメリカも政府不信が高まって威信を「1」まで低下させてしまい、互いのダイス目の悪さも相まって、両者とも「手が進まない」ターンが続く。しかし、結局のところイベントによるプロット(テロ)や資金供給によって、ジハーディストが息を吹き返し、中央アジア、次いでトルコで革命を起こす。この間、アメリカは穏健路線に転換しており、手札の少なさに耐えきれず、アフガニスタンから撤兵していたが、そのアフガニスタンでも革命が起き、最後はスーダンに原理主義政権が誕生してサドンデスとなった。
アメリカは先手を打って中東のヘソ(湾岸、サウジ、イラク)を抑えたは良いものの、威信を最低値にしてしまい、そこから全く手が進まず、他方、ジハーディストは資金繰りに難渋すると同時に、兵力を分散させざるを得なくなり、苦しい展開となった。結果はともかく、ゲームバランス的には「悪くない」と判断された。

第三戦は、引き続き上記ローカルルールを採用しつつ、「覚醒」の2010年シナリオを試してみた。マリで早々に内戦が起き、セルが山のように現れてあっという間に原理主義政権ができたため、ジハーディストは資金に困らない展開となる。アメリカは最初から穏健路線で、威信も高かったため、原理主義国を放置して援助外交に専念する戦略を採った。普通ならジハーディストの「手」の方が早いはずだが、ダイス目が死ぬほど悪く、ダイス3個振って「1〜3」が2個出れば成功する大ジハード(革命)を三回やって一個も出ないという、恐ろしく無能な現場指揮官だった。結果、アメリカはアラブ、ジハーディストはアフリカという「棲み分け」がなされ、互いにソロプレイのような展開となるも、やはり最後はジハーディストが逃げ切ってサドンデスとなった。

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2017年02月03日

予備罪は立件が難しい

【<公明>「共謀罪」提出容認 党内調整「テロ対策なら理解」】
 公明党は、「共謀罪」の構成要件を絞り込み「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案の国会提出を認める調整に入った。改正案の対象になる犯罪を政府が現在想定している676から300前後に減らせば、テロ対策として世論の理解が得られると判断した。改正案は今国会で成立する可能性が出てきた。井上義久幹事長は27日の記者会見で「(法案の)必要性は認識している。国民の懸念をどこまで解消できるかだ」と指摘。「出せば成立を見込むのが基本だ」とも述べた。「共謀罪」は、捜査当局の拡大解釈で人権侵害を生む恐れがあると批判され、過去に3回廃案になった。一方、安倍晋三首相は改正案について今国会で「かつての共謀罪とは違う」と繰り返し答弁しており、公明党が提出に慎重姿勢を取り続けるのは難しくなっていた。
(1月28日、毎日新聞)

政府は、共謀罪と全く同じ内容ながら、「テロ等準備罪」と改称した。この辺の小手先技も、いかにも小者臭がする。政府の真の目的が「反体制派の一掃」である以上、堂々と治安立法の必要性を掲げて国民に訴えるべきだった。

例えば、ソ連の大粛清(Большой террор=大テロル)の場合、キーロフ暗殺を受けて、共産党執行部は「トロツキー一派による犯行」として「反革命が迫っている」との見解を示した。スターリンは中央委員会において、「階級闘争が進めば進むほど、反革命派は抵抗を過激化させており、この連中を完全に排除させない限り、階級闘争の勝利は無い」と演説し、大粛清を宣言した。
ソ連の場合、政治局員が白昼堂々とオフィスで党員に殺害されるという不始末(痴情のもつれという解釈もある)を「体制に対する反逆」と読み替えて、テロルを定式化させたわけだが、実際に農業集団化による農民の怨嗟は「現実的な危機」として共産党内で共有されていた。

ところが日本の場合、原発事故や集団的自衛権の解禁などで一時的に反政府運動が盛り上がったとは言えるものの、それも広範な国民的支持を得るには至らず、選挙では自民党の圧勝が続いている。ジハーディストによるテロは一件も起きていないし、計画がなされたという話も聞かない。つまり、強硬な治安立法を行うだけの立法根拠が何一つ無いため、苦しい説明をせざるを得ないのだろう。
同時に、外形的な立法根拠が何も無いのに、こうした治安立法を強行するのは、政府が自らの統治能力に自信を失っているためだと考えられる。興味深いことに、現場の警察官等からは「共謀罪が無いと治安が維持できない」などという声を聞いたこともない(本音ベースで「何故強行するのか分からない」と言う関係者もいた)。こうした状況は、1925年の治安維持法の時と酷似しているが、当時の方が「コミンテルン」や「共産党」の脅威は今日よりはるかに「現実的」だった。

そして何よりも予備罪や準備罪の立件は難しい。
政府はテロ等準備罪の構成要件を「テロ団体等、綿密な計画、犯行合意、準備行為」と説明している。だが、私が元ブントの人からヒアリングしたところでは大いに疑問符がつけられる。曰く、
「たまたま赤軍派(関西ブント)連中の溜まりのすぐ近くでビラづくり作業してたんだけど、あの連中は扉も閉めずに大声でハイジャックする話をしていて、それも銀行強盗でももっと真面目に計画するだろうというくらい、杜撰とすら言えない妄想の類いにしか聞こえなかった。それから10日後くらいに実行されて、あんなんで本当にハイジャックできるのか、とどうしても信じられなかった」

