2026年05月29日

「明治維新」はもう止めませんか?

20260513SS00001.jpg

最新の研究成果は嬉しいものの、もういいかげん「明治維新」という呼称自体を再検討する頃合いなのではないか。
明治維新は新政府によるプロパガンダ呼称であり、ボリシェビキによる「十月革命」と同種(歴史修正主義的要素を含む)の呼称だからだ。

故に我々(幕臣末裔など)は「戊辰政変」を提唱している。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月06日

映像の世紀バタフライエフェクト 昭和天皇

20260419SS00001.jpg

NHK「映像の世紀バタフライエフェクト 昭和天皇」前後編をまとめて視聴。

貴重な映像の連続で非常に興味深かったが、どこまでも昭和帝の視点からのものだった。
以前ネトフリで配信していたロシアドラマの「トロツキー」は、どこまでもトロツキーの主観によるロシア革命物語だったが、元からそれが狙いだった。

これに対し、NHKの「昭和天皇」は変に客観的なドキュメンタリー形式にしているだけにタチが悪い。
確かに本人的には立憲君主たろうと心がけていたかもしれないが、最新の研究は多くの点で否定的である。

吉田裕『昭和天皇の終戦史』岩波新書
山田朗『昭和天皇の戦争』岩波書店
小宮京『昭和天皇の敗北』中公選書


くらいは事前に読んでおかないと、コロッと騙されるので要注意である。
posted by ケン at 12:00| Comment(4) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月01日

「心が折れる」は現代語ではない

オリコンニュースに
「心が折れる」という言葉の生みの親は
女子プロレスラー・神取忍だった
辞書にも明記

という記事があり、Xで「その使い方はもっと昔から存在した」旨の反論があり、興味を持った。
私も(退役済み)日本語教員としてその反論を支持する必要があるので、ちょっと調べてみた。
片手間でやるのは、国会図書館と国会会議録である。

もっとも古い用法としては、明治34年「将軍家隠謀毒殺騒動」に「送った艶書を見たら堅とは心が折れる筈」とあった。
これは講談本なので、当時すでに普通に口語で使用されていたことを暗示している。
ただし、「芯(しん)が折れる」なのか「心(こころ)が折れる」なのかは微妙なところがある。

20260410SS00002.jpg

だが、徳冨蘆花「寄生木」(明治42年)には、「頑强の人も流石に心が折れるだらう」とあり、ほぼ現代の用法と変わりはない。

20260410SS00003.jpg

その一方で「ユリッシスのむごい心が折れるやうにおつとめ」(アナトール・フランス「女優タイス、昭和13年」)「始めてこの男の頑固な心が折れるやうになつた」(トルストイ全集、昭和13年)のように、「頑固だったものが意見を変える」意味で使っている場合も散見され、誤用なのか本則なのかは不明である。

さすがに国会議事録では近年まで確認されず、「最も古い」用法としては、わが友人である村井宗明君が「心が折れるまで徹底的に任意で取り調べをするというのは、冤罪を生む今回のような要因だった」(第168回国会衆議院法務委員会、2007年11月6日)と述べている。さすが村井くんだw

20260410SS00004.jpg

元記事のような事実誤認はまま存在する。
私が外大の大学院で日本語教育を専攻していた際、授業で専門の教員(准教授)が「足に関する慣用句をあげてみよ」と言うので、「(ヤクザから、田んぼから)足を抜く」「(郭から)足抜けする」をあげてみたところ、教員含めて誰も知らなかったという事実がある。
このショックは20年以上経た今も鮮明に記憶している。
日本語専攻の教員や学生が誰も時代小説や歴史小説を読んでおらず、講談や落語を聞いたことがなかったのだから。

だからこそ我々は勉強し続けなければならないのだ。
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年04月28日

渡邊勉『調査票のなかの「戦争」京浜工業地帯の労働者一万四千人の記録から』

normal_1f5bcd81-52b5-4697-8383-d724b19ed7ab.jpg
渡邊勉『調査票のなかの「戦争」京浜工業地帯の労働者一万四千人の記録から』勁草書房(2026)

「戦争でみんな苦労した」は本当か。終戦後の調査データから、誰が戦争を経験し、戦後に困難を抱えたのか、人びとの人生を読みとく。
終戦から6年後、京浜工業地帯の労働者一万四千人を対象に実施された調査には、人びとの生活実態とともに、徴兵、引揚、戦災といった戦争経験の質問項目も含まれていた。


これから読むのだが、

「戦争経験の偏り」は本当に存在する。
ガダルカナルやインパール帰りの兵士は戦後ほぼ語らない一方、世には旧軍士官の都合の良い回顧録ばかりが出回っている。
戦後は「一億総被害者」意識が形成されていったものの、現実には日中戦争や日米開戦に際しては快哉を叫んだ国民が大多数を占めていた。

戦時中、祖母は調布・国領に住んで、東京重機(JUKI)の工場で産業医を務めていたが、近くに調布飛行場(陸軍)と中島飛行機(現ICU)があった関係で、頻繁に空襲を受けていた。
米軍のB29が落とした1トン爆弾の不発弾が国領駅近(京王線の線路沿い)で発見されたのは2008年のことだった。
だが、戦後は会社から工員寮(八雲台)を激安で払い下げてもらい、そこで開業。調布狛江の元女工からアイドル扱いされ開業医となったため、「戦争はろくなもんじゃない」と言いつつ、必ずしも悪い印象ばかりではなかったように見受けられた。

序章 過去の戦争を語ること

第1章 京浜工業地帯の労働者の戦争経験
 1 六割の不思議
 2 さまざまな人生
 3 京浜工業地帯調査を分析する
 4 戦後データでは語れないこと
 5 なぜデータ分析なのか
 6 不平等と移動

第2章 調査データから見える戦争経験
 1 戦争経験と世代
 2 被徴兵者の特徴
 3 外地居住・引揚の特徴
 4 戦災被災者の特徴
 5 徴兵、引揚、戦災の違い
 6 人びとの戦後の生活

第3章 京浜工業地帯で働く人びと
 1 京浜工業地帯とは
 2 一九五一年の労働者
 3 京浜工業地帯の労働者を類型化する

第4章 戦時に人びとはどのようなライフコースをたどったのか
 1 戦時期の移動と生活
 2 移動から見える人生
 3 戦時下のライフコースパターン
 4 ライフコースパターンと属性
 5 ライフコースパターンと戦争経験

第5章 人びとはなぜ戦争に巻き込まれたのか
 1 戦争経験者は誰なのか
 2 誰が徴兵されるのか
 3 誰が外地へと向かうのか
 4 誰が戦災被災者となったのか
 5 年齢、地域、階層と戦争経験

第6章 戦争経験は戦後の生活をいかに変えたか
 1 戦後の生活
 2 戦争経験者は不利だったのか
 3 戦争経験と失業、転職、転居
 4 戦後の生活の不安定さは解消されるのか
 5 戦中戦後の地位の上昇・下降
 6 一九五一年の収入を再び

第7章 女性たちの戦後
 1 女性労働者の戦後と有配偶率
 2 どのような女性が働いていたのか
 3 女性労働者像を描く
 4 配偶者がいないのは誰なのか
 5 配偶者がいないことの不利さ

終章 戦争とは人びとを選別するシステムである

あとがき
参考文献
索引
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年04月25日

「国鉄分割・民営化問題」 日本労働年鑑1987年版 レジュメ

(10年以上前に某研究会で発表したレジュメである)

0.キーワードと問題点
 「第二臨調」「マスコミによる国鉄批判」「政府の対応と各党の対応」「国鉄再建監理委員会」「分割・民営化路線と国鉄当局の対応」「ダイヤ改正と合理化」「労働組合の対応と対立」「労働組合と社会党の再建提言」「国鉄分割・民営化関連諸法」「採用差別」

 国鉄の分割・民営化問題は、1981年3月16日の第二臨時行政調査会の発足に始まり、86年11月28日に国鉄改革関連8法案が成立したことで法的整備が終了した。行政改革の推進体としての政府・第二臨調の動向、国鉄当局の対応の推移、国鉄内の各労働組合の動向の各点から同問題の経緯を検証する。

1.分割・民営化論の台頭から具体案の作成まで
1−1.第二臨調の発足と国鉄分割・民営化の論議の発端

 臨時行政調査会(第二臨調)は1981年3月16日に鈴木内閣によって首相の諮問機関として発足。その背景として、79年10月の総選挙で一般消費税の導入を唱えた自民党が敗北(511議席中248議席、社会党は107議席)、消費税を諦める代わりに歳出削減を目指して行政改革を目指すことになった。第二臨調は、土光敏夫経団連名誉会長を会長として発足するが、土光は会長就任の条件として、増税なき財政再建とともに三公社の民営化を条件に出して鈴木首相に了承させた。
81年7月10日に第一次答申が提出されるが、ここでは財政支出の削減と行政効率化にのみ触れ、国鉄問題は同年9月に設置された部会で審議されることになる。部会の審議と並行して、マスコミによる国鉄および国鉄労働者の批判キャンペーン(ヤミ手当や職場慣行の暴露)が始まり、分割・民営化に対する肯定的な世論形成に寄与した。
 82年2月5日、自民党は国鉄基本問題調査会の下に国鉄再建小委員会を設置し、労使関係を重点に調査・審議を進め、7月2日に「国鉄再建のための方策」を提出したが、それは国鉄の経営改善計画の最終年度である85年度を目標に「現体制の下で改善努力する」とあり、それが不可能な場合、87年度を目途に国鉄を北海道、本州、四国、九州の4つに分割・民営化するというものだった。

1−2.臨調「基本答申」と政府・各党の対応
 臨調の第四部会は1982年5月17日に電電公社・専売公社の民営化、国鉄の分割・民営化を旨とする報告書を提出。手直しを経て7月30日の臨調基本答申(第三次)に盛り込まれた。「単なる現行制度の手直しでなく、公社制度そのものの抜本的改革を行い、民営ないしそれに近い経営形態に改める必要がある」というスタンスで、分割は「七ブロック程度」、国鉄再建監理委員会を行政委員会から附属機関へと変更した。(筆者註:行政委員会は国家行政組織法第三条に規定され、独立性と中立性の担保が求められるため、強い権限を犠牲にしてでも政府への従属を重視したものと見られる)
国鉄を民営化する理由として、「経営者の経営責任の自覚と経営権限の確保」「職場規律を確立し、生産性を高めること」「政治や地域住民の過大な要求や外部介入を排除」に適した形態であること、「幅広く事業の拡大を図ることによって、採算性の向上に寄与することができる」経営形態であることを挙げている。
 同時に分割化の理由として、現在の巨大組織では管理の限界を超えていること、管理体制が地域の実態とかけ離れた「全国画一的な運営に陥りがちであること」、「地元の責任と意欲を喚起すること」が分割で可能となる、という三点を示している。
 82年9月24日、基本答申に基づいて政府は「非常事態宣言」を発し、「国鉄再建関係閣僚会議」の設置を決め、11月19日の閣議で「国鉄再建監理委員会設置法案」を決定、12月7日に中曽根首相を本部長とする「国鉄再建推進本部」が設置された。
 臨調の基本答申を受けての野党各党の見解は次の通り。

社会党「三公社の民営・分割は利用者に利益をもたらさず反対」
公明党「答申の基本的方向性はおおむね妥当」
民社党「国鉄再建監理委員会は全面的権限をもつ強力な機関にすべき」
共産党「断固として反対していく」

1−3.国鉄再建監理委員会の設置と緊急提言
 国鉄再建監理委員会設置法は、83年5月13日に可決、成立。監理委員会は、運輸省などからの反対もあって、三条委員会(庁と同格)から八条委員会(審議会級)にされるが、「限りなく三条に近い八条」と規定された。監理委員会は83年6月10日に発足するが、そのメンバーは亀井正夫委員長(住友電工会長)を筆頭に、加藤寛(慶應大学教授)、隅谷三喜男(東京女子大学学長)、住田正二(運輸事務次官)、吉瀬維哉(日本開発銀行総裁)の五人。
(筆者註:このうち亀井、加藤、住田が積極派、隅谷と吉瀬がやや慎重という色分けだったようだ。当時、運輸省は消極派がやや大勢を占め、大蔵省は債務負担に難色を示していた。)
 監理委員会は83年8月2日に「国鉄再建のための緊急措置について」を提言するが、経営合理化を要求するにとどまり、当時実施中だった国鉄の「経営改善計画」の破綻が明らかになった後、84年8月10日の第二次提言で分割・民営化の基本方針が盛り込まれた。
 国鉄側では、84年6月21日に仁杉国鉄総裁が基本的に分割・民営化に賛成との見解を表明。同盟系の鉄道労働組合(鉄労)も6月26日の中央委員会で、地域本社制と特殊法人への転換、国鉄自らによる分割・民営化の推進を提言した。
 84年8月10日の第二次提言は同月14日の閣議で了承されるが、社会党と共産党は分割・民営化に
に反対を表明、公明党と民社党は提言を評価し妥当な内容との談話を発表した。

1−4.国鉄再建監理委員会の最終提言
 監理委員会は85年7月26日に「国鉄改革に関する意見‐鉄道の未来を拓くために」と題する最終答申を中曽根首相に提出した。答申提出直前に総裁を辞任した仁杉氏は「再建監理委員会と話し合える機会がなかった」と記者会見で話しており、国鉄当局が無視されていた経緯が見える。答申は、現行制度の下での再建は不可能であるとして、分割・民営化は不可避との基本方針を示した。具体的内容では、旅客会社の地域6分割、バス・貨物・新幹線などの18分割、計24分割案が提起された。
 答申を受けた政府は85年10月11日の閣議で「国鉄改革のための基本方針」を決定、分割・民営化の時期を87年4月1日として、必要な法案を提出する方針を決めた。
 分割・民営化については、自民党、新自由クラブ、民社党、公明党が賛成。当初反対していた社会党は、85年初めから独自案の検討を開始、86年には全国一社制の株式会社化を目指す案を発表。86年6月の衆参同日選に際して田辺書記長は、政府案を練り直すなら社会党案にこだわらないと、条件付きの分割・民営化を容認する発言を行い、これが国鉄労働組合(国労)を分裂に導く一つの原因となる。また、共産党は分割・民営化に最後まで反対した。

2.分割・民営化路線と国鉄当局の対応
2−1.国鉄労務問題

 82年初頭からマスコミによる国鉄批判キャンペーンが本格化し、2月5日には自民党は三塚委員会(国鉄再建小委員会)を発足、労使関係の調査と指針の作成を始めた。(筆者註:マル生運動=70年代に始まった「生産性向上運動」のこと、管理側と国労・動労が激しく対立、後に「スト権スト」へと発展してゆく)
 7月19日には総裁通達で現場協議協約の改訂案が示されるが、国労はこれを拒否して交渉決裂、82年11月30日には協定が失効するが、動労・鉄労・全国鉄道施設労働組合(全施労)は国鉄当局案で協定を締結した。
 当初、国鉄当局は既存の労使関係を前提に、労使関係の改善と人員削減を中心とした合理化の促進によって分割・民営化を免れると判断していたが、臨調改革はこれを否定していた。83年11月25日に臨調や監理委員会に批判的だった木文雄総裁が辞任。分割・民営化に賛成する仁杉新総裁が就任した(85年6月まで)。
 これらに並行して貨物経営の合理化、ダイヤ改正、人員削減、地域別運賃制の導入などが進められた。余剰人員対策は1984年10月に実施されるが、動労・鉄労・全施労とは交渉が妥結する一方で、国労、全動労、動労千葉とは交渉打ち切りになり、同三者に対しては「雇用安定等に関する協約」を破棄する通告がなされた。86年3月には当局から広域異動も提案され、87年1月末の集計では希望退職者は3万1476人と予定の2万人をはるかに超えた。

2−2.国鉄当局の独自案
 1985年1月には国鉄当局が改革案「経営改革基本方策」を提出。政府出資による全国一社制の民営化であったが、政府や監理委員会は受け入れることなく、マスコミや左右各政党から批判にさらされ、逆に政府・自民党に国鉄首脳陣の一新を決意させるに至った。監理委員会の最終答申が出される約一か月前の85年6月21日に仁杉国鉄総裁は辞任、次いで首脳陣の分割反対派は一掃され、運輸省事務次官の杉浦喬也が新総裁に任命され(任命権限は運輸大臣)、分割・民営化の実施体制が確立した。

3.分割・民営化と国鉄労働組合運動
 国鉄分割の目的の一つは、巨大労組の解体にあったが、労使協調派の鉄労も最初から分割・民営化に賛成していたわけではなかった。マスコミの批判は国鉄労働者の不正を暴き、現場協議制を諸悪の根源として、経営者を「無能ぶり」に焦点を当てることで成立していたが、鉄労側が国労や動労を内部告発すると言った組合間の対立も深刻だった。
3−1.労働組合の国鉄再建案
 動労は、1984年と85年の運動方針で分割・民営化に反対していたが、86年7月の大会方針で分割・民営化容認に転じた。鉄労は、83年以前は同問題に触れておらず、84年の大会で民営化を容認、85年の大会で分割・民営化を容認した。
 国労は、83年1月に「国鉄研究会」を発足させ、84年10月5日に全国一社制の事実上民営化を容認する「国鉄の経営再建に関する提言」が完成するが、自らの方針に反するとしてこれを否定した。85年3月の中央委員会では分割・民営化に反対する再建案が承認されている。
 社会党は84年10月5日の「国鉄再建プログラム」で分割・民営化を批判していたが、85年8月21日に同党国鉄再建対策委員会が提出した対策では分割阻止に重点が置かれ、政府出資の企業としながらも部分的に民営を容認した。同時期に公明党が民営化に賛成しながらも分割に慎重な姿勢を見せていたことに対応したものと見られる。
 同時期に総評が主体となって「分割・民営化反対闘争」「5000万署名運動」が起こるが、分割(のみ)反対と分割・民営化反対の対立が起こるが、総じて市民運動は一定の盛り上がりを見せた。

3−2.労働組合の再編
 1986年1月13日に国鉄当局は「労使共同宣言」を用意して、各組合のトップと会談を行った。鉄労、動労、全施労は調印し、批判を浴びた動労は7月の総評大会で脱退した。他方、国労は全面否定し、再建闘争と雇用問題に全力を注ぐとした。
 86年1月28日には政府・自民党の国鉄改革法案と、社会党の非分割・株式会社化を内容とする対案が発表された。社会党案は国労の中央委員会で賛成多数で支持されたものの、反対意見も強かった。
国鉄当局が広域配転を募集し、三組合が協力、国労が抵抗する中で、国労からの脱退者が出始め、86年4月13日には国労脱退者約1200人が「真国鉄労働組合」を結成し、三組合と共同歩調を取り、7月18日には鉄労、動労、全施労、真国労の四組合で「国鉄改革労働協議会」(改革労協)が結成された。これは新会社発足後に「一企業一組合」を目指す方針だった。
 1986年7月6日に行われた衆参同日選の結果、自民党が圧勝し、分割・民営化の既定路線が明らかになってくると、国労からの脱退や内部分裂が加速する。改革労協が争議権行使の自粛と引き替えに労使協議を始める中、国労は当局との雇用安定協定を失効させたままであり、国労組合員の雇用不安は高まる一方だった。ところが、労使協調派の離脱が進む中で、国労内には分割・民営化反対派が相対的に勢力を増し、86年10月9日の国労第50回臨時大会では分割・民営化反対の方針堅持が決定してしまい、執行部は総辞職、旧主流派が国労を大挙脱退して、さらに分裂が進んだ。85年12月には7割あった国労の組織率は、86年10月には5割を切り、87年2月には3割を割った。

4.国鉄改革法案の成立
 1986年9月11日、政府は国鉄改革関連法案を臨時国会に提出した。87年4月1日付けで、旅客六社と貨物会社を分離、新幹線は保有機構を設置して一括保有で貸し付け、現国鉄は新事業体を分離した後に清算事業団となり、北海道、四国、九州の三社については経営安定化基金を設立するという内容だった。主な争点は、分割・民営化の是非、長期債務の処理、新会社の収支予測、国鉄用地の処分方法、職員の新会社への移行と再就職などだった。
 社会党は「非分割・民営化」の独自案を提出、共産党は徹底抗戦、公明党は分割・民営化に賛成だが本州二分割案を提唱した。
 民営化に際して職員をそのまま引き継いだ電電公社や専売公社のケースと異なり、国鉄職員の中から21万5千人を選別採用することになっていた上、国鉄の労使は新会社の採用基準や労働条件について団体交渉できないことになっており、新会社に採用されない職員は自動的に清算事業団に移って再就職の斡旋を受けるが、採用計画は不明確だった。
 衆参両院の国鉄改革特別委員会を中心に、衆議院では約56時間、参議院で約46時間の審議で採決され(筆者註:国会の常識では重要法案は100時間近くの審議が目処とされる)、86年11月28日、参院本会議で国鉄改革8法案は自民党、公明党、民社党、新政クラブ、サラリーマン新党などの賛成多数で可決、成立した。
posted by ケン at 12:00| Comment(4) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年03月17日

内乱の満州

満州国は1932年3月に成立、日本の傀儡政権が誕生したことで、東北三省は実質的に日本の支配下に入ったと考えるものは多い。
この認識は現代はおろか、当時でもそう考えるものが少なくなかった。
だが、現実の満州はタリバン政権樹立前のアフガニスタンやベトナム戦争中の南ベトナムのような内戦状態にあった。
ゲーマーであれば、GMT「A Distant Plain」や「Fire in the Lake」を思えばよい。

満州事変当時(31年9月)、関東軍の兵力は1個師団、2個旅団その他で平時定数は2万強でしかなかった。
対する張学良軍(国民党支持)の戦力は20万人以上とも言われ、それだけに中国側は「いざとなれば、兵数で日本軍を圧倒できる」と考える向きが強かった。
事変勃発時、張学良は北京におり、「不抵抗」を指示したため、奉天は関東軍に制圧されたが、もし張が徹底抗戦を指示していたら、どうなっていたか。
実際、2万の兵力ではごく部分的にしか制圧できず、関東軍は朝鮮軍などの進出を待って満州北部に進撃している。

結果的に関東軍は満州を支配し、満州国を樹立したものの、張学良軍の一部は山海関を越えて本土に退避、残りは匪賊化したり、満州国軍に参加したりとなった。
これはまともな戦闘が起こらなかったが故の結果でもあった。

満州国は成立したものの、全く信頼性の無い満州国軍を、ごく少数の日本軍(関東軍)が補助する形で治安を担うところとなった。
また、匪賊(ゲリラ、パルチザン)と言っても、旧軍閥系、国民党系、共産ゲリラ、大小野盗集団など余りにも多岐にわたり、その数は少なく見積もって10万人、多く見積もれば20〜30万人という有様だった。
実際のところ、少なくとも1936〜37年前後まではゲリラが猛威を振るっており、新京(長春)や奉天(瀋陽)であっても市内から数里も離れれば、匪賊が横行する地帯となり、裕福そうな日本人と見られればすぐに拉致、人質にされてしまう世界だった。
これに対し、日本軍は満州国軍を指導しつつ「治安戦」を実行、ゲリラの拠点と見なされた村は焼き払われ、住民は強制移住、難民キャンプに押し込まれた。
さらに裕福そうな土地には、日本からの「移民団」が来て中国や満族の農民を強制排除して農地を奪い、排除された農民は匪賊に参加するほかなかった。
満州国軍には日本人の軍事指導者が顧問として参加するが、多くの場合この日本人は傍若無人、傲岸不遜で山ほど殺害されている。

4人用COINゲームにたとえるなら、プレイヤー4人で各「日本」「満州国」「軍閥」「共産党」に分かれて覇権を争う形である。
ただ、「A Distant Plain」のアメリカ軍はアヘン栽培地を焼き払い、カーブル政権の不正をただす役割を果たすが、満州の日本軍は自らがアヘンを栽培し、本土につくった傀儡政権(冀察政務委員会など)を通じて中国本土に密輸したり、満州国内でも販売して機密費をつくった。また、満州国軍に武器を横流ししたり、自ら様々な密貿易を行ってもいた。そのすさまじい腐敗ぶりを知ると、「何だかんだ言ってアメリカ人はまとも」と思えてくる。

日中戦争の勃発によって満州におけるゲリラの活動も小康状態になるものの、満州国の支配が確立したわけではなく、腐敗、不満、不和、対立の状態が1945年8月まで続いたのである。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年01月28日

杉洋平 『帝国陸軍―デモクラシーとの相剋』

102863.jpg
杉洋平 『帝国陸軍―デモクラシーとの相剋』 中公新書(2025)
陰湿、粗暴、狂信的…...と語られてきた大日本帝国陸軍。しかし実際には、建軍当初から、国際的視野を持つ開明的な将校などは多く存在していた。一九四五年の解体までの七十余年で、何が変化したのか――。本書は、日露戦争勝利の栄光、大正デモクラシーと軍縮、激しい派閥抗争、急速な政治化の果ての破滅まで、軍と社会が影響を与え合った軌跡を描く。陸軍という組織を通し、日本の政軍関係を照らす、もう一つの近現代史。

正月休みを利用して配信で映画「戦争と人間」(1970-73)を見た。
戦争シーンのちゃちさは別にして、満州をめぐる利害関係や当時の人間像が現実味を持って描かれていた一方で(前提知識がないと何を描いているのかさっぱりわからないが)、1928年段階で軍人が街中で軍服を着用して歩き回り、居丈高に振舞っている点には若干の違和感を抱いた。
公開当時は大人気を博したというから、軍隊を知る人がまだまだ多かった当時としては「傍若無人な軍人」像は一種の共通認識だったに違いない。

逆に岡本喜八版「日本のいちばん長い日」(1967)を見た、当時まだ存命だった旧軍人の当事者たちは「俺たちこんな狂ってない」と人物の描き方に強い不満を示したという。「敗戦を認めようとせず聖戦貫徹クーデターを企図した狂気の軍人」像は当事者からすると、違和感しかなかったらしい。

わが一族の陸軍軍人を俯瞰すると、士官学校から中野学校(日中戦争初期)に行き、情報将校を務めた伯父(父方祖母の兄)は戦後国会図書館の調査員やロシア語通訳を務めていただけに普通のインテリであり、軍人らしい折り目正しさはあったものの、威圧的・暴力的・精神主義とは全く無縁だった。
無天組(非陸大卒)ながら中将に上り詰めた伯父(母方祖母の伯父)は軍人らしい威儀はあったものの、幼少の母や叔母に対しても常に丁寧語で丁寧に話しかけたという。そこには常に命令口調で断定し、上から目線でものを言う軍人像は無い。この伯父は戦時中は法政中の校長を務めていたが、ある日教員室で教員が「高射砲って何であんなに当たらないんですかね」と話し、数学教員が数式を立てて「確率論的に無理」と説明していたのを聞き、怒るのではなく「その数式は正しくありません」と丁寧に訂正式を述べたという。その伯父は重砲兵学校長をも務めた専門家だった。
もっとも、この伯父の弟の元歩兵大佐の方は、当時の多くの日本人がイメージする軍人(威圧的で精神主義)だったらしいので、歩兵科はやはりその傾向が強かったのかもしれない。

前段が長くなったが、『帝国陸軍―デモクラシーとの相剋』は日本陸軍が自らの在り様(自己規定)をいかに模索したかという観点から見た陸軍史である。
明治陸軍はまず皇室の守護者として成立するが、士族軍ではなく国民軍をめざして徴兵制度を導入したため、国民軍的要素を持たざるを得なくなった。そのため、成立からして「皇室の私兵」(皇軍)と「国民の軍隊」(国軍)の二面性を有していた。
だが、特に日露戦争を経て動員対象が肥大化していくと、国民軍的要素を強調せざるを得なくなる。
同時に植民地が拡大するにつれて、軍隊の規模も肥大化し、官僚化も進んでいった(圧倒的に日本最大の官僚組織)。

軍の規模が小さいときは、徴兵は建前で実際には頑健で国家・皇室に忠誠を誓うものを選別して入隊させられたが、動員対象が広がると、そうも言っていられなくなる。特に大正期には高学歴化が進み、都市部ではインテリ層や富裕層の入隊も増えるが、隊内で様々な差異のある兵隊間でどのように調和を取るかが課題となった。

第一次世界大戦は陸軍に総力戦の模索を迫ると同時にデモクラシーへの対処を求めるところとなった。
この一見矛盾する要素は実は密接な関係にある。
そもそもフランスで徴兵制が施行され国民軍が成立したのは、全欧州諸国による革命政府打倒を目的とした介入戦争を勝ち抜くために必要だったためだった。総力戦という概念は一次大戦期に成立したものだが、18世紀末のフランスは革命戦争という名の総力戦の萌芽を経験していた。
そもそも貴族制度や王政と徴兵制・国民皆兵制は相性が悪い。大半の農民は「なんで貴族のために俺が戦争いかなきゃならんのよ」と思うからだ。逆に「貴族が戻ってきたらお前らに分配した土地や財産は没収されるんだぞ」と言われれば、大量動員にも従うだろう。

一次大戦によって三大帝政国家(露独墺)が瓦解したのを見た日本政府はある程度民主化を進めることを(嫌々ながら)決断する。いわゆる大正デモクラシーである。
軍部もまた政府や世論の意向に従うと同時に、また総力戦(近代戦争、軍の近代化)に備える必要から、デモクラシー要素を導入しつつ、軍縮を進めることになる。平時には小規模の軍隊としつつ、戦時には大量動員を可能とするシステムが模索される。

現代人にはイメージしづらいだろうが、大正期の軍隊というのは非常に社会から疎まれていた。軍人は制服を着ていると「このただ飯食らい!」「税金泥棒!」と罵られため、自宅から駐屯地や勤務地までは背広などの平服で通勤した。軍人には嫁の来てがなく、見合い相手が軍人とわかった親は話も聞かずに断るのが常だった。陸軍士官学校の定員は半分の200名ほどとなったうえ、合格者のうち100人以上が辞退して高校などへの進学を選択した。
この時期に生まれ育った祖父は、戦時期に市電で「皇居を遥拝しなかった」「外国語の本を読んでいる」などと難癖をつけられて軍人に殴打されるという経験をしている。こうした世代が戦後の「逆コース」をギリギリのところで押しとどめ、形だけでも平和国家をなさしめたと言って過言ではない。

これもイメージしづらいのだが、日露戦争に勝利したのは、このわずか10年ちょっと前のことだった。
実は日露戦勝時も、軍人がもてはやされたのは一瞬だけで、多くの場合はすぐに厄介者と見なされることが多かった。軍部の規模が大きくなり過ぎて民業を圧迫したことも大きかった。(参考:日露戦争のツケ)
一次大戦で景気が良くなると、多少軍部への風当たりは良くなったものの、シベリア出兵(ロシア革命介入戦争、シベリア侵略)で再び軍部への風当たりが強くなり、一気に「大正デモクラシー」の世相となる。
軍部もまた世相に合わせるべく、国民の支持を得るべく軍内のリベラル化を進めていく。

その一方で軍部には日露戦争での勝利にこだわるものや、官僚組織としての軍の影響力・組織拡大を最重要視するものも多く、それは軍拡や植民地拡大への野望となって表れていく。
特に1930年代に入り、欧州や中国情勢が緊迫し、日本国内で政治不信が高まると、再び軍部の影響力が増大、軍内のリベラル派や軍縮派が沈黙していく。
満州事変は大正デモクラシーの世相を一掃するに十分で、この後515、226事件や国体明徴運動を経て、帝国陸軍もまた「威圧的・暴力的・精神主義」の様相を一気に深めていくのであった。

本書は普通に読んでも考えさせられるところはあると思うが、一定の知識があると色々な関係性やつながりが理解できて、軍部への解像度が高まるであろう。

目次
はしがき
第1章 栄光からの転落
第2章 第一次世界大戦の衝撃
第3章 ポスト大戦型陸軍への挑戦
第4章 「大正陸軍」の隘路
第5章 「昭和陸軍」への変貌
第6章 陸軍派閥抗争
第7章 政治干渉の時代
第8章 日中戦争から対米開戦へ
終 章 歴史と誤り
あとがき
主要参考文献
関連年表
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする