(10年以上前に某研究会で発表したレジュメである)
0.キーワードと問題点
「第二臨調」「マスコミによる国鉄批判」「政府の対応と各党の対応」「国鉄再建監理委員会」「分割・民営化路線と国鉄当局の対応」「ダイヤ改正と合理化」「労働組合の対応と対立」「労働組合と社会党の再建提言」「国鉄分割・民営化関連諸法」「採用差別」
国鉄の分割・民営化問題は、1981年3月16日の第二臨時行政調査会の発足に始まり、86年11月28日に国鉄改革関連8法案が成立したことで法的整備が終了した。行政改革の推進体としての政府・第二臨調の動向、国鉄当局の対応の推移、国鉄内の各労働組合の動向の各点から同問題の経緯を検証する。
1.分割・民営化論の台頭から具体案の作成まで
1−1.第二臨調の発足と国鉄分割・民営化の論議の発端 臨時行政調査会(第二臨調)は1981年3月16日に鈴木内閣によって首相の諮問機関として発足。その背景として、79年10月の総選挙で一般消費税の導入を唱えた自民党が敗北(511議席中248議席、社会党は107議席)、消費税を諦める代わりに歳出削減を目指して行政改革を目指すことになった。第二臨調は、土光敏夫経団連名誉会長を会長として発足するが、土光は会長就任の条件として、増税なき財政再建とともに三公社の民営化を条件に出して鈴木首相に了承させた。
81年7月10日に第一次答申が提出されるが、ここでは財政支出の削減と行政効率化にのみ触れ、国鉄問題は同年9月に設置された部会で審議されることになる。部会の審議と並行して、マスコミによる国鉄および国鉄労働者の批判キャンペーン(ヤミ手当や職場慣行の暴露)が始まり、分割・民営化に対する肯定的な世論形成に寄与した。
82年2月5日、自民党は国鉄基本問題調査会の下に国鉄再建小委員会を設置し、労使関係を重点に調査・審議を進め、7月2日に「国鉄再建のための方策」を提出したが、それは国鉄の経営改善計画の最終年度である85年度を目標に「現体制の下で改善努力する」とあり、それが不可能な場合、87年度を目途に国鉄を北海道、本州、四国、九州の4つに分割・民営化するというものだった。
1−2.臨調「基本答申」と政府・各党の対応 臨調の第四部会は1982年5月17日に電電公社・専売公社の民営化、国鉄の分割・民営化を旨とする報告書を提出。手直しを経て7月30日の臨調基本答申(第三次)に盛り込まれた。「単なる現行制度の手直しでなく、公社制度そのものの抜本的改革を行い、民営ないしそれに近い経営形態に改める必要がある」というスタンスで、分割は「七ブロック程度」、国鉄再建監理委員会を行政委員会から附属機関へと変更した。(筆者註:行政委員会は国家行政組織法第三条に規定され、独立性と中立性の担保が求められるため、強い権限を犠牲にしてでも政府への従属を重視したものと見られる)
国鉄を民営化する理由として、「経営者の経営責任の自覚と経営権限の確保」「職場規律を確立し、生産性を高めること」「政治や地域住民の過大な要求や外部介入を排除」に適した形態であること、「幅広く事業の拡大を図ることによって、採算性の向上に寄与することができる」経営形態であることを挙げている。
同時に分割化の理由として、現在の巨大組織では管理の限界を超えていること、管理体制が地域の実態とかけ離れた「全国画一的な運営に陥りがちであること」、「地元の責任と意欲を喚起すること」が分割で可能となる、という三点を示している。
82年9月24日、基本答申に基づいて政府は「非常事態宣言」を発し、「国鉄再建関係閣僚会議」の設置を決め、11月19日の閣議で「国鉄再建監理委員会設置法案」を決定、12月7日に中曽根首相を本部長とする「国鉄再建推進本部」が設置された。
臨調の基本答申を受けての野党各党の見解は次の通り。
社会党「三公社の民営・分割は利用者に利益をもたらさず反対」
公明党「答申の基本的方向性はおおむね妥当」
民社党「国鉄再建監理委員会は全面的権限をもつ強力な機関にすべき」
共産党「断固として反対していく」
1−3.国鉄再建監理委員会の設置と緊急提言 国鉄再建監理委員会設置法は、83年5月13日に可決、成立。監理委員会は、運輸省などからの反対もあって、三条委員会(庁と同格)から八条委員会(審議会級)にされるが、「限りなく三条に近い八条」と規定された。監理委員会は83年6月10日に発足するが、そのメンバーは亀井正夫委員長(住友電工会長)を筆頭に、加藤寛(慶應大学教授)、隅谷三喜男(東京女子大学学長)、住田正二(運輸事務次官)、吉瀬維哉(日本開発銀行総裁)の五人。
(筆者註:このうち亀井、加藤、住田が積極派、隅谷と吉瀬がやや慎重という色分けだったようだ。当時、運輸省は消極派がやや大勢を占め、大蔵省は債務負担に難色を示していた。)
監理委員会は83年8月2日に「国鉄再建のための緊急措置について」を提言するが、経営合理化を要求するにとどまり、当時実施中だった国鉄の「経営改善計画」の破綻が明らかになった後、84年8月10日の第二次提言で分割・民営化の基本方針が盛り込まれた。
国鉄側では、84年6月21日に仁杉国鉄総裁が基本的に分割・民営化に賛成との見解を表明。同盟系の鉄道労働組合(鉄労)も6月26日の中央委員会で、地域本社制と特殊法人への転換、国鉄自らによる分割・民営化の推進を提言した。
84年8月10日の第二次提言は同月14日の閣議で了承されるが、社会党と共産党は分割・民営化に
に反対を表明、公明党と民社党は提言を評価し妥当な内容との談話を発表した。
1−4.国鉄再建監理委員会の最終提言 監理委員会は85年7月26日に「国鉄改革に関する意見‐鉄道の未来を拓くために」と題する最終答申を中曽根首相に提出した。答申提出直前に総裁を辞任した仁杉氏は「再建監理委員会と話し合える機会がなかった」と記者会見で話しており、国鉄当局が無視されていた経緯が見える。答申は、現行制度の下での再建は不可能であるとして、分割・民営化は不可避との基本方針を示した。具体的内容では、旅客会社の地域6分割、バス・貨物・新幹線などの18分割、計24分割案が提起された。
答申を受けた政府は85年10月11日の閣議で「国鉄改革のための基本方針」を決定、分割・民営化の時期を87年4月1日として、必要な法案を提出する方針を決めた。
分割・民営化については、自民党、新自由クラブ、民社党、公明党が賛成。当初反対していた社会党は、85年初めから独自案の検討を開始、86年には全国一社制の株式会社化を目指す案を発表。86年6月の衆参同日選に際して田辺書記長は、政府案を練り直すなら社会党案にこだわらないと、条件付きの分割・民営化を容認する発言を行い、これが国鉄労働組合(国労)を分裂に導く一つの原因となる。また、共産党は分割・民営化に最後まで反対した。
2.分割・民営化路線と国鉄当局の対応
2−1.国鉄労務問題 82年初頭からマスコミによる国鉄批判キャンペーンが本格化し、2月5日には自民党は三塚委員会(国鉄再建小委員会)を発足、労使関係の調査と指針の作成を始めた。(筆者註:マル生運動=70年代に始まった「生産性向上運動」のこと、管理側と国労・動労が激しく対立、後に「スト権スト」へと発展してゆく)
7月19日には総裁通達で現場協議協約の改訂案が示されるが、国労はこれを拒否して交渉決裂、82年11月30日には協定が失効するが、動労・鉄労・全国鉄道施設労働組合(全施労)は国鉄当局案で協定を締結した。
当初、国鉄当局は既存の労使関係を前提に、労使関係の改善と人員削減を中心とした合理化の促進によって分割・民営化を免れると判断していたが、臨調改革はこれを否定していた。83年11月25日に臨調や監理委員会に批判的だった木文雄総裁が辞任。分割・民営化に賛成する仁杉新総裁が就任した(85年6月まで)。
これらに並行して貨物経営の合理化、ダイヤ改正、人員削減、地域別運賃制の導入などが進められた。余剰人員対策は1984年10月に実施されるが、動労・鉄労・全施労とは交渉が妥結する一方で、国労、全動労、動労千葉とは交渉打ち切りになり、同三者に対しては「雇用安定等に関する協約」を破棄する通告がなされた。86年3月には当局から広域異動も提案され、87年1月末の集計では希望退職者は3万1476人と予定の2万人をはるかに超えた。
2−2.国鉄当局の独自案 1985年1月には国鉄当局が改革案「経営改革基本方策」を提出。政府出資による全国一社制の民営化であったが、政府や監理委員会は受け入れることなく、マスコミや左右各政党から批判にさらされ、逆に政府・自民党に国鉄首脳陣の一新を決意させるに至った。監理委員会の最終答申が出される約一か月前の85年6月21日に仁杉国鉄総裁は辞任、次いで首脳陣の分割反対派は一掃され、運輸省事務次官の杉浦喬也が新総裁に任命され(任命権限は運輸大臣)、分割・民営化の実施体制が確立した。
3.分割・民営化と国鉄労働組合運動 国鉄分割の目的の一つは、巨大労組の解体にあったが、労使協調派の鉄労も最初から分割・民営化に賛成していたわけではなかった。マスコミの批判は国鉄労働者の不正を暴き、現場協議制を諸悪の根源として、経営者を「無能ぶり」に焦点を当てることで成立していたが、鉄労側が国労や動労を内部告発すると言った組合間の対立も深刻だった。
3−1.労働組合の国鉄再建案 動労は、1984年と85年の運動方針で分割・民営化に反対していたが、86年7月の大会方針で分割・民営化容認に転じた。鉄労は、83年以前は同問題に触れておらず、84年の大会で民営化を容認、85年の大会で分割・民営化を容認した。
国労は、83年1月に「国鉄研究会」を発足させ、84年10月5日に全国一社制の事実上民営化を容認する「国鉄の経営再建に関する提言」が完成するが、自らの方針に反するとしてこれを否定した。85年3月の中央委員会では分割・民営化に反対する再建案が承認されている。
社会党は84年10月5日の「国鉄再建プログラム」で分割・民営化を批判していたが、85年8月21日に同党国鉄再建対策委員会が提出した対策では分割阻止に重点が置かれ、政府出資の企業としながらも部分的に民営を容認した。同時期に公明党が民営化に賛成しながらも分割に慎重な姿勢を見せていたことに対応したものと見られる。
同時期に総評が主体となって「分割・民営化反対闘争」「5000万署名運動」が起こるが、分割(のみ)反対と分割・民営化反対の対立が起こるが、総じて市民運動は一定の盛り上がりを見せた。
3−2.労働組合の再編 1986年1月13日に国鉄当局は「労使共同宣言」を用意して、各組合のトップと会談を行った。鉄労、動労、全施労は調印し、批判を浴びた動労は7月の総評大会で脱退した。他方、国労は全面否定し、再建闘争と雇用問題に全力を注ぐとした。
86年1月28日には政府・自民党の国鉄改革法案と、社会党の非分割・株式会社化を内容とする対案が発表された。社会党案は国労の中央委員会で賛成多数で支持されたものの、反対意見も強かった。
国鉄当局が広域配転を募集し、三組合が協力、国労が抵抗する中で、国労からの脱退者が出始め、86年4月13日には国労脱退者約1200人が「真国鉄労働組合」を結成し、三組合と共同歩調を取り、7月18日には鉄労、動労、全施労、真国労の四組合で「国鉄改革労働協議会」(改革労協)が結成された。これは新会社発足後に「一企業一組合」を目指す方針だった。
1986年7月6日に行われた衆参同日選の結果、自民党が圧勝し、分割・民営化の既定路線が明らかになってくると、国労からの脱退や内部分裂が加速する。改革労協が争議権行使の自粛と引き替えに労使協議を始める中、国労は当局との雇用安定協定を失効させたままであり、国労組合員の雇用不安は高まる一方だった。ところが、労使協調派の離脱が進む中で、国労内には分割・民営化反対派が相対的に勢力を増し、86年10月9日の国労第50回臨時大会では分割・民営化反対の方針堅持が決定してしまい、執行部は総辞職、旧主流派が国労を大挙脱退して、さらに分裂が進んだ。85年12月には7割あった国労の組織率は、86年10月には5割を切り、87年2月には3割を割った。
4.国鉄改革法案の成立 1986年9月11日、政府は国鉄改革関連法案を臨時国会に提出した。87年4月1日付けで、旅客六社と貨物会社を分離、新幹線は保有機構を設置して一括保有で貸し付け、現国鉄は新事業体を分離した後に清算事業団となり、北海道、四国、九州の三社については経営安定化基金を設立するという内容だった。主な争点は、分割・民営化の是非、長期債務の処理、新会社の収支予測、国鉄用地の処分方法、職員の新会社への移行と再就職などだった。
社会党は「非分割・民営化」の独自案を提出、共産党は徹底抗戦、公明党は分割・民営化に賛成だが本州二分割案を提唱した。
民営化に際して職員をそのまま引き継いだ電電公社や専売公社のケースと異なり、国鉄職員の中から21万5千人を選別採用することになっていた上、国鉄の労使は新会社の採用基準や労働条件について団体交渉できないことになっており、新会社に採用されない職員は自動的に清算事業団に移って再就職の斡旋を受けるが、採用計画は不明確だった。
衆参両院の国鉄改革特別委員会を中心に、衆議院では約56時間、参議院で約46時間の審議で採決され(筆者註:国会の常識では重要法案は100時間近くの審議が目処とされる)、86年11月28日、参院本会議で国鉄改革8法案は自民党、公明党、民社党、新政クラブ、サラリーマン新党などの賛成多数で可決、成立した。