とのこと。現代でもジハーディストの自爆テロは、志願者に自爆用ベストを渡して行き先を指示するだけであり、果たして誰を対象にどこまで要件を成立させられるのか、疑問は尽きない。
この話の難しいところは、ブントを「テロ団体」としてしまうと、学生運動参加者を全員テロリスト認定することになるし、赤軍派に限定しようとすると別に党員登録されているわけではなく、みな自称しているだけなので(少なくとも当初は)、誰がメンバーなのか特定するのが難しいという問題が生じる点にある。つまり、「学生運動家」と「テロリスト」の線引きなど現実的には非常に難しく、ムリにやろうとすると冤罪の原因にしかならない。

2001年の米同時多発テロや、2015年の仏同時多発テロならば上記の要件も当てはまるだろうが、現実には限りなく個人レベルのテロや、計画性の無いテロ、模倣犯など、政府が挙げている要件を満たせないテロの方がむしろ多数と考えられる。
例えば、2013年の米ボストンマラソン・テロの場合、いまだに被疑者とテロ組織との関係は確認されず、計画と呼べるような計画書の類いも発見されていない。にもかかわらず、殺人などの罪状で死刑が宣告されている。この容疑者を、「テロ等準備罪」で取り締まれたかと言えば、まずムリだっただろう。

実際、治安維持法は「実際の適用が難しい」として適用緩和と対象拡大が進められ、戦前期の最大の悪夢となり、国民弾圧をほしいままに反戦・自由主義グループを一掃して、軍国と戦争に邁進する推進力になってしまったのである。
すでに先の刑事訴訟法改正で、通信傍受が大幅に緩和されたことを考えても、共謀罪と盗聴のコンボで「電話で冗談言っただけで逮捕」の環境が成立することだけは、覚悟しておいた方が良いだろう。
posted by ケン at 12:43| Comment(4) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月02日

トルコが首相位を廃止

【トルコ国会が改憲案承認、大統領権限を大幅に拡大 国民投票へ】
 トルコ国会(定数550)は21日未明、レジェプ・タイップ・エルドアン大統領の権限を大幅に拡大する憲法改正案を承認した。今年4月に改憲の是非を問う国民投票が行われる見通しとなった。深夜に開かれた議会で、改憲案は賛成339、反対142で承認された。賛成票は憲法改正を最終承認する国民投票を行うために必要とされている全議員の5分の3に当たる330票を上回った。
 トルコは大統領が国家元首だが議院内閣制を採用しており首相の権限が強い。改憲案は現代トルコで初めて大統領に行政権を持たせる内容で、広範囲に影響を及ぼすとして論争を呼んでいた。改憲案では大統領が閣僚任免権を持ち、トルコ史上初めて首相が廃止される代わりに1人以上の副大統領が置かれる。憲法が改正されれば議会選と大統領選が同時に行われることとなり、改憲案は最初の選挙の投票日を2019年11月3日と定めている。大統領が非常事態を宣言できる条件も緩和されるほか、当初宣言できる非常事態の期間も現行の12週間から6か月に延長される。
 国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチのトルコ代表、エマ・シンクレアウェブ氏はトルコの改憲案は米国やフランスなどの憲法と異なり、大統領の権力をチェックする機能がないと指摘。トルコ弁護士連合会のメチン・フェイジオール会長はトルコをオスマン帝国時代に引き戻すものだとして改憲案を厳しく批判している。
(1月21日、AFP)

日本のマスゴミはあまり取り上げていないようだが、これは本来相当にセンセーショナルなニュースであるはず。これも同じ目標を持つと思われる安倍政権への配慮かもしれない。

トルコは大統領府を置いてはいるものの、基本的には議院内閣制で、2007年の憲法改正前は議会から選出されていた。その権限は、人事権と拒否権を有してはいるものの、行政権や立法権は極めて限定的なものとなっており、ドイツのような象徴大統領以上だが、ロシアやフランスのような半大統領以下という制度になっている。だが、07年の憲法改正を経て、国会議員20人以上の推薦を得た者が立候補して国民投票で選出される仕組みに変更された。
そして、行政権は大統領の指名と議会の承認を経て就任する首相が担うが、長いこと議会が安定しなかったこともあり、本来強固な首相の権限が十分に発揮されなかった。そのため2度の憲法改正を経て、大統領や司法の権限強化が図られてきた。

今回の改革案は、議院内閣制から完全な大統領制に移行させた上で、さらに非常に強い権限を付与するというもので、大統領というよりも「総統」を思い起こさせる制度になっている。本来、議院内閣制は議会による権力の統制と安定に重きを置き、大統領制は権力の分立とバランス機能に重きを置くシステムなのだが、トルコの場合、安定を求めるがあまり、権力を集中させたまま大統領制への移行が模索されており、非常に権威主義的なシステムになる可能性が高い。今後は、議会の立法権や司法の独立がどこまで担保されるかに焦点が当たりそうだ。

トルコは不安定さを抱えつつも、欧米化と近代化を追求してきた中東の「先進国」だったが、そのトルコがアジア・ロシア的な権威主義に傾倒することになれば、その影響は中東や中央アジアに拡大するものと思われる。
posted by ケン at 12:43| Comment(0) | ロシア、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする